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✩ 星編みの魔法使い ✩  作者: 七瀬朔
第一章

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第5話 外壁の内側に潜む魔獣

 街の外壁に近づくにつれ、人通りは少なくなっていった。


 高い石壁が朝の日差しを遮り、細い路地には冷えた空気が溜まっている。


 シャロウは有紗と紫音より少し前を歩いていた。


 昨日まで弱っていたとは思えない足取りで、迷うことなく路地を進んでいく。


「こっちだ」


 角を曲がると、石畳に黒ずんだ血の跡が残っていた。


 壁際には、鋭い爪で抉られたような傷が三本、深く刻まれている。


「ここで襲われたの?」


「ああ」


 有紗が血の跡へ近づこうとすると、シャロウの腕が目の前へ伸びた。


「近づくな」


「でも、見ないと分からないよ」


「お前が見ても分かんねえだろ」


「そうだけど……」


「見るのは紫音に任せろ」


 紫音はシャロウに指図されたことが気に入らないらしく、僅かに眉を寄せた。


「あなたに言われなくても調べます」


「なら、有紗を下がらせろ」


「その点については同意します。有紗、こちらへ」


 二人の意見が珍しく一致した。


 有紗は少し不満そうにしながらも、二歩ほど後ろへ下がった。


 紫音は壁の傷へ顔を近づけ、付着していた黒い毛を摘み取る。


「爪痕は三本。体毛の太さから考えても、大型ですね」


「昨日のは、その辺の屋根くらいあった」


「随分と大きいですね」


「だから怪我したんだ」


「お腹が空いていたからじゃなくて?」


「まだ言うのかよ」


 シャロウが振り返り、有紗を睨む。


「だって、食べたらすぐ元気になったから」


「あれは元から大した傷じゃなかった」


「血、いっぱい出てたよ」


「お前が治しただろ」


 有紗は少しだけ嬉しそうに笑った。


「うん。ちゃんと治ってよかった」


 シャロウは何か言いかけ、結局、顔を背けた。


 紫音は二人の会話を聞き流しながら、地面へ視線を落としている。


「魔獣はどちらから来ました?」


「路地の奥だ」


「外壁とは反対方向ですね」


「追いかけてきたんだ。最初に見つけたのは壁の近くだ」


 シャロウが顎で先を示す。


 三人はさらに狭い道を進んだ。


 建物が途切れた先には、外壁に沿って細長い空き地が広がっている。放置された木箱や壊れた荷車が積まれ、雑草が膝の高さまで伸びていた。


 シャロウが足を止める。


「昨日は、ここにいた」


 紫音は周囲を見回した。


「外壁を越えた痕跡はありませんね」


「土が新しい」


「では、地下の通路から?」


「たぶんな」


 シャロウが雑草を踏み分けて進む。


 その足が、ふいに止まった。


「……いる」


 外壁沿いに積まれた木箱のさらに向こう。


 崩れた石組みの奥から、低い唸り声が響いた。


 暗がりの中で、何かが動く。


「有紗、下がって――」


 次の瞬間、巨大な前脚が開口部から踏み出した。


 進路を塞いでいた木箱が、まとめて弾き飛ばされる。


「……大きい」


 昨日、話を聞いたときには想像できていなかった。


 シャロウが怪我をしたのも無理はないと思えるほどの巨体だった。


 狼に似た黒い頭部が木箱の向こうから持ち上がる。


 肩から突き出した歪な角が、外壁を背にしてなお高く見えた。


「動くな!」


 強く腕を引かれ、有紗の身体がよろめく。


 直後、頭上から巨大な爪が落ちてきた。


 剣がそれを受ける。


 耳を打つ激しい音とともに火花が散った。


「シャロウ……!」


挿絵(By みてみん)


 近すぎて、魔獣の全身が視界に収まらない。


 長い爪。


 剥き出しになった牙。


 黒い体毛の奥で隆起する筋肉。


 その前に立つシャロウが、ひどく小さく見えた。


「紫音!」


「分かっています。有紗、こちらへ」


 後ろへ引かれる。


 次の瞬間、爪が振り下ろされた。


 石畳が砕け、破片が跳ねる。


 だが、そこにシャロウはいない。


 黒い外套が魔獣の懐へ潜り込む。


 一閃。


 巨体の脇腹が裂け、黒い血が飛んだ。


 魔獣が吠えた。


 空気まで震えるような声に、有紗は思わず耳を塞ぐ。


 それでも倒れない。


 傷ついた獣は身体を大きく捻った。


「シャロウ!」


 太い尾が横薙ぎに迫る。


 剣の腹で受けた瞬間、シャロウの身体が地面から浮いた。


 数歩分を一気に押し戻され、靴底が石畳を削る。


 有紗は反射的に駆け出しかけた。


「平気だ。そこにいろ」


「でも――」


 魔獣が再び前脚を持ち上げる。


「来んな!」


 鋭い声に、足が止まった。


 昨日はあれほど血を流していた。


 傷は治した。


 けれど、目の前にいるものを見れば、それだけで安心できるはずがない。


 有紗は胸元で指を握った。


 隣で紫音が片手を掲げる。


「少しだけ止めます」


 淡い光が地面を走った。


 幾筋もの光が魔獣の四肢へ絡みつく。


 巨体が大きく揺れた。


「長くはもちません」


「十分だ」


 黒い外套が、地を這うように魔獣との距離を詰めた。


 魔獣が光を引きちぎろうと暴れる。


 一本、また一本と光が千切れていく。


 それより先に、その姿が巨体の下へ潜り込んだ。


 有紗には剣先が一度、光ったようにしか見えなかった。


 魔獣の喉元から黒い血が噴き出す。


 巨体が傾いた。


「……!」


 紫音が有紗を引き寄せる。


 次の瞬間、魔獣が地面へ倒れ込んだ。


 石畳が震え、土埃が舞い上がる。


 しばらくして、辺りに静けさが戻った。


 有紗は紫音の腕から顔を上げた。


 倒れた魔獣の向こうに、シャロウが立っている。


「……終わった?」


「ああ」


 有紗は紫音の腕から抜け出し、すぐに駆け寄った。


「怪我してない?」


「してねえ」


「本当に?」


「見れば分かるだろ」


「昨日も大丈夫って言ってたのに、倒れそうだったでしょう?」


「あれは腹が減ってただけだ」


 言ってから、シャロウが口を閉じた。


 有紗が目を丸くする。


「自分で言った」


「うるせえ」


 シャロウは気まずそうに剣の血を払い、鞘へ収めた。


 紫音は倒れた魔獣の身体を確認している。


「昨日の個体とは別ですね」


「ああ。大きさも毛の色も違う」


「少なくとも二体が、すでに外壁の内側へ侵入していたことになります」


 紫音の表情が険しくなる。


「他にもいるのかな」


 有紗が周囲を見回す。


「ここにはいねえ」


「分かるんですか?」


「近くにいりゃな」


 シャロウは弾き飛ばされた木箱の向こうへ目を向けた。


「奥までは分かんねえ」


 そう言って、雑草を踏み分けて奥へ進む。


 崩れた石組みの向こうに大きな開口部が現れる。


 半ば土砂に埋もれているものの、幅は荷車が並んで通れそうなほどある。天井も高く、奥は光の届かない闇へ続いていた。


「これだ」


 紫音が近づき、内部を覗く。


「旧排水路……」


「知ってるのか」


「この一帯で使われていたものです。大雨の際に大量の水を城外へ逃がすための水路で、十年以上前に封鎖されたはずですが」


「塞がってねえぞ」


「見れば分かります」


「なら最初から言えよ」


 紫音は石組みへ触れ、僅かに顔を曇らせた。


「外側の入口が崩れ、再び通れる状態になったのでしょう。内部にも複数の分岐があります」


「すぐ塞げる?」


 有紗が尋ねる。


「状態を確認しなければ判断できません。内部に別の魔獣が残っている可能性もあります」


「俺が見てくる」


「一人では許可できません」


「お前が来ても足手まといだろ」


「内部構造を把握しているのは私です」


「十年前の図面だけだろ」


「あなたは図面すら持っていません」


 二人の間に険悪な空気が流れる。


 有紗は交互に顔を見た。


「二人で行けばいいんじゃない?」


「嫌です」


「嫌だ」


 返事だけは同時だった。



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