第38話 研究棟の剣士【前編】
朝食の席に、湯気の立つスープが並んだ。
リネットはいつも通り、皿の位置を整え、焼き直したパンを籠へ入れ、香草茶を人数分注いでいく。
いつも通りの朝だった。
ただ一つ、紫音がまだ食堂へ来ていないことを除けば。
有紗は廊下の方へ目を向けた。
昨夜、紫音は黒い首輪の解析結果をまとめると言って研究室へ入った。それから一度も姿を見ていない。
「紫音くん、まだ研究室?」
「はい」
リネットは香草茶の器を紫音の席へ置いた。
「先ほどお呼びしましたが、追加の確認が必要だと申しておりました」
「ご飯、冷めちゃうね」
「冷める前に、お連れいたします」
穏やかな声だったが、有紗には逆らえない響きが分かった。
向かい側では、シャロウが何食わぬ顔でパンをちぎっている。
有紗の左隣では、リュシアンが静かに香草茶へ口をつけていた。
「放っとけよ。腹が減ったら来るだろ」
「来ないから呼ぶのでございます」
「子どもかよ」
「シャロウ様も、似たようなものでございます」
「あ?」
有紗が少しだけ笑った、その時だった。
食堂の扉が開き、紫音が記録紙の束を抱えて入ってくる。
「紫音博士」
リネットが、にこりと微笑んだ。
「今朝は、今、お召し上がりくださいませ」
「首輪の追加解析が」
「今でございます」
紫音は口を閉じた。
「……分かりました」
紫音は記録紙を食卓の端へ置き、席に着いた。
リネットは満足げに頷く。
「大変結構でございます」
「何か分かった?」
有紗が尋ねると、紫音は食前の水を一口飲んだ。
「大まかな構造は確認できました。ですが、まだ確定とは言えません」
「王宮の術式だったのか」
シャロウが言う。
「類似しています。王宮式そのものと断定するには、記録との照合が必要です」
「面倒だな」
「必要ですので」
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
澄んだ音が、研究棟の中へ響く。
リネットの手が止まる。
紫音が目を細めた。
シャロウはパンを置いた。
玄関に立っていたのは、王宮管理局の文官だった。
紺色の外套を着た細身の男と、その後ろに控える男。
二人とも、研究棟の朝にはひどく似合わない冷たさをまとっていた。
「紫音博士」
文官は丁寧に礼をした。
「朝早くに失礼いたします。森で回収された黒い首輪について、確認に参りました」
紫音は文官を食堂へ通した。
有紗は椅子に座ったまま、背筋を伸ばす。
リネットは静かに茶器を下げ、余計なものを机上から片付けた。
シャロウは椅子の背に腕をかけたまま、文官たちを見ている。
「まず、黒い首輪についてですが」
文官は記録用の薄い板を取り出した。
「魔獣の制御具に、王宮式に類する術式痕があるとの報告が入っております」
「まだ解析途中です」
紫音は言った。
「確定情報として扱われては困ります」
「承知しました」
文官は記録へ何かを書き留めた。
「それから、研究棟に滞在されている方についても確認しております」
その視線が、リュシアンへ向く。
「リュシアン・ノクス卿については、地方領より提出された療養記録を確認しております。黒焔安定石の調整対象、という扱いですね」
「えぇ」
リュシアンは静かに頷いた。
「紫音博士には、経過観察でお世話になっています」
「承知しております」
文官は短く答え、今度はシャロウへ視線を移した。
「こちらの方については、狩猟組合への登録は確認しております。ただ、王宮側への届け出がありません」
「彼は、私の協力者です」
紫音が答えた。
「正式な記録がありません」
「今、作成中です」
「事後登録ということですか」
「必要な手続きは行います」
文官は再びシャロウを見た。
「では、ご本人にも確認させていただきます。氏名は」
「シャロウ」
「家名は」
「ない」
「出身は」
「覚えてねぇな」
文官の眉がわずかに動いた。
「冗談を言っている場合ではありません」
「冗談じゃねぇよ」
シャロウは文官を見た。
「名前はシャロウ。家名はない。王宮の記録にもない。聞きたいことは終わりか?」
「いいえ」
文官は記録用の板へ視線を落とした。
「確認したいのは、あなたが有紗様の生活圏に常駐している理由です」
「彼は、私の協力者です」
紫音が言った。
「ですが、王宮側への届け出はありません」
「分かっています。ですが、得体の知れない人物であるかのような言い方は訂正してください」
紫音の声は冷たかった。
文官は紫音を見た。
「では、確認します。有紗・リーベル様の近くに、王宮側の身元照会を終えていない武装者が常駐している。これは事実ですね」
「事実です」
「では、なおさら確認が必要です」
「シャロウは……」
全員の視線が有紗へ向く。
危ない人ではない。
助けてくれたし、待ってくれた。
けれど、それをどう言えばいいのか分からなかった。
「シャロウは、変なものじゃありません」
文官が一瞬、目を瞬かせる。
「もの、とはこちらは申し上げておりませんが」
有紗は唇を噛んだ。
「有紗、いい」
「よくない」
有紗はすぐに返した。
シャロウがこちらを見る。
「今の言い方、嫌だった」
食堂が静まり返る。
「有紗様。こちらは安全確認を行っているだけです」
「でも、聞き方が嫌です」
「危険かどうかを判断するために、記録が必要なのです」
「記録がないと、人は危ないの?」
「王宮の管理上は、そう判断されることがあります」
「じゃあ、その管理は変だと思います」
有紗の声は小さかった。
けれど、食堂の中ではっきりと響いた。
「有紗」
紫音が静かに名前を呼ぶ。
有紗は口を閉じた。
「シャロウは、私の研究棟における臨時協力者です。魔獣対応、外部護衛、不審術式調査補助。必要な書類は作成します」
「では、身元、滞在理由、役割について、三日以内に提出してください」
「分かりました」
文官は有紗へ視線を向けた。
「有紗様。王宮としては、あなたの安全を第一に考えております。身元の不確かな者を近くに置くことが、必ずしもあなたのためになるとは限りません」
「私のためかどうかは」
有紗はゆっくりと言った。
「私にも、考えさせてください」
文官はわずかに目を見開いたが、それ以上は何も言わなかった。
「失礼いたします」
紫音が無言で頷く。
王宮の男たちは食堂を出ていった。
玄関扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
しばらく、誰も動かなかった。
「……朝食が冷めました」
最初に口を開いたのは、リネットだった。
有紗は少しだけ笑いそうになった。
「温め直してまいります」
リネットは何事もなかったように皿を下げていく。
やがて、温め直されたスープの湯気が食堂に戻ってきた。
けれど、先ほどまでの空気まで元に戻ったわけではなかった。
「書類って……そんなに大事なの?」
有紗がぽつりと尋ねた。
「大事ですよ」
答えたのはリュシアンだった。
「私も、王宮の記録では地方領の療養者、黒焔安定石の調整対象です」
「本当は、それだけじゃないでしょう?」
「えぇ」
リュシアンは静かに笑った。
「ですが、その書き方があるから、私はここに滞在できる」
有紗は少し考える。
「じゃあ、シャロウも?」
「紫音博士が研究棟の協力者として書けば、少なくとも『身元不明の剣士』だけではなくなります」
「……同じシャロウなのに」
「同じシャロウさんです」
有紗は少し考えてから、スープを口に運んだ。
少し煮詰まっていた。
けれど、温かかった。




