第34話 少しだけ、サボり
翌朝、シャロウは朝食の席で、有紗の様子を何度か窺っていた。
昨日の森で十二体の首輪をまとめて外したというのに、今のところ変わった様子はない。
「……何?」
有紗がパンを持ったまま、首を傾げた。
「見てない」
「見てたよ」
「見てねえ」
「今も見てる」
有紗に指摘され、シャロウは面倒そうに顔を背けた。
紫音は二人のやり取りを聞き流しながら、食後の記録紙を整えている。
「有紗。朝食後、少し時間をください」
「え」
有紗の手が止まった。
「昨日の件について、シャロウたちから報告は受けています。ですが、あなた自身からも詳しく話を聞きたい」
「私からも?」
「はい。それと、魔力循環の確認もします。昨日は複数の対象へ同時に魔力を使ったと聞いています。念のため、検査しておきましょう」
「……検査もするの?」
「します」
有紗は少しだけ肩を落とした。
「紫音くん」
「はい」
「私……今日は、外に出たいの」
紫音の筆先が止まった。
リネットも、食器を片づけながら有紗を見る。
「何か用事が?」
「……すごく、良いお天気だから」
有紗は窓の外を見た。
研究棟の庭には、朝の光が落ちている。
雨上がりでもないのに、葉の一枚一枚が妙に明るく見えた。
「検査は午後でも構いません」
紫音が静かに言った。
有紗の顔が少し明るくなる。
「本当?」
「はい。ただ、昨日の今日です。一人で遠くへ行くのはやめてください」
「お散歩だよ?」
「でしたら、誰かと一緒に」
有紗は少しだけ唇を尖らせた。
「ひとりで行ってみたかったのに」
紫音の視線が、自然にシャロウへ向いた。
シャロウは露骨に嫌そうな顔をした。
「俺を見るな」
「適任でしょう」
「昨日も魔獣相手に走り回ったんだぞ」
「では、近場でお願いします」
「勝手に話を進めるな」
有紗がシャロウを見る。
「……シャロウ、嫌?」
シャロウは深く息を吐いた。
「嫌とは言ってねぇ」
「じゃあ、一緒に来てくれる?」
「……分かったよ」
有紗の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう!」
「礼言うほどのことじゃねえ」
リネットは微笑みながら、有紗の外套を用意した。
「では、お昼までにはお戻りくださいませ」
「うん」
シャロウは有紗より先に玄関へ向かった。
◇
研究棟を出たものの、特にどこか、行く宛てはなかった。
有紗は門の前で足を止め、深く息を吸った。
朝の空気。
遠くを走る荷車の音。
通りの向こうから聞こえる人の声。
木々の葉が擦れる音。
どれも、研究棟の中とは違っていた。
「で?」
シャロウが横から声をかける。
「どこ行くんだよ」
「……決めてない」
「決めてねぇのかよ」
「だって、お散歩だから」
「散歩でも、普通は行く方向くらい決めるだろ」
「そうなの?」
「そうだろ」
有紗は少し考え、通りの先を見た。
「じゃあ、あっち」
「理由は?」
「明るいから」
「雑だな」
そう言いながらも、シャロウはその方向へ歩き出した。
有紗は慌てて後を追う。
広場へ向かう道には、朝の支度をする店が並んでいた。
干した布を軒先へ広げる女。
籠いっぱいの果物を運ぶ少年。
開店前の屋台から立ち上る湯気。
有紗はその一つ一つに足を止めそうになり、そのたびにシャロウに促された。
「前見て歩け」
「あのお花、何だろう」
「知らねえ」
「あっちの匂い、甘い」
「昼前から食う気か」
「見てるだけだよ」
「見てるだけの奴は、そんな顔しねえ」
そう言われて、有紗は自分の頬に手を当てた。
その時、通りの端で小さな泣き声が聞こえた。
有紗が足を止める。
「……子ども?」
「また何か見つけた顔すんな」
「だって、泣いてる」
有紗は声の方へ駆け寄った。
広場へ続く通りの角に、小さな女の子が一人で立っていた。
手には布の人形を握りしめ、今にも泣き出しそうな顔で辺りを見回している。
「どうしたの?」
有紗が膝を折って声をかけると、女の子は涙で濡れた目を上げた。
「おかあさん……」
「はぐれちゃったの?」
女の子が小さく頷く。
「大丈夫。一緒に探そう」
有紗がそっと手を差し出すと、女の子は迷ったあと、その指を握った。
シャロウが二人のそばへ来る。
「どこではぐれた?」
「……くだもの」
「果物の屋台か」
女の子が頷いた。
「母親の服、覚えてるか?」
「青い……スカート」
シャロウは広場の人混みへ目を向けた。
「有紗、その子とここにいろ」
「うん」
「俺が見てくる」
シャロウは人の流れの中へ入っていった。
有紗は女の子と一緒に、しばらくその場で待った。
何度か人波が途切れるたび、女の子は期待するように顔を上げる。
けれど、母親の姿はない。
「大丈夫だよ」
有紗は繋いだ手を少しだけ握り直した。
「きっと見つかるから」
少しして、広場の向こうからシャロウが戻ってくるのが見えた。
その隣には、青いスカートの女性がいた。
「ミナ!」
「おかあさん!」
女の子は有紗の手を離し、母親の胸へ飛び込んだ。
母親は何度も礼を言いながら、娘を抱き締める。
「ありがとうございました。本当に……」
「見つかってよかったです」
有紗はほっとしたように笑った。
親子が人混みの向こうへ消えていくまで見送ってから、シャロウが有紗を見る。
「満足したか」
「うん」
「じゃあ帰るか」
有紗の表情が、そこで止まった。
「……帰る?」
「昼までに戻るんだろ」
「そうだけど」
有紗は広場の方を見た。
まだ、何もしていない。
ただ歩いて、迷子の子を見つけて、母親のところへ返しただけだ。
外に出たのに、まだ外にいる気がしない。
「紫音くん、待ってるよね」
「ああ」
「検査も、午後に回してくれたし……リネットも、お昼ごはん用意してくれてると思う」
どれも、有紗を大切にしてくれているから用意されたものだった。
だから余計に、振りほどきにくい。
「……帰らなきゃ」
そう言いながら、有紗の足は動かなかった。
シャロウは少しだけ有紗を見る。
「で?」
「え?」
「お前は帰りたいのか」
有紗は言葉に詰まった。
「……分かんない」
「じゃあ、帰らなくていいんじゃねぇの」
「いいの?」
「良くはねぇだろ」
「だめじゃない」
「だめだからサボりなんだろ」
有紗は目を丸くした。
「サボり……」
「もう流れ的にはサボってる」
「まだ決めてないよ」
「じゃあ今決めろ」
有紗は広場を見た。
人の声。
屋台の色。
風に揺れる布飾り。
子どもたちの笑い声。
「……少しだけ」
「少しだけ、な」
「本当に少しだけ」
「はいはい」
シャロウはそう言いながら、広場の方へ歩き出した。




