第33話 黒い首輪
森の入口には、すでに数人のハンターが集まっていた。
その中にはディアナの姿もある。
彼女は木の根元にしゃがみ、土に残った跡を確かめていた。
シャロウに気づくと、顔を上げる。
「遅かったじゃない」
「杖を買ってた」
「杖?」
ディアナの視線が、有紗の手元へ向く。
有紗は少しだけ杖を持ち直した。
「音が鳴らない杖です」
「……何それ」
「説明すると長い」
シャロウが遮るように言った。
「痕跡は?」
ディアナはそれ以上聞かず、森の奥を顎で示した。
「北東へ続いてる。ただ、まっすぐじゃないわ。途中で何度か進路を変えてる。逃げてるというより、何かに引っ張られているみたい」
リュシアンが森の方へ目を向けた。
「黒焔に似た気配も、そちらです」
「……レアさんの黒焔じゃないんだよね?」
「はい。似ていますが、違います」
有紗は森の奥を見つめた。
「有紗さん。見つけても、すぐに触れようとしないでください」
「……治せるかもしれないのに?」
「首輪が反応する可能性があります」
シャロウも続ける。
「今回は、助けたいと思ったらまず聞け」
「シャロウか、リュシアンさんに?」
「ああ」
「分かった」
有紗は頷いた。
シャロウが剣の柄へ手を添えた。
「行くぞ」
三人は、ハンターたちと共に森へ足を踏み入れた。
森の中は、昼間だというのに薄暗かった。
木々の枝が空を覆い、足元には湿った落ち葉が積もっている。
有紗は新しい杖を握りしめ、前を行くシャロウの背中を追った。
歩いても、音は鳴らない。
それだけのことなのに、少し心強かった。
「シャロウ」
少し先を歩いていた男が、振り返った。
槍を担いだ、年嵩のハンターだった。
顔には古い傷があり、目つきは鋭いが、シャロウを見る表情にはどこか気安さがある。
「お前が誰かと一緒に歩いてるの、久しぶりに見たな」
「うるせぇ」
「しかも二人も連れてる」
「黙れ」
男は低く笑った。
「そっちの嬢ちゃんが、例の研究棟の魔法使いか?」
有紗は思わず背筋を伸ばした。
「有紗です」
「おう。俺はガルドだ。無理はするなよ。こいつは危なくなったら説明より先に怒鳴る」
「分かります」
有紗が素直に頷くと、シャロウが眉を寄せた。
「分かるな」
「でも、分かるよ?」
「分かってんじゃねぇ」
ディアナが横で小さく息を吐く。
「本当に変わらないわね、あなた」
「今それ言う必要あるか」
ガルドも頷いた。
「まあ、口は悪いが判断は外さねぇ。こいつが止まれと言ったら止まれ。伏せろと言ったら伏せろ。理由は後で聞け」
有紗はシャロウを見た。
「シャロウ、信頼されてるんだね」
「されてねぇよ」
「されてるわよ」
「されてるな」
ディアナとガルドが同時に言う。
シャロウは嫌そうに舌打ちした。
「余計なことを言ってる暇があるなら痕跡を見ろ」
その一言で、空気が変わった。
ディアナはすぐに表情を引き締め、木の根元に膝をついた。
土には、深く抉れた跡が残っている。
「ここで一度暴れてる」
ディアナが言う。
「木の幹にも爪痕がある。けど、そこから急に向きを変えてるの。自分の意思で逃げたなら、こんな曲がり方はしない」
有紗は、黒い首輪を思い出した。
苦しそうだった。
怒っているというより、怯えていた。
誰かに従わされることから逃げようとして、それでも逃げられないように見えた。
「……痛かったのかな」
小さく呟くと、リュシアンが隣で静かに頷いた。
「おそらく」
彼は短杖を取り出し、先端を土の近くへ寄せた。
小さな黒い石が、わずかに鈍く光る。
「気配が残っています」
「黒焔か?」
シャロウが尋ねる。
「黒焔に似ています。ですが、やはり違います」
リュシアンの声は穏やかだったが、その目は真剣だった。
「燃やすためのものではなさそうです。縛って、何かを通している」
「首輪の術式か」
「おそらく。けれど、ただの制御具にしては痛みが強すぎる」
有紗は杖を握る手に力を込めた。
「外せないのかな」
「外す方法はあるはずです」
リュシアンは顔を上げた。
「ただし、触れれば反応する可能性があります。無理に壊せば、魔獣の方へ負担が返るかもしれません」
「じゃあ、どうすれば……」
「まずは、近づきすぎないことです」
シャロウが言った。
「見つけても走るな。触るな。泣きそうな顔で前に出るな」
「泣きそうな顔はしてないよ」
「する前に言ってる」
「……分かった」
その時だった。
森の奥で、枝が折れる音がした。
全員が動きを止める。
風ではない。
獣が踏み折った音でもない。
もっと、不自然に硬い音だった。
シャロウが片手を上げる。
止まれ。
誰も声を出さなかった。
有紗は息を詰める。
リュシアンは短杖を握り直し、ディアナは腰の剣へ手を添えた。
次の瞬間、黒い影が木々の間を横切った。
鹿に似た魔獣だった。
けれど、動きがおかしい。
足取りは速いのに、体の向きと進む方向が噛み合っていない。
首だけが不自然に引かれ、黒い輪が喉元で鈍く光っている。
「いた」
有紗が思わず前へ出かける。
「有紗」
シャロウの声が鋭く飛んだ。
「土壁。高さは膝。幅は三歩。あいつと俺たちの間だけだ」
「膝、三歩、間だけ」
有紗は杖を構えた。
「土よ、低く壁となれ」
唱えた声は、少し震えていた。
けれど、魔法は正確に形を取った。
魔獣と有紗たちの間に、低い土の壁がせり上がる。
高すぎず、広すぎず、ちょうど進路だけを塞ぐように。
魔獣が壁の前で足を止めた。
黒い首輪が、ぎしりと音を立てる。
「上出来だ」
シャロウが短く言った。
有紗はほっと息を吐きかけたが、すぐに魔獣の様子がおかしいことに気づいた。
魔獣は壁を越えようとしていない。
逃げようとしているわけでもない。
ただ、首輪に引かれるように、無理やり前へ進もうとしていた。
「やっぱり、あの子の意思じゃない……」
リュシアンは短杖を構え、首輪を見つめていた。
「留め具の内側に、黒い火の芯のようなものがあります」
「核か」
シャロウが言う。
「おそらく。そこを止められれば、命令が一瞬途切れるかもしれません」
「有紗」
シャロウが低く呼ぶ。
「氷。首輪全体じゃねぇ。留め具の奥だけだ。凍らせるな。霜を張らせる程度でいい」
「留め具の奥だけ。霜……」
有紗は小さく息を吸った。
強くしてはいけない。
広げてはいけない。
魔獣を傷つけてはいけない。
「霜を寄せ、薄く留めよ」
白い霜が、留め具の奥へ薄く降りた。
黒い光が、一瞬だけ鈍る。
シャロウはその瞬間を逃さなかった。
踏み込み、剣の柄で留め具を叩く。
金属とも骨ともつかない、嫌な音がした。
黒い輪が震える。
そして、小さく亀裂が入った。
「光を巡らせ、漏れるものを内に閉じよ」
有紗は咄嗟に呟いた。
壊れかけた首輪を、淡い結界が包み込む。
内側で黒い光が暴れたが、外へは漏れなかった。
ぱきん、と乾いた音がする。
首輪が崩れ落ち、鹿型の魔獣がその場に膝をついた。
「……外れた」
有紗が息を吐く。
しかし次の瞬間、森の奥でいくつもの黒い光が揺れた。
一つ、二つ、三つ。
それだけではない。
木々の影の中に、まだいる。
「有紗、待――」
シャロウが言い終える前だった。
有紗は真剣な面持ちで、ほんの少し指先を動かした。
そして、一度だけ瞬きをする。
首輪の核を壊して。
黒いものが漏れる前に包み込んで。
魔獣を傷つけないで。
ただ、そう思った。
次の瞬間、森のあちこちで乾いた音が重なった。
ぱきん。
ぱきん、ぱきん、と。
黒い首輪の光が、同時に消える。
木々の影にいた魔獣たちが、ほとんど同時に膝をついた。
崩れた首輪から、黒い靄のようなものが一瞬だけ漏れかける。
だが、それも淡い光に包まれ、すぐに潰えた。
誰も、声を出せなかった。
「……何が起きた?」
ガルドが槍を構えたまま呟く。
ディアナも目を見開いている。
「……今の、何?」
リュシアンは短杖を握りしめ、消えていく黒い気配を見つめていた。
「術式が、同時に切れています……」
「数を確認しろ!」
シャロウの声で、固まっていたハンターたちが一斉に動き出す。
倒れた魔獣の間を回り、外れた首輪と呼吸を確かめていく。
「こっちも外れてる!」
「こいつもだ!」
少し離れたところから声が飛んだ。
「十二! 全部で十二体だ!」
「生きてる! こっちもだ!」
有紗は倒れた魔獣たちを見回し、その顔からさっと血の気が引いた。
「怪我、してないっ?」
「魔獣だけに当たったみたいだな! 全員無事だ!」
少し大きめの声だった。
ディアナが怪訝そうにシャロウを見る。
「……魔獣だけ?」
「首輪だ。首輪だけだ」
シャロウは即座に言い直した。
有紗はほっと息を吐く。
シャロウはその顔を見てから、低く言った。
「……お前」
「……はい」
「勝手にやるな」
有紗が小さく肩を縮める。
「……ごめん」
少し間を置いて、足元へ視線を落とした。
「足、使わない方がよかった?」
シャロウの眉間に皺が寄る。
「そこじゃねぇ」
「……そっか」
ディアナがゆっくり二人を見る。
「何の話?」
「何でもねぇ」
「今ので?」
「今は魔獣を見ろ」
シャロウが言うと、ディアナはまだ何か言いたそうな顔をしたものの、すぐに表情を戻した。
首輪の外れた魔獣たちは、少しずつ呼吸を取り戻していた。
黒い命令に引きずられるような震えは消えている。
ただ怯えたように身を丸め、荒い息を繰り返していた。
「治癒は?」
有紗が小さく尋ねる。
「一体ずつだ」
シャロウはリュシアンを見る。
「黒い気配は?」
リュシアンは短杖を握ったまま、しばらく目を閉じた。
「近くには残っていません。首輪の反応も消えています」
「ならいい」
シャロウはディアナへ視線を向けた。
「見張りを頼む。変な動きがあったら止めろ」
「分かったわ」
有紗は倒れた鹿型の魔獣のそばに膝をつき、そっと杖を向けた。
「光よ、痛みを鎮めて」
今度はきちんと詠唱をした。
柔らかな光が、魔獣の身体を包む。
傷そのものは深くない。
けれど、首輪に締めつけられていた首元と、無理に動かされていた脚には負担が残っていた。
有紗はシャロウに見張られながら、一体ずつ丁寧に治癒をかけていった。
十二体すべてをまとめて治せる気はした。
けれど、それを言ったら、またシャロウに怒られる気がした。
だから言わなかった。
首輪に擦られた首元。
暴れた拍子に傷ついた脚。
黒い気配に怯え、まだ震えている身体。
早く終わらせようとはしなかった。
傷の深さも、痛む場所も、一体ずつ違うのだと、触れてみて分かったからだ。
治癒を終えた魔獣たちは、しばらくその場で身体を休めていた。
やがて一体が立ち上がり、森の奥へ消えていく。
それに続くように、残りの魔獣たちも少しずつ姿を消していった。
地面には、十二個の黒い首輪が残った。




