第3話 ほんの少し休むだけ
「傷は綺麗に塞がっています」
紫音はシャロウの腕を確認しながら、淡々と言った。
「多少の出血はありますが、それだけでここまで衰弱するとは考えにくい」
有紗が心配そうに、シャロウの顔を覗き込む。
「他にも怪我してるの?」
「してない」
「では、最後に食事をしたのはいつですか」
紫音が尋ねる。
シャロウは黙った。
「……ここまで、歩いてきたのですか」
「うん」
答えたのは有紗だった。
「薬舗のある通りから、ここまで?」
「うん。一緒に歩いてきたよ」
紫音はわずかに目を伏せ、それからシャロウへ視線を戻した。
「空腹と出血に加えて、あの坂を上がってきたのであれば、この状態にも説明がつきます」
有紗の表情が曇る。
「私、無理させちゃった……?」
「結果としては、少し」
「こいつのせいじゃない」
シャロウが低く言った。
紫音は静かに問い返す。
「では、御自身の状態を説明しましたか」
「……してない」
「そうですか」
紫音はそれ以上責めることなく、シャロウの腕から手を離した。
「まずは食事を取ってください。その後もしばらく、ここで休んでいただきます」
「もう動ける」
「今は、そう感じているだけかもしれません。帰る途中で、再び動けなくなる可能性があります」
「問題ない」
「先ほども、そう思って坂を上がってきたのでしょう」
シャロウは黙った。
「少なくとも、食後すぐに帰すことはできません」
紫音が言い切ると、シャロウは不満そうに眉を寄せたものの、それ以上は何も言わなかった。
ほどなくして、リネットが温かいスープとパンを運んできた。
白い湯気が、皿の上から静かに立ち上っている。
シャロウはしばらくスープを見つめていたが、一口飲むと、あとは早かった。
スープがなくなり、続けてパンも消える。
皿の上には、欠片ひとつ残らなかった。
有紗は向かいの席から、その様子をじっと見ていた。
「……足りない?」
「別に」
そう答えながら、シャロウの視線が有紗の皿へ落ちる。
有紗がパンを持ち上げると、その目も一緒に動いた。
「……これも、食べる?」
「いらない」
「でも、ずっと見てる」
「見てない」
「見てたよ」
シャロウは黙った。
有紗は少し迷ってから、自分のパンを差し出した。
「よかったら……どうぞ……?」
「いらない」
有紗は差し出した手を引かず、そのまま待っている。
やがてシャロウは、ひどく不本意そうな顔でパンを受け取った。
「……半分でいい」
「全部食べていいよ」
「お前の分だろ」
「私は、あとでまた食べられるから」
シャロウはパンと有紗を見比べ、それから無言で口に運んだ。
食べ終わるまで、それほど時間はかからなかった。
「おいしかった?」
「普通だ」
「よかった」
有紗が嬉しそうに笑う。
その横から、もう一つパンがシャロウの前へ置かれた。
紫音だった。
「……何だ」
「有紗の分まで食べないでください」
「いいって言われた」
「だから、こちらを食べてください」
シャロウは一瞬だけ黙り、結局そのパンにも手を伸ばした。
「怪我より、お腹が空いてた方が大変だったのかな」
「傷もあった」
「でも今、すごく元気そう」
「うるさい」
先ほどまで青白かった顔には、すっかり血色が戻っていた。
食事を終えると、シャロウは椅子から立ち上がろうとした。
「どこへ行くのですか」
紫音に問われ、動きが止まる。
「帰る」
「まだ駄目です」
「もう動ける」
「先ほどお伝えしました。食後もしばらく休んでいただきます」
シャロウは面倒そうに息を吐き、再び椅子へ腰を下ろした。
「どれくらいだ」
「少なくとも、体調に変化がないことを確認できるまでは」
「……長いな」
「坂道を上がらせた分も含めて、こちらで責任を持ちます」
その言葉に、有紗がますます申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、シャロウ」
「もういい」
シャロウは椅子の背へ身体を預け、目を閉じた。
しばらくして、厨房の方から香ばしい匂いが漂ってきた。
「今日の夕食は、骨付き鶏の香草焼きです」
食器を整えながら、リネットが何気なく言う。
「わーい!」
有紗の顔が一瞬で明るくなった。
「私、リネットの香草焼き大好き! 皮がぱりぱりで、中はとっても柔らかいんだもの。ね、紫音くん」
「ええ。美味しいですよ」
紫音まで淡々と同意する。
目を閉じていたシャロウが、わずかに片目を開けた。
「冷やした桃もありますよ」
「本当に?」
「ええ」
有紗は嬉しそうに笑い、それからシャロウを見る。
「シャロウも食べられるといいね」
「食うとは言ってない」
「でも、まだ休んでいないと駄目なんでしょう?」
シャロウは紫音を見た。
「少なくとも、もうしばらくは」
紫音が答える。
シャロウはしばらく黙り込んだあと、再び椅子の背へ身体を預けた。
「……なら、仕方ないな」
「夕飯も一緒に食べようね」
「だから、食うとは言ってない」
「うん」
有紗はまったく信じていない顔で頷いた。
リネットは何も言わず、四人分の皿を用意し始める。
紫音は深く息を吐いた。
シャロウは香草焼きの匂いが漂ってくる方へ、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
――ほんの少し休むだけ。
その時のシャロウは、まだ本当に、そのつもりだった。




