第26話 初めての現場にて
翌朝、リュシアンは自分の足で食堂まで下りてきた。
歩みは遅く、片手は胸元の黒い石を握っている。それでも、昨日のように息を詰まらせて蹲ることはなかった。
「おはようございます」
有紗が椅子から立ち上がる。
「歩いて大丈夫なの?」
「痛みはありますが……この程度なら」
リュシアンは微かに笑い、空いている椅子へ腰を下ろした。
顔色はまだ白く、動くたびに眉が僅かに歪む。
「試作品としては、最低限の役目を果たしています」
紫音がリュシアンの胸元へ目を向ける。
「ただし、強い発作を完全に防げるわけではありません。今日は経過を確認します。勝手に外さないでください」
「承知しました」
「痛みが増した場合も、我慢せず報告を」
「はい」
リュシアンが素直に頷いた時、玄関の扉を叩く音が響いた。
リネットが席を立ち、しばらくして一通の封書を手に戻ってくる。
「狩猟組合からです」
紫音は封を切り、内容へ目を通した。
「……街の北東にある森で、魔獣の異常行動が確認されたそうです」
シャロウが顔を上げた。
「異常行動?」
「本来なら縄張りを共有しない複数種が、同じ範囲を行き来しています。今のところ人への襲撃はありません。ハンターや兵士が近づくと、争わずに森の奥へ退くそうです」
「群れじゃねえのか」
「種類が違います。互いに捕食関係にある魔獣も含まれています」
シャロウの目つきが変わった。
野生の獣は、理由もなく習性を捨てない。
まして、敵同士が揃って同じ行動を取るなら、偶然では済まされない。
「狩猟組合は何て言ってる」
「生態の変化、魔力溜まりの発生、外部からの干渉。そのいずれも否定できないため、調査を依頼したいと」
「で、俺に行けって?」
「ええ。有紗も同行させます」
「待て」
シャロウが即座に顔を上げた。
「こいつを連れていく気か?」
「魔力による干渉であれば、有紗にしか分からないことがあります」
「……現場で使ったことは?」
「ありません」
「それを今から俺に預けんのかよ」
「現場経験はいずれ必要です」
「俺を訓練用に使うな」
「適任でしょう?」
「どこがだ!」
紫音は答えず、紅茶を一口飲んだ。
有紗は二人を見比べたあと、そっと手を上げる。
「私、行ってみたい!」
シャロウが訝しげに有紗を見た。
「……お前、外に出たいだけじゃねえだろうな」
「違うよ」
「本当か?」
「少しは外にも出たいけど……」
「やっぱりじゃねえか」
「でも、それだけじゃないよ」
有紗は紫音の持つ書面へ目を向けた。
「魔力が関わってるなら、私にしか分からないことがあるかもしれないでしょう?」
シャロウはなおも疑わしそうに有紗を見ている。
「ピクニックじゃねえぞ?」
「分かってるよ」
「魔獣の出る森だ。何が起きるか分からねえし──」
「勝手に動かないし、シャロウの言うことも聞く!」
「……本当だな?」
「本当」
シャロウはしばらく有紗の顔を見つめ、やがて諦めたように息を吐いた。
「俺から離れるな。何か見つけても、勝手に近づくなよ」
「分かった!!」
「あと、知らねえ奴を拾ってくるな」
有紗は何も言わず、じっとシャロウの顔を見つめた。
「……俺を見るな!」
「でも、シャロウも知らない人だったよ?」
「俺は怪我して倒れてただろうが!」
「じゃあ、怪我してる人なら拾ってもいいの?」
「そういう意味じゃねえ! 見つけたら、まず俺を呼べ!」
「シャロウがいなかったら?」
「その時点で俺から離れてんじゃねえか!!」
「……たしかに」
「納得してんじゃねえ! 最初から離れるな!」
有紗は素直に頷いた。
リネットが困ったように笑いながら、二人のために携帯食を包み始めた。
◇
街の門を出ると、石畳の道はすぐに細くなった。
広い畑の向こうには、背の低い丘が重なっている。さらにその先に、深い緑の森が広がっていた。
有紗は歩きながら何度も辺りを見回していた。
「麦畑って、近くで見るとこんなに揺れるんだね」
「前見て歩け」
「あっちの白い花は?」
「知らねえ」
「ハンターなのに?」
「草花の名前まで全部覚えてると思うな」
有紗は少し残念そうに白い花を振り返った。
「帰りに少し見てもいい?」
「魔獣の調査が終わって、暗くなる前ならな」
「約束だよ」
「約束まではしてねえ」
森へ入ると、空気が変わった。
街道沿いの明るさは消え、頭上を覆う枝葉の隙間から細い光が落ちている。
シャロウは足を止め、地面へ視線を向けた。
湿った土に、大きな足跡が残っている。
四本指の獣型。爪は深く、歩幅も広い。
その横には、二股に割れた蹄の跡が並んでいた。
「……やっぱり一緒に動いてやがる」
「違う魔獣なの?」
「ああ。片方は獣型、もう片方は角猪に近い。この距離で歩けば、普通ならどっちかが襲う」
有紗は足跡の前へ屈み込んだ。
「同じ方向に行ってるね」
「見りゃ分かる」
「そうじゃなくて……」
有紗が指先を土へ近づける。
「何か、引っ張られてるみたい」
「何に?」
「まだ分からない」
シャロウは森の奥を見た。
「先へ行くぞ。足跡から離れるな」
しばらく進むと、前方の茂みが揺れた。
低い唸り声が木々の間を這う。
灰色の毛に覆われた魔獣が姿を現した。
狼に似ているが、体格は馬に近い。肩から伸びた黒い棘が逆立ち、黄色い目がシャロウたちを捉えている。
シャロウは剣を抜き、有紗の前へ出た。
魔獣は逃げない。
こちらを窺いながら、少しずつ横へ回り込もうとしている。
殺意は薄い。
だが、近づかせる気もないらしい。
シャロウは魔獣から視線を外さず、低く告げた。
「有紗。あいつの気を逸らせるか?」
「やってみる!」
有紗は返事と同時に右手を上げた。
詠唱はなかった。
指先を小さく振っただけで、周囲の空気が一瞬にして張り詰める。
シャロウが異変に気づいた時には、すでに魔法は完成していた。
魔獣のすぐ脇へ、圧縮された風が叩き落とされる。
轟音が森を貫いた。
地面が内側から弾けたように爆ぜ、黒い土と枯れ葉が高く噴き上がる。周囲の木々が大きくしなり、鳥たちが一斉に飛び立った。
魔獣そのものには当たっていない。
風はその身体すれすれを外し、すぐ横の地面だけを深く抉っていた。
魔獣は飛び上がり、怯えた鳴き声を上げて森の奥へ逃げていった。
あとには、森を引き裂いたような長い溝だけが残った。
苔も草も根こそぎ吹き飛び、剥き出しになった土が深く沈んでいる。
シャロウは剣を構えたまま、動かなかった。
「……は?」
抉れた地面を見る。
大きく揺れる木々を見る。
それから、右手を下ろした有紗を見た。
「何だ、今の威力……」
「……あ、れ?」
「気は逸れたと……思うんだけど……」
その言葉で、シャロウもようやく逃げていく魔獣へ目を向けた。
「――逃がしたじゃねえか!!」
「追いかけよう!」
シャロウは有紗を見た。
有紗も、どこか納得のいかない顔でシャロウを見返した。
「…………森が、割れた」
「…………割るつもりはなかったよ」
互いに何か言いたげな沈黙が落ちる。
「……お前は次、森を割るな!」
「……分かった」
二人はなおも釈然としない顔のまま、同時に駆け出した。




