第24話 手をつないで帰ろう
気づけば、夜はすっかり深まっていた。
大通りの店も半分ほどは戸を閉ざし、軒先の灯りが一つ、また一つと消えていく。昼間は人で溢れていた道にも、今は仕事帰りの者や酒場へ向かう者が時折通るだけだった。
何軒目かの店先を通り過ぎようとした時、リネットが足を止めた。
「……いらっしゃいました」
その声に、有紗が顔を上げる。
通りの向こうに、まだ明かりのともった小さな酒場があった。
曇った窓の奥、壁際の卓に、見慣れた黒い影がある。
「シャロウ……」
有紗は駆け出しかける。
「私は、こちらでお待ちしております」
リネットは店の入口脇にある軒下へ寄った。
「何かございましたら、すぐにお入りします」
有紗は窓の向こうを見た。
シャロウは一人で食事をしている。
無事だと分かり、胸を撫で下ろす。
それでも、その姿はいつもよりずっと遠く感じられた。
「……行ってくるね」
「はい」
リネットは静かに頷いた。
有紗は店の扉へ手をかけた。
酒と煮込み料理の匂いが満ちた店内へ、冷たい夜気が流れ込む。
扉の前に立つ有紗へ、いくつもの視線が集まった。
淡い銀白の髪。
研究棟から慌てて羽織ってきた外套。
頬を赤くし、息を切らしながら店内を見回す姿は、仕事帰りのハンターや荷運び人が集まる店の中で、明らかに浮いていた。
低い笑い声と食器の触れ合う音が、徐々に小さくなる。
「……有紗?」
壁際の卓で、シャロウが目を見開いた。
有紗は彼を見つけると、ほっと息をつく。
いた。
無事だった。
そう思った途端、張りつめていたものが、一気にほどけた。
怒っていてもいい。
帰ってこないより、ずっといい。
「シャロウ……!」
有紗は周囲の視線も構わず、卓の間を駆け抜けた。
「おい、何で――」
立ち上がりかけたシャロウの胸元へ、勢いのままぶつかる。
「……は?」
シャロウの身体が固まった。
有紗はそのまま俯き、胸元の外套をぎゅっと掴んだ。
「私、シャロウの気持ち、全然考えずに……ごめんね」
「……何の話だよ」
何に対して謝られているのか分からない。
それ以前に、どうして有紗がここまで自分を探しに来たのかも分からなかった。
「だって、帰ってこなかったから」
有紗は外套を掴んだまま、顔を上げた。
「シャロウ、怒ってると思って」
「……それで探しに来たのか」
「うん」
あまりにも当然のように頷かれて、シャロウは言葉を失った。
「怒っててもいいの」
「は?」
「ちゃんと話せるなら、それでいい」
有紗の指先が、外套を握り直す。
「何も言わないで、いなくなる方が嫌」
それだけは迷わず言えた。
シャロウは黙って有紗を見る。
今度は、自分が帰ってこないというだけで、夜の街まで探しに来た。
何を考えてここまで来たのかは、相変わらずよく分からない。
「私、シャロウのこと、大切だよ」
「だから……一緒に帰ろう?」
シャロウは何も言えなかった。
近くの卓から向けられている視線にも、もう構っていられない。
「……お前な」
ようやく出た声は、思ったより弱かった。
「こんなところで、そういうこと言うなよ」
「どうして?」
「見られてんだよ」
有紗が僅かに顔を上げる。
その瞬間、周囲から一斉に視線を逸らされた。
「……本当だ」
「今さら気づいたのかよ」
どこからか、微かな笑い声が聞こえた。
シャロウは耐えきれず、深く息を吐いた。
「分かった。帰るから」
「本当?」
「ああ。帰る」
「はい」
有紗はようやく腕を緩め、シャロウから身体を離した。
そのまま一歩下がると、今度は彼の前へ手を差し出す。
「……なんだよ」
「手、つなご」
有紗は照れることなく、にっこりと微笑んだ。
「嫌だよ」
シャロウは即座に断った。
「何でだよ。子供じゃあるまいし」
「……そっか」
差し出されていた手が、ゆっくりと下がる。
有紗は寂しそうに目を伏せた。
その瞬間、近くの卓から深い溜息が漏れた。
続いて、別の卓からも。
気づけば店内のあちこちから、何とも言えない溜息が聞こえている。
「……何だよ」
シャロウが周囲を睨む。
誰も答えない。
男たちは気まずそうに杯や皿へ視線を落とした。
ただ一人、奥の卓にいた年嵩の男だけが、シャロウを見ながら呆れたように首を横へ振っている。
「何で俺が悪いみてえになってんだよ」
有紗は何も言わず、下ろしかけた自分の手を見つめていた。
「……分かったよ」
シャロウは耐えきれず、その手を取った。
「つなげばいいんだろ」
有紗の顔が、ぱっと明るくなる。
「うん!」
嬉しそうに握り返された途端、近くの卓から安堵したような笑い声が漏れた。
「よかったな、お嬢ちゃん」
年嵩の男が、杯を上げながら言う。
「ありがとうございます」
「礼言わなくていい!」
シャロウは卓へ代金を置き、有紗の手を引いて出口へ向かった。
背後からまた小さな笑いが聞こえたが、今度は振り返らなかった。
二人で夜の通りへ飛び出す。
扉が閉まっても、中から笑い声が聞こえていた。
「ったく、好き勝手言いやがって……」
「みんな、優しい人たちだったね」
「どこがだよ」
有紗は繋いだ手を嬉しそうに揺らした。
「仲直り、されたのですね」
すぐそばから聞こえた声に、シャロウの足が止まる。
店の入口脇、軒下にリネットが立っていた。
「……お前、見てたのか」
「店内には入っておりませんよ」
「答えになってねえ」
リネットは何事もなかったように微笑んだ。
「では、帰りましょうか」
リネットが研究棟の方角へ歩き出す。
有紗もシャロウの手を引き、その後へ続いた。




