第23話 救われた者の言葉
研究棟を出た有紗は、暮れた通りを走っていた。
「シャロウ!」
呼びかけても、返事はない。
灯りのともった店先。
細い路地。
昼間なら人通りの多い広場も、夜には別の場所のように静まり返っている。
シャロウがどこへ行くのか、有紗は知らなかった。
いつもどこを歩いているのかも。
研究棟へ来る前、どんな場所で眠り、どんなふうに一人で過ごしていたのかも。
知っているつもりで、知らないことばかりだった。
「有紗様」
背後から呼ばれ、有紗が振り返る。
少し離れた場所に、リネットが立っていた。
「リネット……」
「お一人で夜の街へ出てはいけません」
「ごめんなさい」
「お叱りするのは、戻ってからにいたします」
リネットは有紗の隣へ並んだ。
「シャロウさんが行きそうな場所に、心当たりはございますか?」
「……ないの」
有紗は小さく首を振る。
「でも、探したい」
「分かりました」
リネットは静かに頷いた。
「では、一緒に捜しましょう」
二人は並んで、夜の街を歩き始めた。
いくつかの通りを回っても、シャロウの姿は見つからなかった。
有紗は落ち着かない様子で、何度も周囲を見回している。
「シャロウさんのことが、随分と心配なのですね」
「あんなふうに出ていったの、初めてだから……」
「そうでございますね」
「私、何が悪かったのかな」
「それは、シャロウさんにお尋ねください」
「……教えてくれるかな」
「まずは見つけませんと」
「うん」
◇
「もう一つ、確認しておきたいことがあります」
有紗とリネットが出ていったあと、紫音はリュシアンへ向き直った。
「何でしょうか」
「レアは、なぜあなたを助けたのです?」
リュシアンが僅かに目を見開く。
「なぜ、と申しますと?」
「黒焔を他者の生命へ定着させるには、莫大な魔力と代償が必要です。まして、長く生きられないと診断された身体を、歩ける状態まで戻した」
紫音は胸元の試作石へ目を向けた。
「彼女ほどの魔女なら、その危険を知らなかったはずがありません」
「……」
「何かを求められませんでしたか。契約や、将来の奉仕など」
「何も」
「あなたの家柄や血筋に、特別なものがあった可能性は?」
「少なくとも、私は聞いておりません」
紫音が文献から知るレアは、身勝手で自由奔放な魔女だった。
誰の命令にも従わず、何をするにも自分の興味や気分を優先する。強大な魔力を持ちながら、それを人のために使うか、災いとして振るうかさえ予測できない。
王宮内では、機嫌を損ねれば国一つを焼きかねない女だとまで囁かれていた。
そのような人物が、通りすがりの少年一人へ、何の見返りもなく命を削るほどの力を使った。
どうしても、紫音の中にあるレア像とは結びつかなかった。
「では、なぜ」
リュシアンは胸元の石へ指を添えた。
「私が、死にたくないと願ったからだと思います」
紫音の筆が止まる。
「……死にたくない?」
「はい」
リュシアンは目を伏せた。
「痛くて、苦しくて、もう何も考えられませんでした。それでも、死ぬのは怖かった」
「レアへ、そう伝えたのですか」
「言葉までは、はっきりとは覚えていません。ただ、私はあの方の手を掴みました」
細い指が、ゆっくりと握られる。
「死にたくない、と願いながら」
紫音は何も言わなかった。
「レア様が私を救おうとしてくださった。そして私も、死にたくないと願った」
リュシアンは静かに胸元を押さえる。
「その二つが重なったから、黒焔は私の命に残ったのだと思います」
「それだけですか」
「私には、それで十分です」
「文献に残る彼女は、通りすがりに人を救うような人物ではありません」
リュシアンの紫の瞳が、静かに紫音を見返した。
「ならば、その文献を書いた方は、レア様に救われたことがないのでしょう」
紫音の筆が止まった。
脳裏に、王宮から回された報告書が浮かぶ。
国外の一部地域で、正体不明の邪悪な魔力を用いる者たちが勢力を広げている。
その周囲には、病や魔力異常によって王宮から見放された者たちが集まり、皆一様に「救われた」と語っているという。
王宮は、それを救済とは見ていなかった。
精神への干渉。
魔力による汚染。
国家へ不満を抱く者を取り込むための欺瞞。
報告書には、そう記されていた。
中心人物の名も、姿も、性別さえも分かっていない。
扱われている魔力が黒焔であるという確証もない。
それでも、リュシアンの言葉を聞いた今、一つの可能性が脳裏をよぎる。
――まさか。
紫音はそれを口にしなかった。
記録紙にも書き残さず、ただ胸元で明滅する試作石へ視線を落とした。
白金の魔力に包まれた黒焔は、静かに脈打っていた。




