第19話 手を離せない夕食
診察室で、リュシアンは椅子へ腰を下ろした。
有紗が手を離しても、すぐに痛みが戻るわけではないらしい。だが時間が経つにつれて呼吸が浅くなり、身体の内側から強張っていくのが分かった。
紫音は透明な測定石を取り出し、リュシアンの手首へ近づけた。
石の内部へ、黒紫色の靄が滲む。
「あなたの体内に、異質な魔力が残っています」
「はい」
リュシアンは驚かなかった。
「以前から知っていたのですか」
「詳しいことまでは。ただ、私の中に黒い炎が残っていることは知っています」
「黒い炎?」
有紗が首を傾げる。
その時、リュシアンの袖口で小さな光が揺れた。
黒紫色の炎が、皮膚の内側から滲み出すように立ち上がる。
リュシアンは左腕を押さえ、身体を折った。
「リュシアンさん!」
有紗がその手を取る。
白金色の光が、二人の指先を包んだ。
荒れていた黒紫の炎は白金へ触れると輪郭を失い、静かに腕の中へ沈んでいく。
リュシアンは目を閉じたまま、深く息を吐いた。
「……やはり」
「何がですか?」
「先ほどから、この状態です。有紗さんに触れている間だけ、痛みが消えるようです」
彼の右手が、有紗の手を包む。
確かめるように、ほんの少しだけ指へ力が加わった。
「紫音くん。何が起きてるの?」
「まだ断定はできません」
紫音は二人の手元へ、別の測定器を近づけた。
白金の光に触れている間だけ、黒紫の魔力は明らかに静まっている。
「少なくとも、今は離れない方がいいでしょう」
「だそうです」
リュシアンが有紗を見て、柔らかく微笑む。
先ほどまで痛みに歪んでいた顔とは別人のように、穏やかな表情だった。
「お前、急に元気になったな」
壁際に立っていたシャロウが言う。
「痛くありませんので」
「それは見りゃ分かる」
紫音は測定器へ目を落としたまま続けた。
「詳しい検査には時間がかかります。先に食事を済ませてください。その間に器具を準備します」
「このままでいいの?」
「接触は維持してください」
シャロウの顔が露骨に曇った。
「ずっとか?」
「現時点では」
リュシアンは有紗の手を握ったまま、静かに立ち上がった。
今度は足元が揺れなかった。
「では、お言葉に甘えます」
「随分自然に馴染んでんな、お前」
「ご迷惑でしょうか」
「その顔で言われると、俺が悪いみてえだな」
◇
食堂へ入ると、リネットが夕食を並べているところだった。
「お帰りなさいませ。ルゥは無事でしたか?」
「うん。怪我もなく、薬舗へ戻れたよ」
「それは何よりでございます」
リネットは微笑み、それから有紗の隣に立つリュシアンを見た。
二人の手は、まだ繋がれたままだ。
「そちらの方は?」
「猫と同じ場所にいた」
シャロウが答える。
「なるほど」
リネットは深く追及せず、棚から皿を一枚増やした。
「夕食をご用意いたしますね」
「驚かねえのかよ」
「有紗様でございますから」
「どういう意味?」
「良い意味でございます」
食卓へ着く際、リュシアンは有紗の左隣を選んだ。
「有紗さんは、右利きですよね?」
「うん」
「では、こちらの手をお借りしてもよろしいでしょうか。利き手を塞ぐのは申し訳ないので……」
そう言って、リュシアンは有紗の左手を右手で包んだ。
「でも、それだとリュシアンさんが……」
有紗が、彼の空いている手を見る。
リュシアンは穏やかに微笑んだ。
「大丈夫です」
左手で匙を取り、スープを掬う。
けれど、最初の動きは少し覚束なかった。
匙が器の縁へ小さく触れ、掬ったスープが僅かに揺れる。口元へ運ぶ手も慎重で、リュシアンは時間をかけて一口を飲み込んだ。
向かいに座ったシャロウが眉を寄せる。
「やっぱり無理だろ。食事の時くらい離れろよ」
「ですが、離れると痛みが戻りますので」
「手じゃなくてもいいんだろ」
シャロウは二人の繋いだ手を見る。
「肩をくっつけるとか。それか、背中合わせとか」
「背中合わせでは、食卓へ向けませんね」
「椅子の向きを変えりゃいいだろ」
「そこまでして、この形を変える必要がありますか?」
「ある」
「どうして?」
有紗が尋ねる。
「……見た目が妙だろ」
有紗は自分たちの手元を見た。
「治療してるだけだよ?」
「分かってる」
リュシアンは、左手の匙を持ち直した。
「ご心配には及びません。私は左利きですので」
シャロウが黙る。
有紗も目を丸くした。
「左利きなの?」
「はい」
今度は、先ほどまでの覚束なさが嘘のように、滑らかな動きでスープを掬った。
「普通に食えてんじゃねえか」
「先ほどは――」
リュシアンは匙を見つめ、僅かに目を細めた。
「痛みを気にせず動かせるのが、久しぶりでしたので」
その声には、冗談めいた響きはなかった。
有紗が、繋いだ手を少しだけ握り返す。
リュシアンはもう一口、ゆっくりとスープを飲んだ。
「とても、おいしいです」
「よかった」
有紗が笑う。
「有紗さんの利き手も塞いでいません。これなら二人とも問題なく食事ができますね」
「お前にとって都合が良すぎんだろ」
「偶然です」
「絶対分かってて座っただろ」
リュシアンは否定せず、機嫌よく次の一口を口へ運んだ。
右手は有紗の手を包んだまま、一度も離れなかった。
◇
食事を終えると、三人は再び診察室へ戻った。
紫音は記録紙を広げ、リュシアンの正面へ座る。
「幼い頃から痛みがあったと言いましたね」
「はい」
「当時の状態を、覚えている範囲で話してください」
リュシアンは有紗の手を握ったまま、目を伏せた。
「物心がついた頃には、ほとんど寝台から起き上がれませんでした。息をすることも、食事を取ることも苦しくて」
「治癒魔法は?」
「効きませんでした。長くは生きられないだろうとも言われました」
有紗の表情が曇る。
「では、なぜ今は歩けるのです?」
「助けてくださった方がいます」
「どのような治療を受けましたか」
「治療だったのかは、私にも分かりません。ただ、あの方が私へ触れた時、黒い炎が身体を包みました」
紫音の筆先が僅かに遅くなる。
「その炎で、痛みが消えた?」
「完全にではありません。ですが、歩けるようになりました。食事も取れるようになり、外へ出ることもできた」
リュシアンの紫の瞳が、有紗との間に重なる手へ向けられる。
「私はあの日、初めて生きられるようになったのです」
「その人物の名前は?」
紫音が尋ねた。
リュシアンの目元が僅かに和らぐ。
「黒焔の魔女……」
紫音の筆が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、壁際にいたシャロウは、その変化を見逃さなかった。
「レア様です」
診察室に、短い沈黙が落ちる。
紫音はゆっくりと顔を上げた。
「……本人に、会ったのですか」
「はい」
リュシアンは穏やかに答える。
「私の命を救ってくださった方です」
紫音はすぐには筆を動かさなかった。
「今夜はここで休んでください。続きは明日、改めて聞きます」
「よろしいのですか?」
「街へ戻して、再び動けなくなられる方が困ります」




