第16話 猫のそばにいた青年
「待て。走るな」
古い倉庫街へ向かおうと店を飛び出した有紗の肩を、シャロウが後ろから掴んだ。
「古い倉庫なら、床が抜けてる場所もあるかもしれねえ。俺より前に出るなよ」
「分かった」
返事だけは素直だった。
それでも足取りは明らかに速い。有紗の後ろを歩きながら、シャロウは小さく息を吐いた。
◇
古い倉庫が集まる一角は、賑やかな通りから少し離れた場所にあった。
使われなくなった荷車や割れた木箱が壁際へ寄せられ、建物の扉には錆びた錠が垂れ下がっている。
人の気配はほとんどない。
風が通り抜けるたび、外れかけた板戸が低い音を立てた。
「ルゥ」
有紗が呼ぶ。
返事はなかった。
二人は一棟ずつ、建物の周囲を確かめていった。
シャロウが外れかけた板を持ち上げ、有紗がその奥を覗き込む。壊れた樽の中や、積み重なった木材の下、半分開いたままの物置も調べた。
何度名前を呼んでも、聞こえてくるのは風の音ばかりだった。
「本当にこっちへ来たのか?」
「来てると思う」
「根拠は?」
「ルゥなら、人が少なくて暗い場所を選ぶから」
有紗は足を止め、周囲を見回した。
倉庫の中でもひときわ古い建物が、奥まった場所に建っている。
扉は僅かに開き、その向こうには深い暗がりが覗いていた。
「……あそこ」
「俺が先に見る」
シャロウは有紗の前へ出ると、扉へ手を掛けた。
湿った木が擦れ、低い音を立てながら開いていく。
倉庫の中には、古い布や空の木箱が無造作に積まれていた。割れた窓から細い光が差し込み、舞い上がった埃を白く照らしている。
シャロウが床の状態を確かめながら、慎重に中へ入った。
有紗もその後ろに続く。
「ルゥ」
有紗の声が、薄暗い空間へ響いた。
しばらく待っても、何も聞こえない。
「ルゥ。いるの?」
もう一度、呼びかける。
その時。
「にゃ」
奥の方から、小さな声がした。
続いて、
「にゃあ」
二度目の声が、僅かに高く響く。
「ルゥ!」
有紗が声の方へ駆け出した。
「だから走るなって言ってんだろ!」
シャロウもすぐに後を追う。
声がしたのは、崩れかけた棚と壁の間だった。
差し込む光の届かない暗がりに、白い猫が小さく丸くなっている。右耳と尻尾の先だけが黒く、首には青緑色の紐が見えた。
「ルゥ……!」
有紗はその場へしゃがみ込み、そっと両手を伸ばした。
ルゥは怯えたように一度身を縮めたが、有紗の声を聞くと、もう一度小さく鳴いた。
「大丈夫。迎えに来たよ」
有紗が抱き上げると、ルゥは抵抗せず、その胸元へ顔を埋めた。
「怪我はなさそうか?」
「うん。少し汚れてるけど、大丈夫みたい」
有紗は安堵したように笑い、持ってきた布でルゥの身体を包んだ。
そこでようやく、猫のすぐ傍に誰かがいることに気づいた。
壁に背を預けるように、一人の青年が座り込んでいる。
深い黒色の外套に身を包み、頭にはフードを被っていた。ずれた布の隙間から、濃い紫色の長い髪が覗いている。
片膝を立てたまま、胸元を強く押さえていた。
その傍には、小さくちぎられたパンが置かれている。
「ルゥにくれたの?」
猫を抱いたまま、有紗が尋ねた。
青年はゆっくりと顔を上げた。
白い肌にはほとんど血の気がなく、額には細かな汗が浮かんでいる。それでも、整った顔には穏やかな微笑が作られていた。
「ええ。ですが……警戒されてしまったようで」
「ルゥ、知らない人からはあんまり食べないの」
「賢い猫ですね」
青年はそう答えたが、言葉の終わりに小さく息を詰めた。
そこでようやく、有紗は彼の顔をよく見た。
「具合が悪いの?」
「大丈夫です。少し、休んでいただけですので」
「休んでる顔じゃねえだろ」
後ろから、シャロウが低い声で言った。
青年は苦笑するように目を伏せた。
「いつものことです」
「いつもって……」
有紗が眉を下げる。
「心配には及びません」
青年は壁へ手をつき、立ち上がろうとした。
だが、膝に力が入らない。
身体が大きく傾いた。
「危ない!」
有紗はルゥを片腕で抱え直し、空いた手で青年の腕を掴んだ。
触れた瞬間。
白金の光が、有紗の指先から溢れた。
「え……?」
光は細い糸のように青年の腕を伝い、外套の下へ吸い込まれていく。
青年の身体が大きく強張った。
押し殺していた息が、震えながら吐き出される。
「これは……」
苦痛に歪んでいた表情が、僅かにほどけていった。
浅く乱れていた呼吸が、少しずつ深くなる。胸元を押さえていた指からも、ゆっくりと力が抜けていく。
その代わりに、有紗の手を両手で包み込んだ。
「え?」
逃がさないように、強く握り締める。
青年の瞳が揺れた。目の前の有紗ではない、遠い誰かを見ているようだった。
「おい!」
シャロウが咄嗟に二人の間へ手を伸ばした。
だが青年は、有紗の手へ額を寄せるように身を屈めた。
長い髪が、フードの内側から滑り落ちる。
その唇から、掠れた声が零れた。
「……レア、様……」




