第11話 置いていかなかった鍵
旧排水路の入口が完全に塞がったのは、シャロウが研究棟へ来てから九日目のことだった。
崩れかけていた石壁は新しい石材で補強され、魔獣が通り抜けていた隙間も残されていない。
紫音は壁を一通り確認すると、手にしていた記録板へ印をつけた。
「これで、少なくとも同じ場所から侵入することはありません」
「なら終わりだな」
シャロウは壁から背を離し、腰に差した剣の位置を確かめた。
「どこへ行くの?」
有紗が尋ねる。
「研究棟に戻るんでしょう?」
「荷物を取ったら出る」
「今日?」
「ああ」
有紗の表情が、僅かに曇る。
「お昼ごはんは?」
「食ってから出る」
「それは食べるんだね」
「悪いか」
「ううん」
有紗は少しだけ笑った。
最初のように、今すぐ立ち去ろうとはしなくなっている。
それでも、シャロウにとって研究棟は、仕事が終われば離れる場所でしかないのだろう。
「戻る場所は?」
「決めてねえ。仕事がありゃ、そこへ行く」
何でもないことのように答えられ、有紗は黙った。
それでも、シャロウから目を逸らさない。
「でも、ここにいる時は……少し楽しそうだったから」
「俺が?」
「うん。ごはんを食べてる時とか、紫音くんと言い合ってる時とか」
「後のは楽しくねえ」
「そうなの?」
「当たり前だろ」
有紗は小さく笑った。
「じゃあ、リネットのごはんを食べてる時だけ?」
「それも別に」
「でも、いつもいっぱい食べるでしょう?」
「うるせえな」
シャロウは顔を背けた。
紫音は二人のやり取りを聞きながら、記録板を閉じる。
「ちょうどよい機会です。シャロウに、別件の相談があります」
「別件?」
「研究に必要な薬草を採取していただきたいのです」
紫音は鞄から折り畳んだ地図を取り出し、近くの石台へ広げた。
「北方の山地に自生する月白草です。王宮から採取予算が下りています」
「どの辺だ」
「この一帯です。険しい山道が続くうえ、王宮の査定では往復七日。危険度は上級に分類されています」
「七日?」
シャロウが地図を引き寄せる。
「東側から入れば、一日で着くぞ」
「道があるのですか?」
「獣道ならな。月白草の群生地までは、そこから半日もかからねえ」
「報告書では、魔獣の生息域を通過するとあります」
「この時期は谷の反対側へ移ってる。よほど運が悪くなきゃ、何も出ねえよ」
紫音は僅かに眉を寄せた。
「王宮の調査報告と、随分違いますね」
「机の上で山を見てる奴には分かんねえだろ」
「採取条件もあります。根を傷つけず、花が開く直前のものを十株。鮮度を保った状態で持ち帰ってください」
「それだけか」
「それだけ、とは?」
紫音が提示した報酬額を告げる。
シャロウが黙った。
もう一度、地図へ目を落とす。
「……草を摘んで帰ってくるだけで、この額か?」
「王宮が定めた正規の報酬です」
「何か裏があるんじゃねえだろうな」
「ありません」
「本当に、十株でいいんだな?」
「はい」
シャロウは地図を折り畳んだ。
「受ける」
「随分と早いですね」
「受けねえ理由がない」
有紗の顔が明るくなる。
「じゃあ、また研究棟に帰ってくるんだね」
「薬草を届ける必要があるからな」
「うん。待ってるね」
あまりにも自然に言われ、シャロウが一瞬だけ黙る。
「……仕事だぞ」
「分かってるよ」
「ここに住むわけじゃねえ」
「うん」
「採ってきたら、また次へ行くかもしれない」
「その時は、その時だね」
有紗は笑った。
「でも、今は帰ってきてくれるでしょう?」
「……ああ」
小さな返事だった。
紫音が地図の写しをシャロウへ渡す。
「出発はいつにしますか」
「明日の朝」
「準備に必要なものは?」
「食料だけでいい」
「七日分ですか?」
「四日で戻る」
「王宮の想定では七日ですが」
「俺に王宮の想定を押しつけんな」
シャロウは地図を外套へしまった。
「帰ったら、すぐ報酬を払えよ」
「成果を確認した後です」
「細けえな」
「当然です」
「有紗」
「なあに?」
「こいつ、俺がいない間に三ミリ単位で薬草を測り始めねえだろうな」
「紫音くんなら、するかも」
「しません。品質を確認するだけです」
二人の声を聞きながら、有紗は楽しそうに笑った。
シャロウは仕事を受けただけだった。
研究棟へ残ると決めたわけではない。
それでも翌朝、彼が出発する時には、客室の鍵を机の上へ置いていかなかった。




