第10話 いつもの椅子
測定を終えて食堂へ戻ると、リネットが焼き菓子を並べていた。
蜂蜜を練り込んだ小さな焼き菓子から、甘い香りが立ち上っている。
それを見た瞬間、シンシアの紫色の瞳が、目に見えて輝いた。
「それ、私の?」
「皆様の分でございます」
「私の分は?」
「本日は三つほど」
「四つ」
「次回、予定のお時間にお越しいただけましたら、四つご用意いたします」
「到着時刻と個数に因果関係はない」
「本日は、まだ冷ましている途中でございましたので」
シンシアは皿の焼き菓子を見つめたまま、しばらく黙った。
「次は、予定どおりに来る」
「ありがとうございます」
リネットは穏やかに微笑んだ。
シャロウが小声で有紗へ尋ねる。
「リネットの言うことは聞くんだな」
「みんな聞くよ?」
「……だろうな」
焼き菓子を食べ終える頃、シャロウは椅子から立ち上がった。
「俺は排水路を見てくる」
紫音が記録紙から顔を上げる。
「一人では許可できません」
「昨日見つけた崩落箇所を確認するだけだ。奥には入らねえよ」
「その言葉を信用する根拠がありません」
「じゃあ、どうしろってんだ」
紫音は少し考え、記録紙を机へ置いた。
「崩落箇所より先へ進まないこと。内部で魔獣の気配を感じた場合は、戦わずに戻ること。暗くなる前に帰ること」
「条件が多すぎるだろ」
「守れないのであれば、行かせません」
シャロウは面倒そうに息を吐いた。
「……分かったよ」
「本当に?」
有紗が心配そうに尋ねる。
「見るだけだ。すぐ戻る」
「気をつけてね」
「ああ」
シャロウは外套を取り、研究棟を出ていった。
◇
夕方になると、シンシアは器具箱を閉じた。
「次は一か月後」
「二十九日と何時間後ですか?」
紫音が尋ねる。
「まだ決めてない」
「そこは正確ではないのですね」
「未来は未確定」
シンシアは包んでもらった焼き菓子を大切そうに器具箱へ収め、有紗へ向き直った。
「何か変化があったら、覚えておいて」
「シンシアが覚えるんじゃなくて?」
「有紗の変化は、有紗の記憶の中にある」
「うん。分かった」
シンシアが帰ったあと、研究棟はいつもの静けさを取り戻した。
夜になり、リネットが夕食を食卓へ並べる。
有紗と紫音の皿。
その隣に、もう一枚。
旧排水路の確認へ出ていたシャロウは、まだ戻っていなかった。
「シャロウ、遅いね」
「暗くなるまでには戻ると仰っていました」
リネットは三枚目の皿にも、温かな料理を盛りつける。
やがて、玄関の扉が開く音がした。
土のついた外套のまま、シャロウが食堂へ入ってくる。
「おかえり、シャロウ」
有紗が笑った。
「奥の崩落はどうでした?」
紫音が尋ねる。
「瓦礫の下に、獣の足跡が残ってた。崩れたのは、あいつらが通ったあとだ。奥に魔獣の気配はなかった」
「分かりました。詳しい確認は明日にしましょう」
「……言われなくても、今日はもう行かねえぞ」
「当然です。先に食事にしてください」
シャロウは食卓へ目を向けた。
自分が戻る前から、そこには一人分の料理が用意されている。
もう、それを不思議には思わなかった。
何も言わず、いつもの椅子を引いた。




