第8話 来訪者
表紙を捲る手を止めていた分、ページの端が少し反り返っていた。アルクは軽く息を吐き、次の項へと目を落とす。
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『なぜこの大陸はかくも荒れ果て、人の住める地が狭くなったのか。
古い言い伝えによれば、遥か昔、"異界より訪れし者たち"が各地に現れ、大陸のあり方そのものを大きく変えたのだという。
ある書は彼らを「大陸に力と知恵をもたらした"来訪者"たち」と記し、また別の書は「大陸を食い荒らした"侵略者"たち」と記している。
また、大陸各地で魔物の数と力が急激に増したとされる原因の一つである"魔神"。それまで人里の外れに巣食う程度であった魔物たちは、魔神がその種族の群れに加わることで、まるで別の生き物であるかのように、その数を、そして力を増していった。
これに抗うべく、当時の人々と来訪者は各地の集落を捨て、力を一箇所に集める道を選んだ。これが人類の生存圏がアルンダラとノクスルドのみとなった経緯であると、本書は伝える』
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アルクの目が、その一文の上で止まった。
(来訪者、か)
指先が無意識に紙の縁をなぞる。異界から訪れた者。病室から一転してこの世界にやってきた自分と、重ならないはずがなかった。
(たぶん、転生者か何かだよな。これ)
胸の奥がわずかにざわつく。歓喜と呼ぶには落ち着きすぎていて、警戒と呼ぶには浮ついている。そのどちらでもない感情が、静かに広がっていった。
(で、魔神か。こっちはさっぱり分かんねぇな)
魔物の群れに加わり、その力と数を跳ね上げる存在。文面だけでは輪郭が掴めない。ただの上位種の呼称なのか、それとも別の何かなのか。判断材料があまりにも少なかった。
ページをめくる手が止まる。文字を追う速度よりも、思考の方が先を急いでいた。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、書架の隙間越しに、奥の机で分厚い書物と向き合っていた白髪の老人と目が合った。眼鏡の奥の瞳が、こちらをじっと見ている。
値踏みするような、それでいてどこか懐かしむような光がそこにあった。
アルクが軽く会釈すると、老人はふっと口元を緩め、再び書物へと視線を落とした。だがその所作には、明らかな余韻が残っていた。
(……なんだ、今の間)
只者ではない気配だった。単なる好奇の視線とは違う、何かを確かめるような重さがあった。アルクは気にかけながらも、読みかけの本に意識を戻した。
それからしばらく、アルクは書架の間を歩き回った。歴史概説書を読み終えた後は、地理を扱った書物を数冊引っ張り出し、ステラ大陸の大まかな地形を頭に叩き込んでいく。
西にアルンダラ、北西にノクスルド魔王国、その他に広がる混沌領域。地図と呼べるほどのものはなく、境界のほとんどは曖昧な線で描かれているだけだった。
(詳しい地図はねぇのか、これ)
禁域と呼ばれる領域に至っては、地図上ですら真っ白なままだ。調査すら困難という記述の意味を、その空白が雄弁に語っていた。
内容を全て頭に詰め込むと、アルクは読んだ本を胸に抱え、返却棚へと足を向けた。
「読み終わった、よろしくな」
受付にいた初老の司書に本を差し出すと、司書は無言で受け取り、確認するように背表紙を眺めた。
「歴史概説書と地理書、二冊ですね。ご確認いたしました」
淡々とした応対だった。アルクは軽く頷き、踵を返そうとした――その時だった。
「――待たれよ」
低く、しゃがれた声が背後から届いた。振り返ると、先ほどの白髪の老人が、いつの間にか近くまで歩み寄ってきていた。杖をついているわけでもないのに、足取りはどこか年齢を感じさせない滑らかさがある。
「ん、俺に何か用か?」
アルクが問うと、老人は目を細めた。皺の刻まれた顔に、悪戯めいた笑みが浮かぶ。
「いや、なに。昨日の模擬戦で、Aランク冒険者のジンと互角に渡り合ったそうじゃないか」
「……あー、あれか」
心当たりはすぐに浮かんだ。ジンとの一件が、思った以上に噂として広まっているらしい。
「Aランクの拳士と互角に打ち合った新人、という話でな。この街は狭い。噂は風より速く走る」
「随分と耳が早いんだな、爺さん」
「暇な老人ほど、こういう話には目がないものよ」
老人は含み笑いを漏らしながら、アルクの全身をゆっくりと眺めた。
単なる世間話にしては、視線の質が違う。アルクは内心で警戒を強めながらも、表情には出さなかった。
「君を見ていると、"新人"という言葉で片付けるには些か不釣り合いに感じるな」
「買い被りすぎだろ。新人といっても、ノクスルドで鍛えてきたからな」
「ほう……そうかね?」
老人は懐から、小さな革袋を取り出した。中から取り出したのは、拳ほどの大きさの、錆びついた金属片だった。表面には、複雑に絡み合った紋様が刻まれている。
「これを見てくれ」
差し出されたそれを、アルクは受け取った。ずしりと重みがある。表面をよく見ると、紋様の中心に――竜を象った意匠が浮かび上がっていた。翼を広げ、牙を剥いた竜の顔。細部まで精巧に彫り込まれたその紋章には、見覚えがあった。
心臓が、一拍だけ跳ねる。
(これ、"モヨモト"のギルドマークじゃねぇか)
ChaosFantasyでも五本の指に入る大手ギルドの紋章。ゲーム内の高難易度コンテンツを席巻し、掲示板でも常にその名が挙がっていた。プレイヤーであれば知らぬ者はいない、その象徴が今、手のひらの上にあった。
「これは……」
言葉に詰まったアルクを、老人はじっと見つめていた。眼鏡越しの瞳には、もう先ほどまでの穏やかさはない。確信を持った、鋭い光が宿っていた。
「懐かしいだろう、その紋章」
「……いや、懐かしくはねぇな」
「おや、それはそうか……君も、あちら側から来たんだろう?」
静かな問いだった。だが、その一言が持つ重さは、アルクの喉を一瞬詰まらせるのに十分だった。
否定するべきか。それとも――
答えを探すアルクの視線の先で、老人の口元がわずかに緩んだ。まるで、その沈黙こそが答えだと言わんばかりに。
だが、老人が言葉を重ねることはなかった。
図書館の扉が開き、談笑しながら数人の学生たちが入ってくる。閲覧席の奥からも、ざわめきが徐々に広がり始めていた。静寂に浸っていた空間に、日常の喧騒が戻ってくる。
老人はその気配を感じ取ると、す、と身を引いた。
「――ふむ、少々人が増えてきたようだ」
「おい、爺さん」
「また今度、話そうか。この歳になると、話を急ぐ理由もないのでね」
含み笑いを残したまま、老人はゆっくりと踵を返し、書架の奥へと消えていく。その背中を、アルクはしばらく見送っていた。
手の中に残された竜の紋章が、日暮れの光を鈍く反射していた。
「……そうか」
呟きが、静けさを取り戻しつつある図書館の中に、小さく溶けていく。
(俺以外のプレイヤーも来てるわけね)
紋章を握る指に、自然と力がこもった。単なる好奇心だけでは片付けられない予感が、胸の奥でゆっくりと熱を持ち始めていた。




