第7話 大陸
篝火の残り火が、灰色の燻りを残して消えかけていた。
アルクは背中に感じる硬い地面の感触で目を覚ました。頭上に見えるのは広場の屋根の梁と、そこから差し込む朝の淡い光だ。周囲を見渡すと、昨夜の熱気が嘘のように静まり返った広間が広がっている。
「……あー、そういやここで寝たんだった」
呟きながら体を起こす。地べたに寝転んでいたにもかかわらず、体のどこにも凝りや痛みはなかった。むしろ目覚めは爽快そのものだ。この頑丈な肉体は、多少の寝床の悪さなど気にも留めないらしい。
前世であれば固い床の上で一晩過ごせば全身が悲鳴を上げるか死んでいただろうが、今の体には無縁の話だった。
「便利な体だな、まったく」
小さく笑いながら周囲を見回すと、酔い潰れた冒険者たちが思い思いの格好で転がっていた。
ジンは卓の下に潜り込んだような姿勢で、片足を椅子に乗せたまま高いびきをかいている。マルコに至っては誰かの膝を枕にして幸せそうな寝顔を浮かべていた。
その枕にされている男は迷惑そうな表情を眠りながらも滲ませ、時折足を蹴り上げているが、マルコが起きる気配はない。
「器用な寝相してんな、あいつら」
広間の隅では、ギルドの制服を着た職員たちが早くも掃除を始めていた。空いた酒瓶や皿を回収し、篝火の跡を片付けていく。
その動きに無駄がない。近くでは兵士らしき男が頭を抱えながら、「うぅ……飲みすぎた……」と唸っている。
周囲の同僚が容赦なく肩を叩いて起こしていた。アルクはその様子を横目に広間を後にした。
表通りに出ると、朝の空気は昨日の戦の匂いを感じさせないほど澄んでいた。土と草の匂いに混じって、どこからか焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
懐にはまだ、昨日の作業手当として受け取った銀貨十枚が入っていた。腹の虫が小さく鳴る。
「よし、朝飯だな」
屋台の並ぶ通りに足を向けると、湯気を立てる串焼きの屋台がすぐに目に入った。店主らしき恰幅の良い男が威勢よく声を張っている。
「焼きたてだよ! 1本銅貨5枚だ!」
「1本くれ」
「まいど!」
銀貨1枚渡すと、お釣りで銅貨を5枚貰った。
差し出された串は肉汁が滴り落ちるほど脂が乗っていて、齧った瞬間に香ばしさが口いっぱいに広がった。
「うんめぇな、これ」
隣の屋台では素朴な丸パンを売っていた。硬めの生地に香ばしい匂いが染み込んでいる。銅貨2枚で2つ買い、歩きながら頬張った。
市場通りは、昨日の混乱が幻だったかのように賑わいを取り戻している。露店の商人たちが威勢よく声を上げ、鱗肌の商人が薬草の量り売りをしている光景も昨日と変わらない。
子どもたちが路地を駆け回り、誰かにぶつかりそうになって母親らしき女性に叱られていた。
「昨日、あんなことがあったばっかだってのに。大したもんだ」
そう呟きつつ、アルクは冒険者ギルド本部へと足を向けた。というのも、昨日の宴の途中に冒険者ギルドの職員に緊急時で説明しきれていなかったことがあるから後日また来てほしいと言われていたからであった。
しばらく歩き、ギルド本部に到着する。
ギルド本部の受付は、昨日の慌ただしさが嘘のように落ち着いていた。窓口には数人の列ができているだけで、職員たちも淡々と手続きを進めている。
アルクは昨日の男性職員がいる受付に行くと、その男性職員は目を少し開いて笑みを浮かべた。
「アルク様ですね。昨日は緊急事態でしたので、いくつか説明を省略しておりました。改めてご案内します」
「おう、頼む」
職員は書類を一枚取り出し、要点を指でなぞりながら口を開いた。
「まず、指名依頼についてです。ギルドから直接名指しで依頼が来た場合、重傷や重病などの正当な理由がない限り、拒否することはできません」
「拒否したらどうなるんだ?」
「無断拒否はランクの降格対象になります。場合によっては違約金も発生します」
アルクは軽く眉を上げた。
「ほぉ、なかなか厳しいんだな」
「指名依頼は基本的にアルンダラの存続に関わる案件が多いですから、当然の措置かと。次は貢献度制度についてですね」
職員は続けて説明を始めた。
「依頼の達成度、被害抑止度などから貢献度ポイントが加算されます。月末にその累計に応じて、ギルドから追加報酬が支給される仕組みです」
「へえ、金以外にも何かあんのか」
「一定以上貯まりますと、特別依頼の優先権などの金銭以外の恩恵も得られます。昨日の防衛戦でも、貢献度は加算されておりますよ」
「俺にか?正直大したことしてねぇけどな」
「そうでもないようです。囲まれていた新人冒険者を救出された件、それから終始堅実に敵を捌き続けていた点が評価されているようですね。あぁ、それと……」
職員がふと付け加えるように口を開いた。
「実技試験でジンさんと互角に打ち合った新人がいる、という話はかなり広まっているようです。もしかしたらそう遠くないうちに指名依頼が入るかもしれませんね」
「おいおい、勘弁してくれよ」
職員は何も答えず、少し笑みを浮かべながらも静かに次の書類へと視線を落とした。
アルクは説明が終わるとギルド本部を出て露店の並ぶ通りを抜け、市場の喧騒を後方に置き去りにしながら歩を進めた。
(この世界のこと、いい加減ちゃんと調べとくか)
昨日から積み上がる一方の疑問。統率された魔物の群れ、レベル百を超える魔物が当たり前のように徘徊する草原、そして街全体に染みついた"慣れ"。断片的な情報だけでは、この異世界の輪郭は掴めそうにない。
昨日、ミナに案内された道を思い出しながら歩くと、やがて周囲の建物よりも一回り、二回り大きな石造りの建造物が視界に入った。重厚な佇まいの外壁には、蔦が這うように絡みついている。
「ここだったな」
呟きながら、アルクは正面の扉に手をかけた。
扉を開けた瞬間、外の喧騒がふっと遠のいた。
代わりに満ちていたのは、静けさと、埃と古紙が入り混じった独特の匂いだった。天井まで届く高い書架がいくつも並び、差し込む陽光の中で細かな塵が緩やかに舞っている。
「……良い雰囲気だ」
思わず声を潜めてしまうほどの静寂だった。中を見渡すと、階層ごとに区画が分かれているらしい。壁に掲げられた案内板には、"魔物生態"、"地理"、"法律"、"歴史"などといった文字が並んでいる。
閲覧席のあちこちには、若い学生らしき者たちが本に齧りついていた。羽根ペンを走らせる音、紙をめくる音だけが控えめに響く。
奥の方では、白髪の老人が分厚い書物を広げ、眉間に皺を寄せながら何やら書き写している。研究者かなにかだろうか。
受付には、初老の男性司書が一人、静かに座っていた。白髪交じりの髪をきっちりと後ろに撫でつけ、眼鏡越しの視線は書類に落とされている。
「すまん、ちょっといいか」
「――何用でしょう」
顔を上げた司書の声は、抑揚に乏しく、無駄口を叩かない生真面目さが滲んでいた。
「この国の歴史みたいなの気になって来たんだが、何かちょうどいいのはあるか?」
司書はアルクの姿を一瞥した。値踏みするような視線ではなく、単に来訪者の身なりを確認する程度の目つきだ。
「少々お待ちを」
短くそれだけ言うと、司書は席を立ち、書架の奥へと消えていった。足音も立てず、迷いのない動きで棚から棚へと移動していく。慣れた手つきで一冊を抜き取ると、戻ってきてアルクの前に差し出した。
「一般市民向けの、簡易な歴史概説書です。専門的な文献をお求めでしたら二階の書庫になりますが、まずはこちらから読まれることをお勧めします」
「おう、助かる」
表紙は簡素な革張りで、擦れた跡がいくつも残っている。それだけ多くの人間が手に取ってきた証拠なのだろう。
「利用は無料です。館内での閲覧のみとなりますので、お戻しの際はこちらの返却棚に」
「了解した」
司書は一礼して受付へと戻っていった。アルクはその背中を見送りながら、端の空いた机へと腰を下ろす。木の椅子は硬く、擦れた音を立てて軋んだ。
(さて、と)
表紙を捲る。古い紙特有の乾いた匂いが鼻先をかすめた。最初の数ページは、この世界の成り立ちに関する簡単な前置きが並んでいる。
読み飛ばそうかとも思ったが、内容を追ううちに、アルクの指がふと止まった。
——————
『この広大なステラ大陸において、今日、人が安んじて暮らせる地はただ二つしかない。ステラ大陸の西に位置する城塞都市アルンダラ、そして北西に位置するノクスルド魔王国である。
かつてこの大陸には無数の国家、都市、村落が存在したと伝えられている。しかし今、それらの大半は失われ、地図の上からも姿を消した。この大陸で生き残った民の全てが、この二つの地に集うこととなったのである。
アルンダラ城塞都市は、名こそ「都市」であるが、その実態は一つの独立した国家に等しい。大評議会がこの地の全てを統べ、防衛、経済、法、そして民の生活のあらゆる基盤を担っている。今ではアルンダラの名がそのまま人類の生存圏そのものを指す言葉となっている』
――————
アルクは、表情筋を総動員して真顔を保った。
(――は? 二つしかねぇの!?)
内心で叫んだ声は、当然ながら誰にも届かない。
目の前の文字は、かつて無数にあった国も、村も、街も、今はこの二つの地を除いて全て失われた――そう記されているのだ。
(村や集落すらねぇ、ってことか……?)
視線を文面に戻す。何度読み返しても、書かれている意味は変わらなかった。人類の生存圏はアルンダラという一つの都市に集約され、それ以外の地には安住できる場所がない。
ノクスルド魔王国という国も存在し、人類も少なからずいるが、あくまで人外側の国家という扱いのようだ。
背筋に、じわりと冷たいものが這い上がる。
(バルトたちと会った時、下手なこと言わなくてよかったな……)
道中、深く考えもせず「流れの冒険者だ」とだけ答えていたことを思い出す。もし迂闊に小さい村の出身などと適当なことを言っていれば、あの場で即座に敵対されていたかもしれない。
(俺の常識、この世界じゃまるで通用しねぇんだな)
ページをめくる手が、自然と早くなっていた。もっと知らなければならない。この世界の輪郭を、正確に。




