第30話 報告
宿の寝台に体を沈めた瞬間、意識はあっけなく途切れた。疲労の感覚は全くなかったが、久々に楽しく戦えたことの満足感が心地よい。
窓の外が白み始めた頃、アルクは目を覚ました。
「よく眠れたな。モヨモトのとこ行ってみっか」
独りごちながら体を起こす。革鎧の留め具を確かめ、階下へ降りると、女将が朝の粥をかき混ぜていた。
「早いね、今日も。朝食は?」
「いや、大丈夫だ。ちょっと人に会いに行くんでな」
軽く答え、外へ出る。朝の空気は昨日と変わらず澄んでいて、市場通りからはパンの匂いが漂ってきた。だがアルクの足は、そちらへは向かわなかった。
外縁区画の隅、これといって特徴のない古い住宅の扉を叩くと、しばらくしてモヨモトが顔を出した。眼鏡の奥の瞳が、アルクの姿を認めて細くなる。
「おや、随分早かったね」
「おう。行ってきたぜ」
「そうか。まぁ入って話そう」
促されるまま、螺旋階段を降りる。地下室は青白い光に満ちていたが、エルフの女とダークエルフの男の姿はなかった。丸テーブルの前で、モヨモトが椅子を引く。
「それで、禁域はどうだった?」
「スゲェところだったよ。危険と言われてるのも分かる」
アルクは椅子に腰を下ろし、順を追って話し始めた。大森林の奥で出会った魔物たちとの戦い、そこから逃れて辿り着いた巨大な木、そこで待ち構えていた無数の魔物たちを一人で捌いたこと。
モヨモトは相槌を挟みながら、時折羊皮紙に何かを書き留めていた。ペン先が紙を擦る音だけが、静かな地下室に響く。
「――で、最後に木の中で見つけたのが、結晶に入ってた女でな。目が覚めると、自分から神人族だって名乗りやがった」
「神人族?」
モヨモトの手が止まった。眼鏡の奥の瞳が、初めて大きく見開かれる。ペンを置き、椅子の背から身を起こした。
「ああ、神人族。そう言ってたよ、あの女」
老人はしばらく黙り込んだ。組んだ両手の指先が、わずかに強張っているのがアルクの目にも分かった。青白い光の下で、皺の刻まれた顔から表情が抜け落ちている。
「……私の知る限り、そんな種族は聞いたことがないね。ChaosFantasyでも、この世界でも」
「俺も、ChaosFantasyじゃ知らんな。この世界に元々いた種族かね?」
アルクは肩をすくめた。長年悪魔系の進化ツリーを突き詰めていた身だ。天使系の種族について、まるで知らないわけではない。だが神人族という名前には、掲示板でも一度たりとも触れた記憶がなかった。
「んで、結局あいつは、俺を待ってたわけじゃなかったんだよな。ノクスルドなんて聞いたこともないって言われたし、俺のことも知らなかった」
モヨモトの表情が、ふと曇った。手元の羊皮紙へ視線を落とし、しばし黙り込む。地下室の光が、皺の刻まれた頬をぼんやりと照らしていた。
「そうか……」
長い沈黙のあと、老人は口を開いた。
「大森林の禁域自体が広いからね。禁域の魔物のことも考えると、隠れていると考えるのが自然かな」
「あの規模の魔物がわらわらいる場所だしなぁ。まぁ、正直骨は折れたが悪くない運動にはなったわ」
軽く笑うアルクを見て、モヨモトも少しだけ表情を緩め、羊皮紙の端を指でなぞりながら、思案するように目を細めた。
「下手したら、待ってる者のことを知るならノクスルドにいるプレイヤーに聞くのが一番早いまであるかもしれないね」
「ノクスルドか……」
アルクは腕を組み、椅子の背にもたれた。
「行くのはまだ早い感はあるな。まだアルンダラ自体満喫してないしよ」
「ふふ、確かに。急ぐ理由もない」
モヨモトは羊皮紙を丁寧に畳み、革筒へ収めた。
「まっ、そんな感じだったわ」
アルクは立ち上がり、椅子の軋む音を残しながら伸びをした。
「また何かあったら伝えるよ。モヨモトもなんか分かったことがあったら教えろよ?」
「ああ、そうするよ」
モヨモトは頷き、地下室の光の中で静かに微笑んだ。アルクは軽く手を上げて階段を上っていった。
地上へ出ると、朝の喧騒がアルクを包んだ。露店の呼び込み、荷車の軋み、子供たちの笑い声。地下の静けさとは対照的な、生活の匂いに満ちた空気だ。
「さぁ、今日は何をするかね」
呟きながら歩き出したその足取りに、迷いはない。
だが、背後の古い住宅の中、地下に残ったモヨモトが、しばらくの間、卓上に置いた革筒をただじっと見つめ続けていた。




