第29話 帰還
神鳥の嘴が彼女の頬を撫でるたび、口元がわずかに緩んだ。硬質な羽毛の隙間から漏れる微かな光が、夜の森の暗がりに淡い輪郭を作っている。タナカは大剣を担いだまま、その光景をしばらく眺めていた。
「随分と懐かれてんだな」
「ここに降りてから、ずっと共にいましたから」
女は神鳥の頸へ手を添え、そう答えた。抑揚の薄い声だったが、先ほどまでよりも幾分か柔らかく聞こえる。
タナカはふと、肝心なことを聞いていなかったことに気づいた。
「そういや、まだ名前聞いてなかったな。なんて呼べばいい?」
問われた女の動きが、一瞬だけ止まった。神鳥の頸から手を離し、視線をタナカへ向ける。
「……エルシアです」
「エルシアか。覚えとくわ」
短く返すと、エルシアは小さく頷く。
その直後だった。
神鳥の翼が、突然強張った。羽毛の一枚一枚が逆立つように震え、金色の瞳が夜空の一点、遥か彼方へと固定される。地上の何かに反応した動きではない。もっと高く、もっと遠い場所を見据えていた。
「……」
エルシアの表情が崩れた。
それまで一定だった静けさが、初めて剥がれ落ちる。目を見開いたまま、口を薄く開き、言葉を失っている。両手が無意識に胸の前で組まれ、指先が白くなるほど強く握られていた。
タナカはペンダントへ意識を向けた。
視界に流れ込む情報の中に、これまで感知してきたどの敵性反応とも違うものが混ざっていた。ただ、あまりにも遠く、あまりにも巨大な"揺らぎ"だけが、空間そのものを軋ませるようにして伝わってくる。
方角すら定まらなかった。北か、南か、あるいはもっと別の場所か。感知の網が届く範囲を、遥かに超えた場所で何かが起きている。それだけは分かった。
「何が起きた」
タナカは短く問うた。声に軽さは残っていたが、表情までは崩れていない。
エルシアはすぐには答えなかった。組んだ両手を見下ろしたまま、しばらく黙り込んでいる。神鳥もまた、翼を強張らせたまま動かない。夜風が枝葉を揺らす音だけが、その沈黙を埋めていた。
やがて、エルシアが口を開いた。
「……壊れました」
「何がだよ」
「器が」
短い言葉だった。だが、その響きには、これまでの淡々とした口調にはなかった重みがある。エルシアは顔を上げ、タナカへ視線を戻した。
金色の瞳の奥に、動揺と、それを押し留めようとする理性が同時に見えた。
「私のように、大地へ降り、力を蓄えていた者が――同胞が、他にも存在します」
「同胞?」
「はい。今の揺らぎは、その一人が眠っていた器を、何者かに壊されたことによって生じたものです」
タナカは眉を上げた。
「壊された、って。誰にだよ」
「どこで起きたのか、誰が壊したのか。私には、それを知る術がありません。ただ、一人、消えました」
消えた、という言葉の重さが、しばらく場に留まった。エルシアの視線は、感知できないはずの何かを探すように、暗い空の彼方へ向いている。
タナカは大剣の柄へ添えていた手を離し、腕を組んだ。驚きはあった。だが、それ以上に湧いてきたのは、単純な興味だった。
「へぇ……エルシアと同じ種族がまだいるのか」
エルシアは、その反応に一瞬だけ戸惑ったような表情を見せた。タナカの目に浮かんでいるのは無関心ではない。純粋に、まだ知らない何かへ向けられる関心の色だった。
神鳥がゆっくりと翼を畳んだ。強張っていた羽毛が落ち着きを取り戻していくが、金色の瞳はまだ、遠い空の一点から離れずにいる。
夜空へ視線を向けていたタナカは、やがて肩の力を抜いた。あの揺らぎがすぐに何かをもたらすわけではなさそうだと判断したらしい。
「そんじゃ、俺はそろそろ戻るわ」
軽く言ってから、隣に立つエルシアへ目を向ける。
「あれ、エルシアはどうするんだ?」
問われたエルシアは、傍らの神鳥へ一度視線を移した。金色の瞳が合うと、神鳥は静かに首を垂れる。何かを確認し合うような、短いやり取りだった。
「私は神鳥と共に、同胞を探しながら旅をしようと思います」
そう言ってから、彼女は森の奥、大樹の根元をゆっくりと見渡した。
「この地には、もう用もないので」
「ふ~ん、そうか」
タナカはあっさりと頷いた。引き止める理由もなければ、詮索する気もない。
だが、何も持たせずに送り出すのも味気ない。タナカは虚空へ右手を差し入れた。指先が空間へ吸い込まれるように沈み、次の瞬間、握られていたのは一振りの剣だった。
柄は白銀に輝き、刃には見る者を圧するような清冽な光が纏わりついている。鍔には精緻な紋様が刻まれ、握るだけで空気そのものが澄んでいくような気配があった。
エルシアの目が、初めて大きく見開かれた。
「これは――」
「これやるわ。こうして出会ったのも何かの縁だろ」
タナカは軽い調子で、剣の柄をエルシアへ差し出した。
「武気を流せば大抵のものは斬れる…はず。一応は光の力もあるから、多分相性も良いだろ」
聖剣エクスカリバー。レジェンドクラスの武器、それなりにレアなものだが、タナカには必要のないものだった。
エルシアは差し出された柄を、少しの間見つめていた。それから両手でそっと受け取り、握る。刃を通して伝わる力の質を確かめるように、指先にわずかな力を込めた。
淡い光が刃の表面を這い、彼女の掌へ馴染んでいく。相性の良さは、その反応だけで明らかだった。
先ほど、タナカが虚空から剣を取り出した仕草に、エルシアが疑問を挟むことはなかった。何もない空間から物を出す、という行為の異様さに気づかなかったはずはない。だが彼女はそれについて何も尋ねず、タナカもまたそれを語ることはなかった。
「んじゃ、またどっかでな」
「はい。また、どこかで」
タナカは片手を軽く上げ、踵を返した。裂け目に入り、大樹の内部へと戻っていく。エルシアはその背を、しばらく見送っていた。
内部の空間で、タナカは短い杖を取り出し、床へ触れさせた。青白い円が浮かび、木肌の上へ刻印を刻んでいく。宿の自室、寝台と壁の隙間に置いた起点と繋がる、三つ目の転移魔法陣だった。
刻印が沈み込むのを見届けると、タナカは完全擬態を発動した。巨躯が縮み、角と三つ目が消え、黒髪を後ろへ流した顎髭の男――アルクの姿へと戻る。
「よし、帰るか」
呟きながら、床の魔法陣へ魔力を流す。視界が白く塗り潰され、次の瞬間には宿の狭い自室の中に立っていた。窓の外はまだ夜のままで、遠くから酒場の笑い声が微かに聞こえてくる。
夜空を、神鳥は静かに滑るように進んでいた。
風を切る羽ばたきの音は、思いのほか小さい。エルシアはその背に乗り、白い翼の合間から地上を見下ろしていた。
眼下には、果てしなく広がる大森林が黒々とした海のように連なっている。木々の隙間からは、幾筋もの獣道と、大樹の周囲に散らばった魔物の骸が、月明かりの下でわずかに輪郭を浮かび上がらせていた。
さらに視線を遠くへ移すと、森は途切れ、荒れた大地が広がっている。土は乾き、ひび割れ、生命の気配がほとんど感じられない。その果てには、濁った色をした海が、鈍く波打っていた。
海の向こう、地平線の際で、空が不自然に揺らいでいる。夜のはずなのに、その一帯だけが陽炎のように歪み、色を変え続けていた。
エルシアはしばらく無言のまま、その光景を見渡していた。神鳥の翼が風を捉えるたび、彼女の長い金髪が後方へなびく。
「あれもまた、この大陸の異物。しかし、対話は出来る」
呟きながら、彼女はわずかに首をひねり、去ってきた方角――タナカのいる場所を振り返るような仕草を見せた。
だが、その声音には親しみの色がなかった。むしろ、観察の末に下した評価を口にするような、静かな冷たさが滲んでいる。
神鳥がさらに高度を上げる。羽ばたきの間隔が広がり、上昇の速度が増していく。荒れた大地、濁った海、揺らぐ空――その全てが、一望できる高さまで達した。
エルシアは金色の瞳を細めた。
「……荒れてますね。大地、海、空までもが」
言葉が、夜風に溶けていく。
「排除しなくては。この大陸を、主様に捧げるために」
その一言を最後に、エルシアと神鳥の姿は、夜の彼方へと消えていった。翼の白い残光だけが、しばらく空に淡く尾を引いていた。




