第28話 変動
亀裂は止まらなかった。
パキ、パキと乾いた音を連ねながら、結晶の表面を縦横に走っていく。タナカは大剣を握り直し、半歩だけ後ろへ下がった。逃げるためではない。斬るなら、いつでも斬れる間合いを保つためだ。
(触ってねぇんだけどな、マジで)
内心で呟きながらも、結晶から目を離さない。ぜんぶ見え見えだゾ〜?の感知は、相変わらず何も拾ってこない。予兆も、敵意も、脅威度すらも表示されないまま、ただ亀裂だけが加速度的に広がっていった。
やがて、最も太い亀裂が、女の顔の輪郭をなぞるように走り抜けた。
音が止む。
一拍の静寂のあと、結晶がまるで薄い氷のように、内側から音もなく崩れ落ちた。破片は地面に触れる前に淡い光の粒となり、空気へ溶けて消えていく。
支えを失った体が、ふわりと沈む。だが倒れることはなかった。素足が、木肌の床へ静かに触れる。長い金髪が、結晶の中では水中を漂うように揺れていたが、外の空気に触れた途端、重力に従って背中へ落ち着いた。
背の翼が、ゆっくりと開いた。羽毛は白く、先ほどの巨鳥と同じ輝きを帯びている。
女は数秒、その場に立ち尽くしたまま目を閉じていた。呼吸を確かめるように、胸がゆっくりと上下する。それから、瞼が持ち上がった。
金色の瞳が、真っ直ぐにタナカを捉える。
「……」
タナカは大剣を下げたまま、動かなかった。斬りかかる理由もなければ、逃げる理由もない。ただ、値踏みするように女を見つめ返す。
女の視線に、敵意の色はなかった。恐れも、警戒もない。ただ、初めて見る景色を確かめるような、静かな観察の色だけがそこにあった。
「……喋れるようになったか?」
タナカが口を開くと、女はゆっくりと頷いた。声は、結晶越しではっきり通る。澄んだ、それでいて感情の起伏が薄い声だった。
「ええ。あの器の中では、外の音はほとんど届きませんでしたから」
「なるほどな」
タナカは肩の力を抜いた。少なくとも、いきなり殺し合いになる雰囲気ではない。
「んで、あんたは誰なんだよ」
女は自分の手のひらを、確かめるように見つめた。指を一本ずつ開いてから、視線をタナカへ戻す。
「わたしは、神人族です」
「……神人族?」
「ええ」
女は淡々と繰り返した。名乗りに気負いはなく、当然の事実を述べるような口調だった。
(神人族……てっきり天使系かと思っていたが、聞いたことねぇな)
ゲーム内には無かった名前。となれば、この異世界そのものに元から存在する何かということになる。タナカの中で、警戒の質が少しだけ変わった。
敵かどうかではなく、未知に対する興味がじわりと湧いてくる。
「神人族か、初めて聞くな。それで、なんであんな結晶の中に閉じ込められてたんだ?」
「閉じ込められていた、というのは正しくありません」
女は静かに首を振った。
「あれは、わたし自身が選んだ場所です。この世界の変動に対応するため、大地へ降り、力を高めていました」
「変動?」
「ええ」
それ以上の説明はなかった。女の表情には、隠しているような色はない。
「じゃあ聞くけどよ」
タナカは大剣を肩へ担ぎ直した。
「あんた、ノクスルドにいたことはあったか?」
女の眉が、ほんのわずかに動いた。困惑、とまではいかない、小さな戸惑いだった。
「ノクスルド……存じません」
「じゃあ、俺のことも知らねぇってことか」
「はい」
即答だった。取り繕う様子も、誤魔化す気配もない。
タナカは口の端を持ち上げた。呆れとも、面白がっているとも取れる表情だった。
(マジで空振りかよ。あれだけキマイラだのオーガだの斬り倒したのに)
内心で軽く笑いながらも、口には出さなかった。無駄骨に終わったとしても、それはそれで悪くない。強い相手と全力でぶつかれたのだ。それだけで十分だった。
「じゃあさ」
タナカは首をひねり、裂け目の外を一瞥した。あの白い鳥が、まだそこで待っているはずだ。
「あの鳥、なんで俺を歓迎したんだ?敵意も見せずに、素直に入れてくれたけど」
女は少しの間、答えなかった。視線を裂け目の方へ向け、それから再びタナカへ戻す。
「あの子は、あなたを必要だと、感じたのでしょう」
「必要、か」
漠然とした答えだった。だが、それ以上を聞き出せる雰囲気でもない。女の口調には嘘の匂いがなかったが、同時に、自分自身もまだ全てを把握していないような危うさがあった。
タナカは顎に手をやり、しばし考え込んだ。質問を重ねるのは気が引けたが、聞かずにいられることでもなかった。
「ふ〜む…質問続きで悪いが、なんで今起きたんだ?俺が何かしたわけじゃねぇよな」
その問いに、女は初めて視線を落とした。
長い睫毛が、金色の瞳を覆う。答えを探しているようにも、答えを選んでいるようにも見えた。木肌の壁から垂れる根の光が、彼女の白い頬をほのかに照らしている。
沈黙は、思いのほか長く続いた。やがて、女はゆっくりと顔を上げた。
「あなたがここへ来たことも、変動の一つなのでしょう」
声のトーンは変わらない。それでも、その一言には重みがあった。
「これから先、何かが起きる……ということなのでしょうね」
タナカはその言葉を、しばし黙って受け止めた。曖昧な物言いだ。だが曖昧さの奥に、確かな予感のようなものが滲んでいるのが分かった。
「何かって――」
言いかけたその時だった。
大樹の外から、低い轟音が響いた。
腹の底へ直接叩き込まれるような、重い振動。木の繊維でできた壁が、びりびりと震え、天井から垂れた根の光が一斉に揺れる。
タナカの表情から、軽さがすっと消えた。
轟音は、間を置かず二度、三度と続いた。
木の壁がその都度震え、天井から垂れる根の光が瞬く。タナカは大剣を握り直し、裂け目へ向かって歩き出した。
「ちょっと見てくる」
振り返らずに言うと、背後で衣擦れの音がした。女が翼を軽く畳み、遅れずについてくる気配がある。
裂け目を抜けた瞬間、夜の森に満ちていたのは、これまでとは質の違う喧騒だった。
甲高い羽音、硬質なものがぶつかり合う音、そして時折混じる、獣の唸りとも金属の軋みともつかない鳴き声。タナカは大樹の根元に立ち、頭上を見上げた。
「……ん?」
思わず声が漏れた。
夜空を埋め尽くすように、無数の虫が飛び交っていた。だが、その姿はタナカの知るインセクト種のどれとも似ていない。
甲殻の継ぎ目が異様に多く、まるで複数の個体を無理やり合わせたような不規則な構造をしている。脚の数も一定でなく、六本の個体もいれば、十本以上を持つものもいた。
「これまた知らねぇやつだな」
タナカは目を細めた。ぜんぶ見え見えだゾ〜?の感知が、その一体一体へ向けて情報を拾おうとするが、返ってくるのは断片的な情報ばかりだ。強さ的には、大樹の周りにいた魔物よりも少し弱い程度だが、数が多い。
地面には、既に数匹が転がっていた。白く輝く光の槍に胴を貫かれ、体液を撒き散らしたまま動きを止めている。
視線を上げると、その光槍の出所がすぐに分かった。
あの巨躯の白い鳥だ。夜空の中心に浮かび、翼を大きく広げている。羽毛の輝きが増すたび、周囲に淡い光の粒子が集まり、それが凝縮されて槍の形を成していく。
虫の群れが、四方八方から鳥へ殺到した。
異常な速度だった。地面を蹴った個体が木の幹を跳ね、枝から枝へ跳躍しながら距離を詰める。空中の個体は羽音を鋭く鳴らし、螺旋を描いて急接近する。数の多さと動きの不規則さが合わさり、包囲そのものが読みにくい形を作っていた。
だが、鳥の動きは揺るがなかった。
翼の周囲に生まれた光が、瞬時に複数の槍へと変わる。狙いを定める間もなく、槍は正確に虫の急所――甲殻の継ぎ目や頭部の弱い箇所へ突き刺さっていった。地面へ落ちる個体が、次々と増えていく。
それでも群れは怯まなかった。むしろ数を減らすたび、残った個体の動きが鋭さを増していくようにさえ見えた。
四方から同時に襲いかかる瞬間、鳥は大きく羽ばたいた。
翼の先端から、光の斬撃が放たれる。それは扇状に広がり、迫っていた虫の群れをまとめて薙ぎ払った。断たれた甲殻が空中で弾け、体液が霧のように散る。
続けて、別方向から突撃してきた個体には、翼を盾のように広げて壁を作った。光の壁に体当たりした虫が、弾かれて地面へ叩きつけられる。壁はすぐに槍へと形を変え、倒れた個体へ止めを刺した。
槍、壁、斬撃。鳥はその三つを、まるで呼吸するように切り替えていた。
タナカは大剣の柄へ手をかけた。足裏へ武気を落とし、いつでも踏み出せるよう構える。
「数が多いな…俺も行く──」
「必要ありませんよ」
声をかけたのは、隣に立つ神人族の女だった。翼を静かに畳んだまま、視線は空の戦いに向けられている。
「…いや、手伝った方が早くねぇか?」
「必要ありません。あれらは、神鳥の糧となりますから」
繰り返された言葉は、静かだが確信を帯びていた。女はタナカへ視線を移す。
「あの神鳥は、わたしを守っているのではなく、この場所を守っているのです」
「ふ~ん、そうなのか。てか神鳥っていう種族なんだな」
タナカは大剣から手を離さないまま、目だけを空へ戻した。
言われてみれば、あの神鳥の動きに焦りはなかった。防戦一方でありながら、その一挙一動には無駄がなく、何より――ここより先へは一歩たりとも群れを通していない。大樹を中心に、目に見えない境界線でも引かれているかのようだった。
戦闘は、思ったよりも早く終わりを迎えた。
最後の一体が斬撃に切り裂かれ、地面へ落ちる。羽音が消え、森に満ちていた喧騒が一気に引いていった。残るのは、風が枝葉を撫でる音と、遠くで何かが崩れ落ちる小さな音だけだ。
タナカは肩の力を抜いた。
「終わったか」
神鳥は空中でゆっくりと旋回すると、翼をたたみながら降下してきた。その巨躯が近づくにつれ、羽ばたきが起こす風が、根元の枯葉を巻き上げる。
神鳥の金色の瞳が、女を捉えた瞬間だった。
大きな嘴が、まるで確かめるように、女の頬へそっと触れた。押し付けるでもなく、傷つけるでもない、軽い仕草だった。翼が小さく震え、それが喜びの表現であることは、タナカの目にも明らかだった。
女は小さく笑みを浮かべ、両手を伸ばして嘴を撫でる。硬質な表面を確かめるように、指先が滑らかに動いた。
その光景を眺めながら、タナカは口の端を持ち上げた。
「場所を守ってる、ね。にしては仲良さそうじゃねぇか」




