第25話 魅了
色欲ノ影が最初に狙いを定めたのは、群れの端で炎の勢いを整えていたキマイラ・ロードだった。
黒い瞳が細められ、獅子の目を覗き込む。
「こっちを見てぇ…?」
囁くような声に合わせ、影の周囲へ淡い紫の霧が滲み出した。キマイラ・ロードの動きが、ぴたりと止まる。次の瞬間には隣にいた同族へ牙を突き立てていた。
短い咆哮とともに、群れの中で亀裂が走る。
影はそのまま身を翻し、次々と魅了の霧を撒いていった。地上のタイラント・ボアが横合いのグリフォン・ロードへ突進し、羽ばたいたヴェノム・ワイバーンの毒牙が、味方であるはずのキング・オーガの肩へ食い込む。
同士討ちが、戦場のあちこちで連鎖していく。
ただし、通用しているのは一瞬だけだった。キング・オーガやグランド・ドラゴン、ゼニス・ディアほどの魔物は、霧に触れてもすぐに我を取り戻す。完全な支配には至らず、判断を一拍だけ乱すに過ぎない。
だが、その一拍で十分だった。
「そこだな」
タナカは地を蹴り、判断の狂ったゼニス・ディア一体の懐へ飛び込む。魔帝ノ大剣を振り抜くと同時に、背後の魔導砲身が別方向のグランド・ドラゴンへ一斉射撃を放った。着弾の衝撃で地面が抉れ、鱗の隙間から血飛沫が舞う。
戦場が、ひとつの意志で動き始めていた。
浮遊する砲身が独自に敵を撃ち抜き、色欲ノ影が敵の判断を乱し、タナカ自身が大剣で急所を斬り裂いていく。三つの力が絡み合い、乱戦の密度が跳ね上がっていった。
「……これだよ」
斬りながら、タナカの口元に自然と笑みが浮かぶ。
「これがやりたかったんだよな」
全力を出し切る感覚。病室のベッドで、指一本動かすことすら億劫だったあの頃には、決して味わえなかったものだ。
息が上がり、汗が飛び散り、それでも体が止まらない。生きている実感が、全身を駆け巡っていた。
だが、笑っていられたのもそこまでだった。
倒れた個体の数が増えるほど、残った魔物の連携が研ぎ澄まされていく。囲みの形が変わり、死角が消え、攻撃の速度そのものが上がっていた。
単純な力比べでは、いずれ削り切られる。
タナカは息を吐き、遊びを捨てた。
種族スキル"魔帝降臨"
体の中心から、重い波動が広がっていく。半径二百メートルに満たない範囲――だがこの密集した戦場には十分すぎる領域が、深紅の光に包まれた。
魔物たちの目に、怯えが現れる。そして、タナカの視界の解像度が変わった。
これまでも十分に鮮明だった知覚が、さらに一段階研ぎ澄まされていく。魔物の筋肉の震え、呼吸のわずかな乱れ、視線の動き――そのすべてが、次に来る攻撃の予兆として頭の中へ流れ込んできた。
(見える……)
ペンダントの効果と魔帝降臨が重なり、まるで未来を先読みしているかのような感覚に変わる。
キング・オーガが倒木を振り上げるより先に、タナカの足は既に動いていた。ヴェノム・ワイバーンが牙を開くより早く、大剣がその喉元を捉えている。回避と反撃が、途切れることなく連続していった。
「はっ、こりゃ楽しいな……!」
一体、また一体と、魔物が地に伏していく。
やがて、生き残った数体――キング・オーガ、グランド・ドラゴン、キマイラ・ロードの残党が、示し合わせたように一斉にタナカへ襲いかかった。四方から迫る牙、角、尾、爪。逃げ場を塗り潰すような、最後の総攻撃だった。
タナカは足を止めなかった。真正面から、突っ込む。
背後の魔導砲身が一斉に光を放ち、迫る敵の側面を貫いていく。色欲ノ影が最後まで残っていた一体の目を覗き込み、甘い声で囁いた。
「こっち見てぇ…?」
魅了された個体の攻撃が逸れた瞬間、タナカは大剣を大きく振りかぶった。
「――終わりだ」
一閃。
刃が戦場を薙ぎ払う。武気を纏った斬撃が、残る敵の胴体を次々と切り裂いていった。悲鳴も、断末魔も、瞬く間に静寂へと飲み込まれていく。
土煙が晴れた頃には、動くものは何もなくなっていた。
タナカは肩で息をつきながら、周囲を見渡す。倒れ伏した魔物たちの骸が、大樹の根元を埋め尽くしていた。だが、その巨大な幹には、傷一つついていない。
「……そんで」
タナカは大剣を担ぎ直し、遥か頭上へ視線を向けた。枝葉の向こう、月光すら届かない暗がりへ。
「この木……木だよな?なんなんだこりゃ」
問いかけに、答えが返ることはなかった。
その代わり――大樹の遥か上から、これまでとは比較にならない気配が、ゆっくりと降りてくるのが分かった。
ぜんぶ見え見えだゾ〜?が、初めて震えた。




