第20話 採取のついで
地下室を出たあと、アルクは宿へ向かって歩いていた。
通りの両側に立つ街灯は、淡い黄の光を石の継ぎ目へ落としている。遅くまで開いている酒場の扉が開くたび、焼いた肉と麦酒の匂い、それから酔った客の大きな笑い声が流れ出した。昼間なら荷車と人で埋まる道も、今は帰りを急ぐ数人が行き交うだけだ。
歩きながら、アルクはモヨモトが示した地図を思い返していた。アルンダラの南。都市からかなり離れた位置に、禁域はあった。
(待ってるやつの正体を急ぐより、先に転移魔法陣を置くべきだな)
声には出さず、アルクは頭の中でそうまとめた。
行きたい場所がある。だからこそ、一度きりの勝負みたいな踏み込み方はしたくない。好きな時に行けて、危なくなればすぐに引ける。そんな動き方が、アルクには合っていた。
そのためにも、まずは大森林で採取依頼でも受け、外縁の地形と魔物の強さを自分の目で測る。魔法陣を置く場所も、森の都合を知らなければ選べない。
宿の階段を上がり、自室の扉を閉める。アルクは鍵を掛けたあとも、しばらく耳を澄ませた。廊下を通る足音が遠ざかり、隣室から聞こえていた寝息も静かになる。
人の気配がないことを確かめてから、彼はアイテムボックスから、短い杖を一本取り出す。黒木の柄には銀の線が螺旋を描き、先端には淡い青の石が嵌め込まれていた。
"転移の杖"
ゲームの頃は、何度も使った品だ。というより、ChaosFantasyのプレイヤーのほとんどが使用していたものだろう。その頻度は鑑定虫眼鏡に並ぶ。アルクは寝台と壁の間、扉から覗き込んでも見えにくい隅へ杖の石突きを触れさせた。
小さく魔力を流す。
床板の上に、青白い円が滲むように浮かんだ。複数の刻印が輪を描き、呼吸一つぶんだけ光を増す。だが、起動していない陣はすぐに沈み、床には淡い模様だけが残った。
これなら、注意して見なければ木目か飾りの傷にしか見えない。
アルクは寝台を少し動かし、壁際へ置いていた革袋と替えの上衣をその前に寄せた。荷物の陰に隠れた刻印を見下ろし、満足して頷く。
翌朝、宿の一階へ降りると、女将が大鍋をかき回し、香草と豆の煮込みへ塩を加えている。
アルクはカウンターへ近付き、金貨を数枚まとめて置いた。
「女将、この金でしばらくあの部屋を取っといてくれな。荷物も置いてあるからさ」
女将は鍋から顔を上げ、卓上の金貨とアルクを見比べた。
「ずいぶん長く出るのかい?」
「そうなるかもしれんってだけだ。今日中には帰るよ」
「そうかい。帰る場所を空けとくのは悪くないね」
女将は金貨を木箱へしまい、太い指で帳面を開いた。
「部屋は触らないよ、変にトラブルになっても嫌だからね。掃除が要るなら、あんたがいる時に言っとくれ」
「ああ、助かるよ」
宿を出ると、帰還地点を確保した安心感が腹の底に収まっていた。アルクは外縁区画の東側にある冒険者ギルド出張所へ向かった。
朝の掲示板の前には、冒険者が何人か集まっていた。討伐依頼の紙を剥がす手、荷運びの報酬を品定めする声。その隙間から、アルクは大森林に関わる紙を探す。
見つけたのは、霧葉草と硬蜜茸の採取依頼だった。
霧葉草は回復薬に、硬蜜茸は保存食と滋養薬の材料になる。依頼文の下には、常時買い取りとある。それでも受注札は、他の採取依頼より多く残っていた。
受付へ紙を出すと、若い職員の女が眉を寄せた。
「お一人で受けられますか?」
「ああ。採るもん採ったら戻るよ」
職員は依頼書に目を落としたまま、確認するように続けた。
「外縁域でも、森の中は大平原とは別物です。奥へ入りすぎないこと。それから、日暮れまでには必ず戻ってください。夜の大森林は、巡回の救助隊も入れません」
「分かった。陽が傾く前には引き上げる」
気軽に答えると、職員はようやく受注板へ印を押した。
出張所を離れたアルクは、岩鉄の大剣を背負い、南側から城壁の外へ出た。
街を離れて南へ進むにつれ、草地は少しずつ姿を変えた。土を割って伸びた太い根が道を横切り、足元の草は木陰へ飲み込まれていく。やがて見上げた先で、枝葉が空を塞いだ。
大森林に入ると、空気はひやりと湿っている。樹皮には、刃物で抉ったような深い爪痕が何本も走っていた。
根元の柔らかい土には、人間より大きな足跡がいくつも重なり、どれが新しいのかすぐには見分けられない。
アルクは警戒を切らさず、霧葉草を見つけるたびに屈んだ。白い霧を抱えたような葉を、根を傷めないようナイフで切り取って革袋へ入れる。
採取の合間に探しているものは、別にあった。
周囲から見えにくく、巨大な根にも押し崩されにくい場所。転移魔法陣を置くなら、最低でもそれくらいは必要だ。
だが、都合の良い平地はほとんどなかった。地面が広く見える場所でも、土の下では根が盛り上がり、靴底を押し返してくる。根の上へ陣を置いたところで、季節が巡れば木が動かすかもしれない。
「思ったより探すの面倒だな、これ」
木々の隙間を見回し、アルクは小さく息を吐いた。
その時、前方で倒木が軋んだ。
半ば朽ちた太い幹が、根元から斜めに倒れ、半円形の空地を作っている。その影の向こうで、黒褐色の毛皮が揺れた。
筋肉の塊のような巨体が、ゆっくり上体を起こす。二本の太い後ろ脚で地を踏み、分厚い胸の前へ両腕をボクサーのように構えた。その目がアルクへ据わる。
「おお!ファイター・ベアじゃねーか!」
ゲームで何度も見た名が、頭の中へ浮かんだ。だが画面越しのモデルとは違う。湿った獣臭、根を軋ませる重さ、肩が動くたびに毛皮の下で波打つ筋肉が、目の前にある。
熊が根を踏み台にした。
巨体に似合わない速さで間合いを詰め、左拳を横から振り抜く。アルクは背の大剣を抜き、刃の腹で受けた。
鈍い衝撃が腕へ突き抜ける。大剣は横へ弾かれ、次の瞬間には熊の右拳が胴を狙って迫っていた。
アルクは腰を捻り、拳圧を革鎧の脇へ滑らせる。拳が背後の木へめり込み、樹皮が大きく弾けた。
「おっほ、迫力すげぇ」
口元に笑みが浮かぶ。アルクは足裏へ武気を落とした。風歩だ。
熊が左足を踏み出すより早く、アルクの身体が側面へ滑る。刃が熊の左腕を斜めに走る。
硬い毛皮と肉を浅く削り、赤黒い血が飛んだ。だがファイター・ベアは腕を引かなかった。痛みを無視したまま、倒木の幹へ拳を叩き込む。
爆ぜた木片が、雨のようにアルクへ降った。
視界の端で破片を避けた瞬間、熊の巨体がその後ろから迫ってくる。拳が届く距離まで追い詰められ、アルクは後ろ足で根元を強く踏み抜いた。
"震撃"
武気を含んだ衝撃が、根と土を前へ走る。熊の足元が跳ね、踏み込もうとした重心が半歩だけ浮いた。
それで十分だった。
アルクは大剣を引き、武気を刃に纏わせ、熊の脇腹へ大きく振る。
"鎧斬り"
毛皮の下で、硬い肉を裂く感触があった。さらに奥へ大剣を刺し、傷口を広げるように切り裂いた。
手応えと共に巨体が後方へ押し出され、折れた倒木へぶつかった。幹が大きく鳴り、ファイター・ベアはその場に膝をつく。血に濡れた毛皮を震わせたあと、巨体はゆっくり横へ倒れ込んだ。
アルクは大剣の血を、近くの草で拭った。腕にはまだ、最初の一撃を受けた重みが残っている。
「外縁でこれなら、禁域の奥は確かに別物だな。にしても、他にも魔物が来るかと思ったが⋯」
大きな戦闘音を響かせたのに、別の魔物がすぐ殺到してくる気配はない。遠くで何かの鳴き声が一度したが、近づく音は続かなかった。
「縄張り、だったりすんのかね」
アルクは熊の死骸を見た。素材を剥げば金にはなるだろうが、今の目的は採取と下見だ。ここで時間を使えば、夕方までに見るべき場所が減る。
「悪いな。今日は急いでんだ」
誰に言うでもなく呟き、革袋の口を確かめる。霧葉草は十分ではない。硬蜜茸も、まだほとんど見つけていなかった。
大剣を背へ戻し、アルクは倒木の空地を離れた。
木々のさらに奥、根が折り重なる暗がりの向こうから、甘く焦げたような匂いが微かに流れてくる。
アルクは歩みを止めず、その匂いが流れてくる方へ視線だけを向けた。
「……なんだ、あれ」
森の奥で、太い枝が一本、誰かに押し下げられたようにゆっくり沈んだ。




