第19話 魔神
地下室の光は変わらず青白く、モヨモトの手の中で地図が畳まれていく。羊皮紙の擦れる音が、静かな空間にやけに大きく響いた。
「待てよ」
タナカは巨躯を椅子の背に預け直しながら、地図を眺めていたモヨモトへ声をかけた。
「その待ってるやつって、誰なんだよ」
モヨモトの手が、畳みかけた地図の上で止まる。眼鏡の奥の瞳が、しばらく宙をさまよった。
「それは、私にも分からない」
「はい?」
「直接会ったわけじゃないからね」
あまりにあっさりとした返答に、タナカは思わず口を半開きにした。
「おいおい……ずいぶん思わせぶりなこと言っといて、それかよ」
「元々はノクスルドにいたという話だ。君が来れば分かると…たぶんフレンドとかじゃないのかい?」
「フレンドか。わりといたから候補が多すぎるな…」
モヨモトは肩をすくめるような仕草を見せた。長い時間の中で、彼自身もこの話を何度も反芻してきたのだろう。
声には、諦めに似た落ち着きがあった。
「私から説明できることは、それだけだね」
「ふーん、そうか。それじゃあ、禁域についてはどうなんだ」
話を切り替えると、モヨモトの空気もわずかに引き締まった。
「アルンダラ側では、まともな調査がほとんど進んでいない」
老人は地図を再び卓上に広げ、あの塗り潰された一帯を指でなぞった。
「昔に何度か調査隊を送ったことがあった。だが、そのうちの何隊かは帰ってこなかった」
「帰ってこなかった、って……」
「今では調査そのものを取りやめている。内部にどんな魔物がいるのか、どういう勢力図になっているのか、正確なところは誰も知らない」
タナカは腕を組んだまま、地図の空白へ視線を落とした。他の地域には道や地形が細かく描かれているのに、その一帯だけが、まるで存在を拒むように塗りつぶされている。
「ただ、禁域に関しては気をつけたほうがいい」
モヨモトの声が、一段低くなった。
「あそこは今の君でも、敗北し得る場所だ」
「へぇ……」
タナカの口角が、わずかに持ち上がる。純粋な興味の色が浮かんだ。
「それに、未確認の魔神もいる可能性がある」
その一言に、タナカの動きが止まった。
「それだ」
低く、地を這うような声で促す。
「魔神ってのは何なんだよ。まだ詳しく調べられてないんだが」
モヨモトの表情が、明確に曇った。皺の刻まれた顔から、先ほどまでの余裕がすっと消えていく。眼鏡の奥の瞳が一度だけ伏せられ、それから真っ直ぐタナカへ向けられた。
「あれは、私たちと同じプレイヤーだ」
一瞬、地下室の空気が固まった。
「は……?」
タナカの三つ目が、僅かに見開かれる。
「だとしたら、なんでプレイヤーが魔物側に味方してんだよ」
「味方をしている、というのとは少し違う」
モヨモトは卓に肘をつき、両手を組んだ。過去を掘り起こすような、慎重な口ぶりだった。
「私は長い年月をかけて、魔神について調べてきた。行き着いた結論を話そう」
老人は一度、部屋の隅に控えるエルフの女とダークエルフの男に目をやった。二人はすでにこの話を知っているのか、口を挟まず静かに立っている。
「"知性の無い設定の種族"。そういった種族のプレイヤーは、この世界へ転移した際、人間だった頃の記憶を保持できない。それが、私が行き着いた結論だ」
「知性の無い設定の種族…獣やら虫、スライムとかその辺か」
「そうだね。一応は、最上位種族では少ない方なんだけど」
モヨモトの声に、初めて疲労のようなものが滲んだ。
「そして、最下位種から最上位種まで関係なく、自分と同じ種の群れへ紛れ込み、その群れのために行動するようになる」
「群れに、か」
「ああ、少なくとも自我と呼べるものは残っていない。特徴的なキャラクリをしたであろう、あからさまにプレイヤーである魔神もいた。あれらがプレイヤーであること自体は、もう疑いようがない」
タナカは何も言わなかった。額の目が、じっとモヨモトを見据えている。
「色々と試した」
老人は静かに続けた。
「言葉をかけたこともある。かつての知り合いだと分かる相手もいた。だが、反応は返らない。彼らはダメだ。救えない」
その言葉には、諦めというより、何度も繰り返された結論の重みがあった。タナカは背もたれに体を沈め、天井を見上げた。
「つまり――もう、彼らは魔物そのものになっているということだよ」
その一言が、地下室の空気に沈んでいく。タナカは腕を組んだまま、しばらく黙り込んだ。脳裏に浮かぶのは、前にアルンダラに襲撃をかけてきたインセクト種たち。
「……じゃあ、あのインセクト種は?」
モヨモトはすぐに首を横に振った。
「今回のインセクト種の動きは違う」
はっきりとした否定だった。
「あれは、明らかに何らかの意図を持って動かしている者がいる。魔神の動きじゃない。気をつけておいたほうがいいだろうね」
タナカは腕を組んだまま、椅子の上で軽く体を揺らした。
「魔神とは別に――頭を使って魔物を動かしてる奴がいる、ってことか」
「そう考えるのが自然だろう」
モヨモトは短く答え、卓上の地図をゆっくりと巻き戻し始めた。青白い光の中で、擦り切れた羊皮紙が音もなく丸まっていく。
「禁域に行くなら」
モヨモトは巻いた地図を革筒へ戻しながら、ふと顔を上げた。
「フル装備で行くことをオススメするよ。彼らより明確に優位に立てるのは、装備だからね」
「ん、なるほどな」
タナカは頷いた。レベル自体は、この異世界の生き物たちも高い水準で持っている。だが、ChaosFantasyで積み上げてきたレジェンドやミシック級の装備品は、この世界の技術では到底再現できないものだ。
「なるほどな……そういや」
タナカは椅子の背にもたれたまま、ふと思い出したように口を開いた。
「他のー……来訪者だったか。お前の他にいねぇのか?」
モヨモトの手が、革筒の紐を結ぶ動きで止まった。しばらく間があった。
「……いるにはいる」
低く、抑えた声だった。
「けど、ほとんど死んだよ」
「……そうか」
「ああ。魔物と魔神の対処、戦争でね」
モヨモトは淡々と続けた。感情を込めているようで込めていない、長い時間をかけて慣れさせた語り口だった。
「ノクスルドには、タナカと同じような知性ある人外プレイヤーもいる。あちらは表立って存在を明かしているがね」
「へぇ、同じ人外か。会ってみてぇもんだな」
「機会があれば紹介できるかもしれない」
モヨモトはそう言うと、革筒を卓の端へ置いた。話はそれで一区切りついたらしい。
「今日のところは、これで十分だろう」
「ああ、助かったわ。色々とな」
タナカは立ち上がった。木の椅子が、その巨躯を支えていたことを思い出させるように軋む。
「また来てもいいか?」
「いつでも」
モヨモトの答えに満足げに頷くと、タナカは光に包まれた。骨が縮み、角が消え、灰色の皮膚が健康的な肌色へと変わっていく。数秒後、そこに立っていたのは、黒髪を後ろへ流した顎髭の男――アルクだった。
「じゃあな」
軽く手を上げ、アルクは螺旋階段を上っていった。
外へ出ると、夜のアルンダラの喧騒が広がっていた。石畳を照らす街灯の下、酒場から漏れる笑い声、遠くで犬が吠える音。地下室の静けさとは対照的な、生活の匂いに満ちた空気だった。
「待ってる奴、ねぇ……」
アルクの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「さて、何者なんだろうな」
夜風が頬を撫でていく。歩き出したその足取りに、迷いはなかった。
アルクが階段を上っていった後、地下室には青白い光と、三人の気配だけが残った。
エルフの女――エレナは、扉が閉まる音を聞いてから、ようやく肩の力を抜いた。長い耳が、まだ微かに緊張を保ったまま揺れている。
「本当に、禁域に行くつもりなのかしら?」
壁際に立っていたダークエルフの男――ヴァルドへ問いかけた。彼は腕を組んだまま、視線を扉の方角へ向けている。
「止められないだろう」
短い返答だった。
「あの男は、自分が危険だと理解した上で、それでも進む。そのような男に見えた」
「……そうね」
エレナは卓の上に残ったままの湯飲みを見下ろした。先ほどまでタナカが座っていた椅子は、木材が軋んだ余韻をまだ残しているように思えた。
「……あれほどの力を持っているのに、本人は、自分を強者だと思っていないように見えた」
その違和感が、彼女の中でずっと拭えずにいた。力を見せること自体を避けている。
「いや…単純に、この世界を楽しみたいんだろう。この世界の、一住人として」
老人は卓の椅子に腰を下ろしながら、遠くを見るような目をした。
「そういう人だった。前の世界でも、ね」
エレナはその言葉を、しばらく飲み込めずにいた。ヴァルドも黙ったまま、壁に寄りかかっている。
沈黙の中、エレナは口を開いた。
「……あの男が敵になったら?」
問いを発した瞬間、部屋の空気がわずかに冷えた気がした。
モヨモトは何も答えなかった。青白い光の下で、皺の刻まれた顔が、しばらく静止したままだった。長い沈黙が、地下室に落ちる。
やがて、老人は口を開いた。
「その時は」
声は静かだったが、そこには揺るがない重さがあった。
「私が刺し違えてでも、倒してみせるさ」
その言葉に、エレナは何も返せなかった。ヴァルドの腕を組む力が、わずかに強くなったのが分かった。
地下室の光は変わらず青白く、三人を照らし続けていた。
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