第18話 モヨモト
老人に連れられて辿り着いたのは、外縁区画の隅にある、これといって特徴のない古い住宅だった。
先頭を歩く、図書館で出会った老人が、扉の鍵を回しながら振り返った。
「見た目はただの古家だが、中身は少し違う」
扉の奥は、埃と湿った木の匂いがした。狭い玄関を抜けて奥まで行くと、窓のない一室があり、床の一部が螺旋階段となっていた。老人はためらいなくその階段を降りていった。
エルフの女とダークエルフの男が、無言のままアルクの後ろについてくる。
長い階段を降りきった先には、想像していたよりもずっと広い空間が待っていた。
窓は一つもない。柱すらほとんど見当たらない。天井も高く、部屋にはかなりの奥行きがある。壁と天井には淡く発光する石が等間隔に埋め込まれ、青白い光が床を照らしていた。
中央には、簡素な木の椅子が四脚と、丸いテーブルが一つだけ置かれている。
「随分と用心深い場所だなぁ」
アルクが軽口を叩くと、老人は椅子を引きながら小さく笑った。
「ここなら外から感知されない。魔力の反応も、武気の気配も、地上には漏れない造りだ」
エルフの女がテーブルの端に立ったまま、探るような視線をアルクへ向けている。ダークエルフの男は腕を組み、無言で壁際に寄った。促されるまま、アルクは老人の向かいの椅子に腰を下ろした。木の軋む音が、静かな部屋の中でやけに大きく響く。
老人は卓の上で指を組み、しばらくアルクの顔を見つめていた。皺の刻まれた瞳の奥に、値踏みとはまた違う、確かめるような光がある。
「私はしばらく、君を見ていた」
前置きもなく、老人はそう切り出した。
「街に流れ着いた冒険者として振る舞いながら、農家の柵を直したこと。戦後処理で死骸の運搬まで手伝っていたこと。この世界の住人たちと分け隔てなく接していたこと」
一つずつ、老人は淡々と数え上げていく。まるで台本でも読み上げるような口調だった。
「どれも、一つ一つは大したことじゃない。だが、積み重ねればそれなりのものが見えてくる」
老人はそこで一度言葉を切り、目を細めた。
「君は、この世界を愛せる者だと、私は判断した」
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。青白い光が、老人の白髪を照らす。
「色々話す前に――」
老人が、両手を膝の上で組み直しながら続けた。
「君の正体を教えてくれないか。完全擬態を使っているのは、分かっている」
エルフの女の視線が、わずかに鋭さを増した気がした。ダークエルフの男は表情を変えないまま、それでも一歩、壁から離れる。
アルクは腕を組み、しばし考えるように天井を見上げた。
「――それは構わない」
やがてアルクは口を開いた。
「ただ、その前にそっちのプレイヤーネームを教えてくれないか?プレイヤーだろ、あんた」
その問いに、老人の眉がわずかに上がった。だがすぐに、口元へ薄い笑みが浮かぶ。
「それはそうだね」
老人は椅子に深く座り直し、両手を軽く広げてみせた。
「私は、モヨモトだよ」
その名を口にした瞬間、老人は虚空へ右手を差し込んだ。指先が空間に吸い込まれるように沈み、次の瞬間、握られていたのは一振りの剣だった。刃は使い込まれたような艶を帯び、柄には見覚えのある意匠――竜を象った紋章が刻まれている。
『勇者ノ剣』
ChaosFantasy時代、"モヨモト"自身の象徴として掲示板で幾度となく語られていたユニーク武器だ。
アルクの表情が、その瞬間に崩れた。
「……あっははは!!」
抑えきれない笑い声が、地下の静けさを一気に破った。
「お前モヨモトだったのかよ!老けてて分かんなかったけど、確かに面影あるわ!」
腹を抱えるように笑いながら、アルクはテーブルを軽く叩いた。ダークエルフの男が、わずかに身構えるようにモヨモトへ視線をやる。だがモヨモトはそれを手で制した。
「他の二人は?!プレイヤーか?」
笑いを収めながら問うと、モヨモトは静かに首を横に振った。
「この子たちはこの世界の住人さ。今は色々と協力してもらっている」
「へぇ、なるほどな」
その答えを聞いて、アルクの目にあった最後の警戒がふっと緩んだ。
「じゃあ、俺の番だな」
呟くと同時に、190センチほどの人間だった体が、みしみしと軋みながら膨れ上がっていく。整った顔立ちは崩れ、皮膚が灰色へと変わり、額の中央に新たな瞼が持ち上がる。
黒毛に覆われた山羊の頭部が現れ、白い、ねじれた角が生えてくる。身長は3メートルにまで達した。。
光が収まったあと、そこに立っていたのは――否、座っていたのは、紛れもない悪魔の王だった。
「俺は、タナカだよ」
低く、地を這うような声が、静かな部屋に響いた。
モヨモトの表情が、初めて大きく崩れた。皺の刻まれた顔から、余裕も含み笑いも消え失せている。開いた口から、掠れた声が漏れた。
「た、タナカ!?」
椅子の肘掛けを握る指に、力がこもる。
「このタイミングで、君が来るのか……!」
背後の二人は、目の前に現れた異形の姿に、明らかな動揺を見せていた。エルフの女は反射的に半歩後ずさり、ダークエルフの男は腰の得物へ手をかけている。空気が、一瞬にして張り詰めた。
「――この方なら大丈夫だよ。二人とも」
モヨモトが片手を上げ、二人を制した。声はまだわずかに震えている。だがその目には、恐怖とは違う、もっと別の何かが宿っていた。
地下室の空気は変わらず冷たかったが、先ほどまでの張り詰めた緊張は、モヨモトが手を上げた瞬間からわずかに緩んでいた。それでもエルフの女とダークエルフの男は、悪魔帝の巨躯から視線を外そうとしない。
タナカはその視線に構わず、椅子に座り直した。木の脚が、体重を支えきれずに軋んだ音を立てる。
「で、モヨモトよ。あれからどうなったんだよ、アルンダラ。俺、あの後すぐに死んだから知らないんだよな」
タナカが低い声で促すと、モヨモトは組んでいた指をほどき、記憶をたどるように視線を宙へ向けた。
「そうか…君が城門を破って、数多のプレイヤーの討ち取り、大神殿の瓦礫の上で消えたあと――あれは伝説になったよ。単独でアルンダラを攻め落とした人外プレイヤーとして。
掲示板は数日間、まともに機能しないくらい荒れていた」
「あー、まぁそうだろうな」
「ゲーム内でアルンダラは一度陥落した扱いになって、しばらくは"魔帝都市アルンダラ"という名前に変わった。運営と管理者が急遽用意した特殊イベントだったんだろうね。街が丸ごと変わっていたよ、それこそ魔王城のようなのが建てられたりね」
「へぇ!そりゃすげぇな」
タナカが目を丸くする。額の目まで見開かれ、青白い光を反射した。
「それだけじゃない。そのアルンダラには、"魔帝ノ影"という名のレイドボスが発生してね。それが長い間アルンダラを占拠し続けた。
プレイヤーはアルンダラを拠点として使えなくなって、随分な騒ぎになったよ」
その言葉を聞いた瞬間、タナカの肩が震え始めた。堪えきれなくなった笑いが、地下室に響き渡る。
「――あっはははは!!俺が死んだ後、そんなことになってたのかよ!うわっ、いいな…見たかったなぁ!」
太い指で自分の膝を叩きながら、心底楽しそうに笑っている。エルフの女が思わずといった様子で一歩後ずさった。ダークエルフの男の眉間には、深い皺が刻まれている。
モヨモトは呆れたように息を吐き、口元だけをわずかに緩めた。
「君は本当に変わらないね……そういえば、最後にしっかりとゲーム内で会話したのは、PKギルドを壊滅に追い込んだときだったかな」
「あー、懐かしいな。モヨモトのギルドでPKギルド壊滅させるぞってときに勝手に俺も加わったやつだ。拠点全部潰したんだったかな」
タナカは笑いの余韻を残したまま、顎に手をやった。
「何故か俺だけ軽く炎上してて笑ったわ。あいつら悪者だったろ普通に」
「やり方は面白かったけど、君も一応はPKプレイヤーだったからね。人外プレイヤーでもあったし、何でお前も?って感じだったんだろう」
モヨモトが苦笑を浮かべながら返すと、タナカは肩をすくめた。
しばらくその場に、緩んだ空気が漂っていた。だが、モヨモトの表情がふと引き締まる。笑みが消え、皺の刻まれた瞳に、先ほどまでとは異なる硬さが宿った。
「ただ、一つだけ分かってほしい」
老人の声のトーンが、明確に落ちる。
「私は、君を危険視している」
「まっ、そりゃあな」
タナカは、驚く様子もなくあっさりと頷いた。当然のことを聞かれたとでも言うような、軽い調子だった。それが逆にモヨモトの言葉を後押ししたのか、老人は小さく息をついてから続けた。
「それでも、君ならある程度は信用できる。この世界での君の様子は見ていたし、ChaosFantasyでの関係もある」
タナカはしばらく黙り込んだ。額の目がわずかに細まり、微かに傾く。何かを吟味するような沈黙だった。
「…俺はこの世界が気に入ってるよ」
やがて、口を開く。
「飯は美味いし、人は面白い。俺はこの世界を楽しみたい。だから、わざわざ壊す気はねぇよ」
窓のない部屋の中、青白い光の下で、タナカの声には偽りのない実感がこもっていた。
「何より、異世界だぜ?ワクワクしない日本人がいるのかよ」
その言葉に、モヨモトはニッコリと笑みを浮かべた。長く生きてきた者特有の、深い皺の刻まれた笑顔だった。
「本当に、そうだね」
会話の空気が落ち着いたのを見計らったように、モヨモトはテーブルの端に置いていた革筒へ手を伸ばした。中から取り出したのは、古びた一枚の地図だった。
端は擦り切れ、所々に染みが広がっている。丁寧に広げられたそれは、アルンダラを中心にステラ大陸の一部を描いたものだった。
老人の指が、都市から離れた南の一点をなぞる。
「大森林」
その一帯には、他の地域とは違い、詳細な地形も道も描かれていない。ただ一色に塗り潰され、端に小さく「禁域」とだけ記されていた。
「君が来た以上、ここへ行く必要がある」
モヨモトの声は、静かだが揺るがなかった。タナカは巨体を前へ傾け、地図を覗き込んだ。
「ここに、何があんだよ?」
低く問うと、モヨモトは一拍置いてから、ただ一言だけを返した。
「君が来るのを、待っていた者がいる」




