第17話 師範
夜の冷たさが石畳に残るうちに、アルクは戦技訓練所の戸を押した。
中はまだ薄暗い。高い窓の外では、城壁の向こうがようやく白み始めている。昼間なら訓練生の掛け声で満ちる床も、今は何も聞こえない。
奥の走路に、ローデン師範はいた。
飾りのない灰色の訓練着に身を包み、腕を組んでいる。
「来たか」
「おう。おはよう」
「朝から声が出るなら結構。こっちに来い」
師範は短く言い、壁際に置かれていた低い机を引き寄せた。その上に湯飲みを一つ置く。湯気はもう薄い。師範は窓辺の鉢から、小さな木の葉を摘んで湯へ浮かべた。
「見ていろ」
ローデンの右手が、湯飲みの脇で止まる。
何かが光ったわけではない。けれど、葉の縁がほんのわずかに沈み、こちらへ向きを変えた。葉は湯の上を滑って師範の手前まで寄り、湯飲みの縁に触れて止まる。
湯面には、ほとんど波紋がなかった。
アルクは目を細めた。
「引っ張ったのか?」
「武気でな」
「いや、それは分かるけど……どうやったら水を揺らさずにできるんだよ」
「やってみろ」
湯飲みがアルクの前へ置かれる。葉は師範が指先で中央へ戻した。
アルクは掌を湯飲みの横へかざし、少ない武気を流す。次の瞬間、武気が水面を叩いた。
ぴしゃりと湯が跳ねる。
葉は一度持ち上がり、そのまま底へ沈んだ。
「いや、難しいなこれ」
ローデンは沈んだ葉を見てから、アルクへ視線を上げた。
「お前には、針の穴を通す力がない」
「必要なのか?それ」
「出来るようになれば、余計に武気を消費することも無くなる。それに、街での戦いにでもなれば、周囲に被害を出さないように戦うことも重要になるだろう」
「それは確かに、そうだな」
昨夜の風歩もそうだった。走るための一歩が跳躍になった。力を出すことなら、考えるまでもない。けれど小さく扱おうとした途端、武気は手の中からこぼれるか、逆に消えてしまう。
「まず、水面を揺らさず、木の葉の縁に武気を触れさせる」
「触れるだけ、か」
「そうだ」
アルクは再び湯飲みに向き直る。さっきよりもさらに武気を絞る。細く。もっと細く。
だが、細くしようと意識を込めるほど、掌から流れていたはずのものが途中で千切れた。葉に届く前に何度も消える。
「ふふっ、ムズすぎ」
「力を止めようとするな」
「止めてない。抑え込んでんだ」
「同じ顔をしている」
師範の声は変わらない。
アルクは鼻から息を吐いた。拳を握りかけて、開く。湯飲みの中の葉は、何も知らないように水面へ浮かんでいた。
次は、葉の片側へ武気が届いた。
触れた、と感じた瞬間に、湯面が震えた。葉がくるりと回り、縁へぶつかる。
朝の光が床へ細長く差し込むまで、アルクは葉の縁だけを追った。
触れた感覚が分かるたび、今度は水を揺らさないことを急ぐ。急げば、武気は水面を叩く。慎重になりすぎれば、葉へ届かない。
ようやく葉の縁を二度続けて捉えた時、ローデンは木皿をアルクの前へ押し出した。
「二つ目だ。左の葉に乗った水を、一滴だけ右へ移せ」
「水を?」
「ああ。押さないように、雫の道を作れ」
皿の上には2つの葉が並ぶ。左の葉の中央に丸い雫があり、隣の葉までは指二本ぶんほど空いていた。
アルクは葉の縁を触れた時の感覚を思い出す。雫の下へ武気を滑らせ、行き先の葉まで細く伸ばす。
最初の試みで、水滴は葉の表面を震えながら動いた。雫の底が細く伸び、隣の葉へ渡りかける。
いける。
そう思った途端、指先から武気が強く漏れた。
ぱちん、と水滴が弾ける。
細かな飛沫が木皿に散った。
「急ぐな」
「分かってるって」
「分かっている者は、雫を飛ばさん」
ぐうの音も出ない。アルクは濡れた指を服で拭い、師範の持ってきた水差しから、新しい雫を葉の上に落とした。
雫を半分ほど動かして落とした。葉の下から押し上げすぎて、葉ごとひっくり返した。何度もやり直すうちに、昼の光が高い窓から真っすぐ差し込む。
腹が鳴った時、ローデンは持っていた干し肉を半分だけ投げて寄越した。
「食え。手は止めるな」
「休憩なし?」
「この程度のことに休憩もいらん」
硬い干し肉を噛みながら、アルクはまた雫へ意識を伸ばす。
しばらく経った時だった。雫は、隣の葉へ渡った。
今度は弾けなかった。葉の上で丸くなり、朝より少しぬるくなった空気を映している。
「よっしゃ!」
アルクが顔を上げると、ローデンは小さく顎を引いた。
「今日のところは及第だ」
ローデンはそれだけを言った。けれど、朝から一度も変わらなかった口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
その瞬間だった。
道場の外、門前を野良猫が横切る足音が聞こえた。爪が石を掠める軽い音。その奥では、風に揺れた竹が乾いた葉を擦らせている。さらに遠く、通りを進む荷車の軋みと、車輪が石畳を越える振動。
どれも、前から聞こえていたはずの音だ。
なのに今は、音と音のあいだにある静けさまで分かる。
猫の足取り。竹を揺らす風の向き。荷車を引く馬が一度だけ鼻を鳴らしたこと。その一つ一つが細い糸に触れ、わずかに震えていた。
アルクは思わず、門の方へ顔を向ける。
「分かるか」
ローデンが聞いた。
「ああ。なんか……音が近い、か?」
「…武気が整ったことで、感覚が鋭くなっているんだ。気が向いたらまた来い、見てやる」
「あぁ、ありがとう」
アルクは手を振り、訓練所を出た。
外へ出ると、陽はもう屋根の向こうへ沈みかけていた。昼の熱を失い始めた石畳に、店じまいを急ぐ露店の匂いが流れる。
いつもなら、腹を空かせて屋台を探しただろう。
けれど今日のアルクには、路地の静けさが妙に引っかかった。
人の話し声はある。鍋の蓋が鳴る音も、二階の窓が閉まる音もする。
その中に、三つだけ違う震えがあった。
隠していない。
むしろ、こちらが気づくのを待つように、意図して気配を置いている。
アルクは足を止め、細い脇道へ目を向けた。
夕闇の手前、石壁のそばに三人が立っていた。
淡い金髪を束ねた、耳の長いエルフの女。黒い肌と銀髪を持つ、背の高いダークエルフの男。そして二人の間に、眼鏡をかけた白髪の老人がいる。
見覚えのある皺の刻まれた顔に、アルクの喉が小さく鳴った。
「あの時の……」
図書館で、モヨモトのギルドマークを差し出した老人だった。老人は眼鏡の奥からアルクを見つめ、静かに口を開く。
「来なさい。情報共有をしよう」




