第16話 戦技
魔法訓練所を出たあと、ミナは抱えていた冊子を胸元へ引き寄せたまま、中央区画の石畳を奥へ進んだ。 行く先にあった戦技訓練所は、さっきまでいた建物よりずいぶん開けて見えた。
揃った掛け声と、木がぶつかる乾いた音が絶えず聞こえてくる。
中へ足を踏み入れると、木の匂いと、汗の混じった空気が鼻へ届く。
硬い木材を敷き詰めた床には、白い線でまっすぐな走路が何本も引かれていた。壁際には木剣、丸盾、先端を丸めた木槍が長さごとに並んでいる。中央の広い区画では、訓練着姿の若者たちが声を揃え、腰を落とし、腕を前へ突き出していた。
号令に合わせて踏まれる足裏が、床をどん、と鳴らす。
少し離れた場所では、見覚えのある青年が一人で木剣を振っていた。額に汗を浮かべながら、肩口から斜めに振り下ろし、すぐに構え直す。以前、バイト・アントの群れに囲まれていたレオだった。
アルクが足を止めると、レオもこちらに気付いたらしい。木剣を脇へ下ろし、遠くから深く頭を下げた。アルクは片手を上げて返した。
「空いてるところ、あっちですね」
ミナは壁際の走路を指した。二人で白線の内側へ入ると、彼女は冊子を開く。そのページには、息を吐く人型と、腰から肩、腕、脚へ伸びる何本もの線が細かく描かれていた。
「ええと……武気は肉体から生み出されるエネルギー。呼吸で整えて、必要な部位へ流す、です」
ミナは一行ずつ、確かめるように読んだ。
「最初は、全身に循環させるところから始めるって書いてあります。アルクさん、武気を流すところから、教えてもらえませんか」
真剣な目を向けられ、アルクは後頭部を掻いた。
「俺もちゃんと意識するのは初めてだぞ」
「えっ」
「いや、使えてはいるんだけどな。考えずにやってたっていうか」
ミナは一度だけ目を丸くしたあと、冊子を胸に抱え直した。
「それでも、使える人の感覚を聞けたら助かります」
「まぁ、そうだよな」
アルクは走路の白線へ目を落とす。呼吸をゆっくり吐き、腹の奥に意識を沈めてみた。
武気は、意識を向けた途端に身体のどこからでも溢れてくる。それを肩から腕へ、背から足へと巡らせる。今までなら、次に使う技へ一気に押し込むだけだった。
「まず、力を入れすぎない方がいい……と思う」
「と思う、ですか」
「ああ。俺の場合は、力むと流れが散る感覚があるな」
ミナは冊子を脇へ置き、目を閉じた。両足を肩幅に開き、鼻から静かに息を吸う。
最初は肩に力が入っていた。首筋が硬くなり、上げた両手の指先までぴんと伸びる。彼女の胸元に集まった淡い武気が、そこから先へ進まずに薄れた。
「あっ……消えました」
「肩が上がってる。深呼吸して」
「はい」
二度目、ミナは両手を下ろして、腰の辺りへ意識を置いた。さっきより肩は落ちている。だが武気が腿を通り過ぎると、膝の下で止まった。
彼女の膝が、ほんの少し震える。
アルクは冊子の図とミナの立ち方を見比べた。図の人型は、背筋を伸ばしながらも、膝を固めてはいない。
「力が入り過ぎて、そっちに意識がいっちゃってんな」
ミナは「分かりました」と小さく頷き、もう一度息を整える。彼女の足裏へ届く前に武気が途切れるのを眺めてながら、アルクは自分の武気の流れを確認する。
大きすぎる量を、勢いだけで押し流しているだけだ。
「結構難しいなこれ」
アルクが口にすると、ミナは目を閉じたまま苦笑した。
「はい。魔力の流れと似てはいるんですけど……武気の方が、体そのものが動いちゃう感じがします」
「出そうとすると、つい力まで出るんだよな」
それからしばらく、二人は呼吸を繰り返した。教える側と教わる側というより、冊子に載った線を一緒に追っているようだった。やがて循環させる
やがてミナが、次のページを開く。
「次は移動戦技です。"風歩"ってやつですね」
「へぇ、速くなるやつか。良いな」
ページの端に、短く説明が添えられている。踏み込みの瞬間だけ足へ武気を流し、初速と切り返しを強める基礎戦技。
二人は空いた走路の端へ並んだ。冊子の図どおり、片足を半歩引き、重心を低くする。とりあえず、アルクが先にやってみることにした。
足裏に武気を流し、走り出す。
しかし、押し込んだ武気の量が、明らかに多すぎた。
「どわぁ!?」
床を蹴った足が、木板を軋ませる。身体が前へ弾かれ、走り出す一歩目のはずが、大きな跳躍になった。
咄嗟に腰を落として着地する。柱の前でどうにか止まったが、床板がぎしりと悲鳴を上げた。
周囲の掛け声が途切れ、いくつもの視線がこちらへ向く。
アルクは柱から半歩離れ、何事もなかったように髪を掻いた。
「単純に足が速くなるっていうより、跳び出す感じか」
隣まで駆け寄ったミナが、口元を押さえた。肩が小さく揺れている。
「ふっふふ……一応、成功はしましたね!」
「ああ、そういうことにしておこう。今のは走ろうとしたんじゃなくて、跳ぼうとしたんだ」
「はいはい」
ミナの声に笑いを含んでいるのが分かり、アルクもつられて笑った。
今度は、武気の量を少なめに。踏み込む直前にだけ武気を置き、すぐ引く。
白線の端へ戻り、息を吐く。
木板を鳴らすことなく、アルクは三歩ぶんだけ鋭く加速した。白線の内側で止まり、振り返る。さっきのような派手さはない。
だが、足裏に残った感触ははっきりしていた。
「今のは良い感じか」
「すごいです。最初のはびっくりしましたけど、今のは……音も小さかったです」
「なら良かった。武気って、細かく使う方が難しいな」
次はミナが、開始線へ立った。
最初の一回は、足に力が入っただけだった。二回目も、爪先がわずかに擦れただけで、身体は前へ出ない。ミナは唇を結び、何度か足首を回した。
三度目、彼女は一度だけアルクを見た。
「足裏に武気を溜める感じですよね?」
「そうだな。ミナだと逆に、多めに武気を溜めていいかもな」
ミナは頷き、目を前へ戻す。息を吐く。肩を下げる。右足が床に触れた瞬間、彼女の身体がすっと前へ滑った。
白線を越えるほどではない。それでも一歩目は、先ほどまでとは明らかに違う速さだった。
ミナはその場で止まり、目を丸くする。それから、嬉しそうに笑った。アルクも拍手しながら笑みを浮かべる。
「今、ちょっとだけ加速しましたよね?」
「ああ、風歩になってたな!」
「やった……」
ミナはその言葉を繰り返し、握った拳を胸の前で小さく上下させた。もう一度試そうと、アルクが走路の端へ戻った時だった。
隣の走路が、急にざわついた。
金糸の刺繍が入った訓練着を着た若者たちが、待っていた訓練生の前へ割り込んでいる。先頭に立つ男の横顔を見た瞬間、アルクは串焼き屋台の前を思い出した。
フランクだ。
「お前らはまだだろ!今は俺たちが使ってんだ!」
薄茶の髪を短く切った青年が、走路の端に置かれた小さな木札を指さした。
「先に札を置いたのはこちらだ。見えなかったのか」
フランクは木札を靴先で脇へ退けた。取り巻きたちが、後ろで肩を揺らしている。そして、足元に自分の木札を置く。
「優れた者が訓練を急ぐ。何かおかしいか?」
「おかしいに決まってるだろ!」
声を上げた訓練生が、壁際から木剣を取った。フランク側の一人も、近くの木剣へ手を伸ばす。
ミナが、そっとアルクの袖を引いた。
「あの人たちは、英雄の子孫と呼ばれている人たちですね」
声を潜め、走路の方を見たまま続ける。
「素行が悪い人が多いイメージです。もちろん、ちゃんとしている人もいますけど」
アルクは頷いた。レオを農家へでも行けと嘲った時と同じ、嫌に人を値踏みする目だった。
「順番を守れ」
木剣を持った訓練生が、一歩前へ出る。フランクの取り巻きも木剣を抜き、先端を相手の胸へ向けた。
最初は互いの剣を弾くだけだった。乾いた音が二度、三度と鳴る。だが、木剣の一本が横から振られ、相手の肩へ鈍い音を立てて当たった。
「何しやがる!」
怒鳴り声とともに、両側が前へ出た。
順番を奪ったのはフランクたちだ。しかし、顔を赤くした訓練生たちも木剣を振り上げている。その中にはレオも加わっている。細い走路の中で、木剣がぶつかる音が何度も跳ねた。
乱闘の端の、アルクたちの近くで、年若い訓練生が一人、肩を押されてよろめいた。背中の先には壁があり、その横から別の木剣が大きく振られている。
「危ないですよ!」
ミナが反射的に駆け寄り、その子の腕を引いた。
その瞬間、フランク側の一人が相手の木剣を強く弾いた。
手を離れた木剣が、横に回転しながら空を切る。回った先には、ミナの横顔があった。武気の混じった腕で打たれたらしく、木剣の風切り音が耳へ鋭く刺さる。
考えるより早く、アルクの足が動いた。
足裏へ武気を通す。
細く。短く。
一歩目で白線を跨ぎ、二歩目でミナの脇へ入る。三歩目で、彼女の腰へ腕を回して横へ運んだ。
空いた手で飛来した木剣の柄を下から叩く。軌道が床へ逸れ、木剣は二度跳ねて、乾いた音とともに止まった。
ミナの身体を支えたまま、アルクは周囲を見回す。
「大丈夫か」
「は、はい……」
ミナは驚いた顔のまま頷いた。腕を離すと、彼女はすぐに年少の訓練生を壁際へ導く。
アルクは足元の木剣を拾った。軽い木の感触が掌へ馴染む。子供まで巻き込ませるわけにはいかない。
走路の中央へ踏み出し、声を張ろうとした。
その前に、鋭い木の音が鳴った。
フランクが、肩を押された訓練生へ木剣を振り下ろしていた。その刃を、いつの間にか間へ入っていた老いた男が素手で掴んでいる。
短く刈った白髪。頬と額には深い皺が走り、着ている訓練着には刺繍も飾りもない。武器も鎧もないのに、木剣を握った指は微動だにしなかった。
フランクの腕だけが、宙で止まっている。
老いた男は、木剣を見もせずに言った。
「剣を振る相手を間違えるな」
声は大きくない。それでも走路にいた全員が動きを止めた。
ミナがアルクのそばへ戻り、小さく囁く。
「ローデン師範です。この訓練所の……」
ローデンはフランクの手から木剣を抜き取った。抵抗する隙などなかった。次に、最初に木剣を取った訓練生の前へ立つ。
「前を向け」
低い声に、青年は俯けていた顔を上げた。
ローデンの指が、青年の額へ飛ぶ。
バチッ、と鈍い音がした。
青年が額を押さえ、声もなく膝を曲げた。そのままローデンは、木剣を取った者の前へ一人ずつ移っていく。フランクの取り巻きにも、順番を守れと叫んだ側にも、容赦なく指を当てた。
派手な一撃ではない。年長者が悪ガキを叱るような所作だった。というか、そのまんまだろう。
それでも、誰もが額を押さえ、次の言葉を待っていた。
「待たされたからと木剣を抜くな。武気は、怒鳴り声を大きくするためのもんじゃない」
ローデンの目が、走路に集まった全員をゆっくり見回した。
「自分と、隣に立つ者を生かして帰すために使え」
フランクが額を撫でながら、口を開いた。
「ですが、先に手を出してきたのは――」
「なら聞くぞ。今の一振りで、お前は何を守った。自分のプライドか?」
フランクの唇が閉じる。
ローデンは一拍待った。答えは出なかった。
バチッ
もう一度、フランクの額へ指が落ちた。さっきより軽い音だったのに、フランクは息を詰めて額を押さえた。
「お前たちが、走路を無理矢理使おうとしたのが主因だ。七日間、対人訓練は禁止。加えて十日、訓練所の床を磨け」
フランクと取り巻きの顔が揃って強張る。
「そちらは、剣を抜いて乱闘に加わった。三日間の対人訓練禁止と、床磨き三日だ」
最初に抗議した青年が、悔しそうに口を結んだ。けれど、木剣を持った手を下ろし、黙って頷く。フランクの側も不満を隠しきれてはいないが、誰も逆らわなかった。
ローデンは散らばった木剣を顎で示した。
「片づけてから帰れ。走路を使う者は、その次だ」
訓練生たちが動き始める。拾われる木剣の音が、静まった訓練所へ一つずつ戻ってきた。
アルクは手にした木剣を、壁際の棚へ戻す。横でミナが、まだ少し青い顔をしていた。
「ほんとに大丈夫か?」
「はい。アルクさんが、すぐに来てくれましたから」
ミナはそう言ってから、さっきよりも小さく笑った。
その時、ローデンの足音が近づいてきた。
老いた師範は、アルクの足元に引かれた白線を見ている。次いで、柱の前まで残った浅い靴跡へ視線を移した。
「さっきの踏み込み、風歩を使ったな」
「ああ、上手いこと出来てたか?今日初めてまともに武気を操作したんだが」
ローデンの目尻が、わずかに動いた。
「まだ荒いが、出来ているほうだろう」
ローデンは白い髪を一度撫で、壁際の棚に並ぶ木剣へ顔を向けた。
「明日、日の出前にここに来い。武気の扱い方を教えてやる」
そう言い残し、師範は別の走路へ歩いていった。それから、次はミナから魔法を教わる約束をして今日は解散した。
アルクは硬い寝床で寝転がりながらも、明日の指導が楽しみでしばらく寝付けなかった。




