第14話 定例会議
評議会棟の円形会議室には、朝から湿った石の匂いがこもっていた。高い窓の外では、今にも雨を落としそうな雲が、アルンダラを低く覆っている。
丸く並べられた卓には、農地の水路を書き込んだ図面、外縁区画の防壁修繕に関する見積もり、街の灯晶石を補充するための予算書が積まれていた。
どれも、今日の定例会議で扱うべきものだった。だが、卓の中央に広げられた一枚の地図が、室内の視線をそちらへ引き寄せている。
アルンダラの東門から伸びる街道。その先の大平原には、黒い墨で歪な円が描かれていた。円の脇には、冒険者ギルドの印章が押された緊急報告書が置かれている。
硬い羊皮紙の端は、何度も読まれたのか、わずかに反っていた。
評議員たちの話し声は小さい。誰もが手元の書類を見ているふりをしながら、中央の円から視線を外せずにいた。
また襲撃が来るのではないか。
その言葉は誰の口からも出なかったが、椅子の軋みと、蓋を閉め忘れた銀製の水差しが震える音が、かえって室内の落ち着かなさを際立たせていた。
議長席に座る優しげな表情を浮かべた細身で高齢の男性、ヴェルドランは、白い髪を指で耳の後ろへ流し、手元の紙束をゆっくりと整えた。
いつもなら意見の一つ二つはぶつかる議題が、その朝に限っては妙なほど滑らかに進んだ。皆、別の紙束を待っているのだと、ヴェルドランにはよく分かっていた。
最後の書類へ判を押すと、彼は印章を卓へ置いた。
小さな音だった。
それだけで、端にいた二人の評議員の囁きが途切れる。
ヴェルドランは中央の地図へ視線を落とし、穏やかな声で言った。
「本日最後の議題です」
声量は高くなかった。それでも、紙をめくる音まで消えた。
「東側大平原で見つかった損壊地と、先日のインセクト種による襲撃について。ミレアさん、報告をお願いできるかな」
円卓の向かい側で、ギルドマスターのミレアが頷いた。
彼女の前には、報告書が寸分のずれもなく並べられている。金髪を肩の後ろへ払うと、一番上の一枚を取り上げた。その隣、騎士団長のガルドは鎧姿のまま腕を組んでいる。
「東側外縁を襲ったインセクト種は、ニードル・ビー、バイト・アント、アイアン・ビートルの群れでした。種の異なる群れが、同じ方向から連携して防壁を目指した点だけでも通常ではありません」
彼女は地図の東門付近へ細い棒を置いた。
「加えて、前線の薄い地点へ、アイアン・ビートルという中核個体が的確に投入されていました。これは、自然な群れの動きとして扱うことはできません」
卓のどこかで、誰かが浅く息を吸った。
ガルドの口は固く閉じられている。攻め寄せた虫の群れを、城壁の上から見下ろしていた時と同じ顔だった。
ミレアは二枚目の紙へ手を伸ばす。
「次に損壊地について。現地を調査したサイラスとリュシアの記録では、発見された損壊地は災害や魔法のいずれによるものでもありません。損壊地に残された武気の反応から、戦技によるものと判明しました」
円形の会議室に、雨粒が窓を叩く音が混じり始める。
「さらに、です」
ミレアが声を続けた。
「土の中には、バイト・アントとニードル・ビーの残骸がいくつも発見されました。損壊地を作った者は、インセクト種を相手に戦技を使った可能性が極めて高いと考えます」
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に動いたのはガルドだった。腕をほどき、指を一度鳴らす。
「インセクト種の目的が分からない以上、俺が言うことは一つだ。次に壁へ来た時のために、民を死なせない準備をする」
視線が評議員たちを順に巡った。
「しばらくの間、東門に騎士と冒険者の即応部隊を置く。農地から中央区画へ抜ける避難導線も組み直し、感知魔法士は東側の感知に集中させる」
飾り気のない言葉だった。だが、防衛戦で東壁に立っていた者の声には、卓上の数字より重いものがあった。
ヴェルドランは、小さく頷いた。
「良い提案だね。人員の組み替えを含めて、あとで騎士団とギルドから案を出してもらおうか」
「それより先に、損壊地の主を探すべきです」
すぐに別の声が割り込む。
卓の西側に座る評議員が、地図の黒い円を指で叩いた。
「ガルド殿とミレア殿に並ぶ使い手が、東に潜んでいるかもしれない。大部隊で平原を捜索し、正体を突き止めるべきでしょう。
待っていれば、次はこの城壁へ向かうかもしれません」
数人が首を縦に振った。
ミレアは、視線を紙から上げる。
「大部隊を出す案には反対です」
「なぜだ。危険を放置するのか」
「大平原自体が危険だからです」
ミレアの返答は、わずかな間も置かなかった。
「大軍を出せば、損壊地の主を探す前に魔物からの襲撃で被害が出ます。魔物を集めたうえで帰還できる保証もありません。
何より、あの損壊地を作った者を見つけたところで何か出来るわけでもない。それが魔物であった場合は特に」
反論しかけた評議員は、唇を閉じた。ヴェルドランはその横顔を見つめながら、卓上の空気が少しだけ落ち着くのを待った。
しかし、別の評議員が椅子から身を起こす。
「統率された魔物……ノクスルドの策謀ではありませんか」
雨音が強くなったように、ヴェルドランには聞こえた。
「協定があるとはいえ、あちらには人ならぬ者が多い。虫を誘導する術を持つ者がいても不思議ではない。北側の警備を増やし、使節の往来も――」
「根拠はあるかい?」
ヴェルドランが遮った。
声音は先ほどと変わらない。だが、口を開いていた評議員は途中で言葉を失った。
ヴェルドランは、相手が答えるのを急かさなかった。窓を打つ雨が、規則正しく続く。やがて評議員の指先が卓から離れた。
「……ありません。しかし、可能性としては」
「可能性なら、いくらでもあるからね」
ヴェルドランは目尻に細い皺を寄せた。
「根拠が無いのなら、協定相手を敵と仮定するのは違うと思うな。憶測で北側へ軍備を動かせば、東門を守る手も痩せてしまう」
誰も異を唱えなかった。
「北側への余計な軍備移動は無しだ。ただ、ノクスルドにも情報提供を求めてみようか。アルンダラが襲撃された以上、次はノクスルドの可能性もあるしね」
そこでようやく、ミレアが短く頷いた。ガルドも腕を組み直し、窓の外へ一度だけ目を向ける。
ヴェルドランは、中央の亀裂図へ手を伸ばした。
紙面には、調査員が記した寸法が並んでいる。見慣れた単位が、目に入ってもすぐには意味を結ばなかった。戦技で大地をここまで破壊する者を、彼は何人も知っているわけではない。
「この規模なら、ガルド殿かミレア殿に並ぶほどの戦技使用者、と見ていいのですね」
誰かの問いに、ミレアが答えた。
「少なくとも、並の使い手ではない。禁域の魔物なら説明はつきます」
ヴェルドランは亀裂の中心を眺めた。
禁域の魔物。そう呼べば、話は収まりがいい。人の届かぬ場所から、たまたま禁域から魔物が現れた。あり得ない話ではない。
「禁域の魔物――あるいは、来訪者か、魔神かな」
ヴェルドランは、亀裂図から目を離さずに言った。
会議室が静まった。
椅子の背にもたれていた男が、ゆっくりと姿勢を正す。誰かが息を詰める気配が、円卓の向こうから伝わった。ミレアの顔は変わらなかったが、報告書を押さえる指先だけが止まっている。
ヴェルドランはそこで初めて、亀裂図を伏せた。
「まっ、何はともあれ、分からないことが多すぎる」
彼は掌を軽く叩き、固まった空気をほどくように笑った。
「兵士や冒険者たちに、平時とは違う何かがあれば、些細なことでも報告するよう通達しとこうか。それと、大平原の損壊地付近にはしばらく近付かないように、だね。あの辺りはインセクト種も彷徨いているようだし」
ミレアとガルドを交互に見た。
「ミレア、ガルド、よろしく頼むよ」
「承知しました」
「分かった」
二人の返事は重なり、すぐに離れた。
会議は散会となった。評議員たちは椅子を引き、雨の残る廊下へ一人ずつ出ていく。卓上には冷めた茶の香りと、置き去りにされた書類だけが残った。




