56歳・1
早いもので、刑務所に入ってから十一年が過ぎた。
とはいえ、明美に施された延命手術のおかげか、入所したときからさほど歳を食っている気はしない。
外見は顔の小皺がわずかに増えただけでほぼ変わらないし、筋力においては十年前より若々しさが増している。単純な身体能力なら、全盛期の頃と大差ないだろう。
それでも、先を見越すと少々憂鬱になる。
明美の会社はこうしている間にも日々成長を続けており、そうした強大な勢力を私が潰せるのかどうか、まったくもって見通しがつかないからだ。
明美が持つ組織力、資金力を完璧に削ぐ。そうすることで、私の家族を人質とするヤツの作戦を破綻させる。
その手順を踏まなければ、私は明美を殺せない。
当然、策は幾つか練っているが、明美のほうだって対処法を用意してるだろう。
果たして、本当にヤツを殺せる日が来るのかどうか……。
まあ、ともかくあと一年で外に出られる。
後のことは後で考えるとして、今はこの充実した生活を続けるとしよう。
というわけで、私は刑務所の屋上にてビーチチェアに寝転がっていた。
初夏の日の快晴であり、実に空が青い。
気温は高いものの、日差しを防ぐパラソルと風を運ぶ扇風機があるため、さほど暑くはない。隣のミニテーブルにはジュースとスナック菓子が置いてあるし、実に快適だ。
「さて、そろそろ時間よ、玲ちゃん」
明美はサングラスをかけた目で、正面の空を眺めながら言った。私の隣のビーチチェアに寝そべっており、手にはワイングラスを優雅に掲げている。
私はビンに入った純水サイダーを一口飲み、細めた目を青空に向けた。
「本当に見えるのか? ここから」
「天気もいいし、確率は高いわよ。なんなら、賭けでもする?」
「じゃあ、もし見えたら、今日の夜は私が一方的に奉仕してやろう」
「フゥー! よぉし、なら見えることを切に祈るとしましょう」
テンション上げ上げの明美をよそに、私は正面の虚空に指をスッ、スッ、と滑らせた。
視界にウィンドウやアプリのアイコンが表示され、それらを操作して目当ての動画チャンネルにアクセスする。
これは、目のコンタクトレンズと耳のイヤホン、そして手首のリングで一セットとなっている、最新の携帯端末だ。スマホの液晶画面に当たるものが網膜に直接投影されており、それを手の動きによって操作するのである。
『さあ、カウントダウンが始まりました! 人類初の月面旅行者たちを乗せたシャトルが、いよいよ出発します!』
正面に大きく開いたウィンドウの中で、アナウンサーが大声を発した。その後ろにはスペースシャトルの発射場があり、見物客が大勢集まっている。
銀色のシャトルをじっと睨み、私は腕を組んだ。
「……まったく、あれに碧が乗ってるとはな」
「いやはや、豪運よね。月旅行のチケットを抽選で当てちゃうなんて」
「まともに買ったら二千万ドルくらいするんだったか。そっちの一般販売分も応募者が多すぎて、最後は抽選になってたらしいが」
「そりゃあ、なんたって人類初のことだもの。とうとう月でバカンスができる時代がきたのだから、金持ちが集まって当然よ」
――そう、私の娘の碧は、なんとこれから月に旅行へ行くのである。
無料のペアチケットを抽選で一名に進呈する――というキャンペーンを旅行会社が展開し、なんと碧はそれに当選してしまったのだ。
全世界に向けたキャンペーンだったため、抽選応募者は数百万人に達していたという。それを勝ち抜いたのだから、明美の言うとおり、我が娘の運は凄まじい。
ペアチケットということで、碧は当然同行者に旦那さんを選んだ。
子供たちは小学校に上がってるし、そちらの面倒はうちの実家で見てくれる。久しぶりに夫婦水入らずで旅行をするのもいいだろう。
……さすがに人類初とか行き先が月って部分に、母としては不安を感じなくもないが。
ともあれ、シャトルの打ち上げはアメリカ――この刑務所からさほど遠くない場所で行われる。
ゆえにその瞬間を見守るべく、私はこうして屋上でくつろいでいたのだった。
カウントダウンが進み、画面の中のシャトルが煙を噴き上げ、一気に上昇していく。
事故が起きないよう必死に祈っていた私だったが、そのとき明美が甲高い声をあげた。
「玲ちゃん、見て!」
指差した方に視線を向けると、正面の空にうっすらと縦一直線の雲が発生しているのに気づいた。それはみるみるうちに、真上へと伸びていっている。
件のシャトルの軌跡であることは、あまりにも明白だった。
「賭けは私の勝ちみたいね。はぁーっ、今晩が楽しみだわ!」
一人で盛り上がっている明美には悪いが、そのへんは私としてはどうでもよかった。天へ昇るシャトルが無事であるよう、ひたすらに飛行機雲へと目を凝らす。
数分後、高高度にてロケットブースターの切り離しが行われ、シャトルは無事大気圏を抜けることに成功した。
その事実が動画のアナウンサーから伝えられ、私はようやく胸を撫で下ろす。
「ふーっ……」
「うまくいったみたいね。じゃ、玲ちゃんコレ」
明美が何かを差し出してきたので、思わず手を伸ばす。それは、古いタイプのスマートフォンだった。
「なんだこれ」
「電話していいわよ、碧ちゃんに。刑務所の許可は出てるから」
突然のことに、私は息を呑んだ。
「――ホントか? っていうか、繋がるのかよ。宇宙にいる相手に」
「大丈夫。通信網も整ってて、月にも通じるようになってるから。宇宙に出たばかりの今なら、通信ラグもないはずだし」
「マジか……」
技術の進歩ってのはすごい。
ともあれ、私は感嘆しつつもすぐさまスマホを起動させた。
真っ白のトップ画面が、一瞬で表示される。そこには、『テレビ通話』というアプリアイコンひとつのみがポツンとあった。
「……テレビ通話? こっちの顔を映していいのか?」
「ええ、今回だけ特別にね。でも玲ちゃんの顔だけよ。周囲の施設とか、私とかは画面に入れないようにして」
「わかった」
碧とは音声だけの電話を月一でしてるし、あちらが送ってきた動画をたびたび視聴してはいる。が、こっちの顔はこの十一年、一度も碧に見せていない。
私は少しドキドキしながらアプリのアイコンを押した。
すると、即座にプルルル、と呼び出し音が鳴る。どうやら、前もって碧の携帯の番号が入れてあったらしい。
スマホを自分の顔に向け、角度を調節しながら相手が電話に出るのを待つ私。
十秒くらいして、ようやく碧の顔が画面に表示された。
『もしもし? あれ、ル――』
「よ、碧。母ちゃんだ」
久しぶりの娘に、私は軽快な挨拶をした。
『えーっ! お、お、おかーさん!? なんで!?』
「なんでって……いいだろ別に、電話くらいしたって」
碧は目を丸くして驚いていたが、一呼吸するとすぐに落ち着いた。
『よ、よくわかんないけど、おかーさんが電話してくれて嬉しい。でも……ここ宇宙だよ? 携帯電話って繋がるの?』
「そこにビックリしてたのか。まあ、このとおり通じるらしい。他の電話もそうかは、ちょっとわからんが」
そのあたりを全然把握してないので、私は曖昧な答えを返した。明美の用意したこのスマホが特別、ということもありえるからだ。
『そっか。言われてみれば、他の乗客の人も電話的な感じで喋ってるし、できるみたいだね。いや~、ビックリしたぁ』
画面の中の碧は、胸を押さえてふぅと息をつく。が、すぐに目をカッと開いた。
『いや待って! でもおかーさんの顔見るのって、十年ぶりくらいじゃん! そーいう電話できるの?』
「ああ、ホントは守秘義務があるからダメなんだが、今だけ特別に許可をもらったんだ」
『そうなんだ。っていうか……ビーチチェアみたいのに寝転がってる? ジュースも飲んでるし、なんか意外』
「意外って、なにがだ」
『だって……正直、おかーさんは刑務所に入れられてるって思ってたから。十年も会いに来てくれないし、電話だってたまにしかできないし、海外の特別な施設で働いてるってのはウソじゃないかって。でも、違ったみたいでよかった』
「……ふむ」
私は言葉を濁した。服役を疑われてるのはなんとなくわかってたが、こちらが置かれている状況は相当にややこしくて、どうにも真実は告げがたい。
『てゆーか、おかーさん顔全然変わってないね。わっかい! 四十歳くらいのときと、ほとんど同じじゃん! 私はおばさんっぽくなってきたのに』
「碧だって、顔は昔とそこまで変わってないだろ。お前の場合、変わったのは体型だな。運動が足りないんじゃないか?」
『い、いや~、最近ごはんがおいしくて』
あさっての方向を見ながら言い訳する碧を見て、私はフッと笑った。
まったく、この子ときたら、子供の頃からちっとも変わらない。
「ま、互いの近況報告は後にしとこう。なにせ今、碧は宇宙にいるんだからな。どうよ、感想は」
『そうだった。すごいよね、宇宙だよ宇宙! ほら見て! 宇宙服!』
画面が大きくずれ、顔の下の真っ白い与圧服があらわになる。テレビでも見たが、意外にスリムで細い。
『で、今は宇宙にいるから無重力なんだよ。ほら!』
碧のその言葉の直後、画面の風景がくるくると回り始めた。碧やロケットの中の様子がめまぐるしく移り変わる。
どうやら、通話に使っている端末を宙に手放したらしい。
すると、「碧、そういうのはまだダメって言われただろ」と脇から男の小さな声が聞こえてくる。
『そ、そうだった』
慌ててこちらに手を伸ばし、宙で回転していた端末をキャッチする碧。私はついでとばかりに男の方へ声をかけた。
「光太郎くんへの挨拶がまだだったな。久しぶり」
『お久しぶりです、お義母さん』
画面が傾き、碧の隣に座っている男が映った。
相変わらずの爽やかイケメンっぷりだが、口ひげを生やしているためにダンディさが増している。
『相変わらずお綺麗で、びっくりしてます。体もやっぱり鍛えておられるので?』
「もちろん。昔より調子いいくらいさ」
『さすがですね。僕もキックボクシングは続けてるので、次に会うときはまたいっちょ揉んでください』
おっけー、と私が軽く答えると、碧が割って入ってきた。
『ちょっとおかーさん、またコウくんボコボコにするのやめてよね。明と透が見たら、どーすんの』
明と透とは、碧と光太郎くんの子供の名前だ。双子の男の子で、電話越しならすでに私も何度か話している。
『いやー、いいじゃないか。あの子たちにお義母さんの強さを見てもらうのも』
『なに言ってんの。父親が祖母に殴り合いで負けるって、そんな変なシーン見せたくないよ、私』
それこそ変な心配をしている碧に、私は苦笑した。
「はは。ま、戦ってるとこを見せるかどうかはともかく、孫たちには会いたいな。今はウチの実家に預けてるんだっけ?」
『うん、そ-なの。二人とも自分も月に行きたいってゴネてたんだけどさ、それを――ん?』
碧がふと、あらぬ方向を向いた。
直後、異様な雑音が発生し、すぐさまスマホの映像が途切れる。
「…………なんだ?」
通話を切られた扱いになったようで、スマホの画面では電話モードが終了している。
再びテレビ電話のアイコンを押すが、今度は呼び出し音すら鳴らない。
「通話が切れちゃったの?」
これまで黙っていた明美が尋ねてくる。
「ああ、なんか急に。月まで通じるんじゃなかったのかよ」
「そのはずだけど……たぶん、碧ちゃんの携帯に問題が発生したじゃない? 充電が切れたとか、壊れたとかで」
「あー、そうかもな。ホント、あの子は昔っからそそっかし――」
私は言葉を失った。
青い空の向こう、シャトルが残した飛行機雲のはるか上空で、火花が散ったような極小の残光が見えたからだ。
寝ていた体をすぐさま起こし、空を凝視する。
まさか。
まさか――。
最悪の事態が頭をよぎり、私は唖然としたまま動けない。
そのまましばらく固まっていたら、明美がためらいがちに言葉を投げかけてきた。
「……玲ちゃん、この動画」
明美は正面空中に表示されているウィンドウに手を触れ、私の方へと素早くスライドさせる。私は受け取った動画をすぐさま再生させた。
映し出されていたのは、シャトルの中だった。
動画タイトルなどをざっと読むと、どうやら碧と同じシャトルに乗っていた人間が動画を配信していたらしい。
十数秒ほどじっと見ていると、突如轟音が響き、同時に奥の方から爆炎が発生した。
炎は一気に画面すべてを覆い隠し、配信者と乗客の痛ましい悲鳴が響き渡り、そうして動画はぶつりと切れてしまった。
――背骨に、氷のつららをぶち込まれたような感覚がする。
全身が冷たく、手足の感覚がなく、自分の心臓の音が妙にうるさい。
悪い夢を見ている気分だった。
いや、頼む。夢であってくれ。
数分後、ニュースサイトに無慈悲な一報が流れた。
『速報です。人類初の月旅行シャトル『ムーンダイバー』が、宇宙空間で原因不明の爆発を引き起こしました。アメリカ航空宇宙局NASAによると、観測の結果、シャトルが直前までいた場所には大量の破片が散乱しており、乗員乗客の安否は絶望的とのことです。旅行会社は未だに声明を発していませんが――』
悪夢と現実の区別がつかず、私はしばし呆然としていた。
だが、しかし。
明美がよこしてきた別の動画を見て、冷たかった全身の血が一気に滾った。
絶望と怒りが混ざり合い、そうして生まれた負のエネルギーが、私を新たな方向へと突き動かす。
――それは、テロ組織の犯行声明だった。




