30歳・2
まだ残暑の残っている季節なのに、明美は薄手とはいえロングコートを着ていた。
顔は変わっていないが、髪は以前のように肩ほどまで伸ばし、パンツスタイルのスーツをびしっと着こなしている。まるで、できるキャリアウーマンのような格好だ。
一方の私は、Tシャツにハーフパンツという動きやすさ重視の服装で、明美へと近づいていく。
腕に抱えている私とヤツの子――碧は、不安げに体を揺すっていたが、とりあえずは大人しくしている。自分の父親的な人間がこの先にいるとは、夢にも思っていないだろう。
スタジアムの観客席最上段の壁際に、明美は立っていた。階段を上ってようやく私もそこにたどり着き、近くまできたところで立ち止まる。
「久しぶり、玲ちゃん。直に会うのは五年と六か月ぶりね」
「……ああ」
養育費の相談などで、電話でのやり取りは何回かしている。だから、そこまで久しぶりという気はしない。
それでも面と向かって会うと、やはり色々な感情が膨れ上がってくる。昔と違って殺意だけじゃないから、簡単に表に出すわけにもいかないのだが。
「一応警告しておくけど、いつもの『お遊び』はなしでお願いするわね。ほら、人もいることだし」
明美は左右にちらりと視線を向けた。――気づいていたが、少なくとも二人、明美の護衛らしき人間がいる。
どちらもスーツ姿の女で、厄介なことに脇の下が少し膨らんでいる。右の女などは、軽くスーツをはだけて肩から吊るしたホルスターを見せつけてきた。つまり、連中は拳銃を所持しているのである。
「……ここは日本だぞ。なんでお前の連れは銃なんて持ってんだ」
「もちろん、怖い人から守ってもらうためよ。お金と権力さえあれば、持ち込むくらいはどうとでもなるしね」
私は目の前のスカした女を睨む目に、力を込めた。
やはり、明美の社会的な力は以前より増していると考えていいだろう。それはつまり、時間をかければかけるほどヤツを殺しにくくなるということだ。
しかし……今の私には碧がいる。安易に手を出すわけにはいかない。
どうしようもない焦燥感をじりじりと覚えつつ、私は明美に尋ねた。
「で、私になんの用だ。まさか挨拶するために来たわけじゃないだろう」
「いや、実はそのまさかなの」
「……なに?」
「ただ単に、顔を見せに来たのよ。いい頃合だと思って。あなただって、私と会わせるべきだと思ったから、その子を連れてきたんでしょ?」
……それはつまり、親として碧に会いに来た――ということなのだろうか?
まあ、明美の方が望むなら、こっちも挨拶するくらいは認めても構わない。元より、半分くらいはそのつもりで碧と一緒に来たのだし。
私は抱っこしていた碧を下に降ろした。が、私が剣呑とした態度を取っていたせいか、半ば固まっている。この子は不安になると、動きや表情がガチガチになってしまうのだ。
……碧には悪いが、ここは我慢してもらおう。
一応、親子が初めて揃ったのだし、形だけの挨拶くらいは済ませておきたい。うまく言葉にできないが、そうすれば心のどっかがすっきりする気がする。
私は碧を明美の方へ向かせ、背中を軽く押した。
「ほら、あの人に挨拶しな」
返事はない。やはり緊張しているらしく、碧はぎこちない動きで明美の方へと向かう。
明美の方も一歩前に出ると、碧に視線を合わせるためにしゃがみこんだ。こちらも表情はなく、見極めるかのように我が子をじっと見つめている。
私まで緊張してきたが、かといって見ることだけに集中するわけにもいかない。碧の身になにかあればすぐに駆け寄れるよう、備えておかねば。
聞こえるほどに大きく息を吸い、碧は自己紹介を始めた。
「こ、こんにちハ。にじょうみどり、デス。よろしくおねがいしマス」
ロボットみたいな棒読みだが、まあまあできたと言っていいだろう。
――だが、私がそう思った直後だった。
パン、と短い破裂音が唐突に響く。
なんと明美が、碧の顔を手の平でぶったのだ。
衝撃に耐え切れず、コンクリートの床に倒れこむ碧。
私は即座に駆け寄った。驚きと恐怖で震える我が子を抱きかかえ、すぐさま明美から引き離す。
明美に勢いよく近づいたからか、護衛たちが懐に手を入れて寄ってきた。が、私はそれらには目も向けない。
「おいッ! どういうつも――」
明美を凝視して怒声を飛ばす私だったが、言葉は途中で途切れた。明美が、侮蔑をありありと込めた視線をこちらに向けていたからだ。
ずいぶん久しぶりだが、見覚えがある。学生時代、明美はああした全力でこちらを見下した顔で、いつも私を見ていた。ヤツ曰く、演技だったらしいが……。
なにゆえ今、と思いつつも、そこでふと気づく。
見ているのは私ではなく、碧だ。いや、前後関係を考えれば当然か。
よくわからんが、明美は碧のなにがしかが気に食わず、ビンタするばかりか蔑みの視線を向けているのだ。
唐突に、明美の顔から力が抜けた。
そして苦虫を噛み潰したような顔をし、小さく溜め息を吐く。
こちらは初めて見る表情だ。……となると、これはヤツにとってもイレギュラーな展開だったということか。
「……ごめんなさい、玲ちゃん。とりあえず外に出るわ。まだ話がしたいなら、出口付近にしばらくいるから、その子を置いてから来て」
そう言うと、こちらの返事を待たずに明美は背を向けた。そして護衛たちとともに、近くの階段の中へと消えていく。
差し当たり危険は去ったので、私は碧の両脇を抱え、その顔を見る。
よほど驚いたのか、碧は恐怖に引きつった顔をしたまま、声も出せずに体を震わせていた。はたかれた左頬は、思いっきり赤くなっている。
「……碧、口の中は大丈夫か? ちょっと開けてみな」
顎を優しく掴み、口を開けさせる。……やはり、舌の上に血が滲んでいた。叩かれた勢いで、頬の内側が切れてしまっていたのだ。
「お、おかーさん……あの人、あの人こわいよ」
落ち着いてきたのか、やっと言葉が出てきた。遅れてぐずりだし、すぐに声をあげて泣き出す。
「よしよし。悪かった、変な人に会わせたお母さんが悪かった」
私は碧を抱っこし直し、その体を揺すってあやした。そうしながらきびすを返し、階段を降りて元いた場所へと向かう。
とりあえずは碧を家族に一旦預け、怪我の処置などを任せよう。そして、明美に話を聞きに行かねば。
ヤツがいきなり激高した理由は正直どうでもいいが、これは私たち親子に関わる問題だ。今後のためにも、三人の関係ははっきりさせておきたい。
最悪の場合、明美が碧に殺意を抱いているという展開もありえる。
もしそうなったら、この場で相打ち覚悟でヤツを殺しに行かねばならないだろう。間近にいる今が、明美を殺す最後のチャンスになるかもしれないからだ。
私は静かな決意を秘めつつ、暖かい我が子の背中をゆっくりと撫でた。




