30歳・1
幼稚園の運動会なんて大したことないだろうと思っていたら、意外に大規模なものだった。
普段はJリーグの試合とかやってる市民スタジアム的なところを貸しきって、旗やらのぼりやらで賑やかに飾り付けられている。
さすが、高い保育料を取ってる富裕層向け幼稚園だ。至れり尽くせりって感じ。
で、その運動トラックのスタートラインに、私はいた。
横には同じように大人が十数人並んでいて、走り出す姿勢のまま合図の音が鳴るのを待ち構えている。ほとんどは男で、女は私を含めて二、三人ほどしかいない。
「おかーさーん! がんばってー!」
似たような声援は幾つか飛び交っているが、この声は我が子のものだ。
……まったく、娘の応援に来たというのに、なぜ私が応援されるはめになっているのか。
パァンと空砲の音が響き、園児の親によるレースが始まった。四百メートル走だからか、さほど飛び出す人は少ない。
が、私は全力で駆け出した。どうせならぶっちぎりの優勝を果たして、娘に花を持たせてやろう。
というわけで、二位以下に容赦なく十数メートルの差をつけた後、私はゴールの白いテープを切った。
父親がほとんどを占めるレースで母親がダントツ一位だったのだから、会場は大盛り上がりだ。あの子も、さぞ鼻が高かろう。
家族がいる観客席の定位置に戻ると、真っ先に娘が出迎えてくれた。
「おかーさん、すごーい! 一番!」
「ま、母ちゃんは鍛えてるからな」
私はVサインを作って返した。しかし、彼女の嬉しそうな顔が、ふと曇る。
「でも……みどりは七番だった。おかーさんの子供なのに」
碧と名づけた我が子は、親と違ってさほど運動が得意ではない。
先立って行われた五十メートル走では、転んでビリッケツになってしまった。時代柄か、順位の違いは幼稚園側からはぼかされてる感じなのだが、やはり気にしていたらしい。
なんて言おうか迷っていたら、私の母さんが口を出してきた。
「大丈夫、碧ちゃん。お母さんはさっきのレースは速かったけど、幼稚園のときはダメダメだったんだよ」
「そーなの? おばあちゃん」
碧からすれば、私の母さんは婆さんに当たる。ウチには私の婆ちゃんも住んでるから、このあたりは実にややこしい。
ま、子育てもそろそろ五年目に突入するし、いい加減慣れてきたが。
「お母さんもね、昔さっきみたいなレースをしたの。でも、よーいドンの合図で逆方向に走り出しちゃって」
「逆方向? なんで?」
碧は首を傾げている。「と、聞かれておりますが?」と母さんは私に話を向けてきたものの、まったく記憶にないので答えようがない。
とぼけた顔を返すと、母さんは苦笑して続ける。
「覚えてないってさ。とにかく、お母さんも昔は走るの得意じゃなかったんだから、碧ちゃんも頑張れば速くなるよ」
なんの保証もないのにそうやって励ますのは、正直どうかと思う。
とはいえ、私がそのあたりドライで、母さんとかがフォローしてくれてるから、文句は言いづらいのだが。
一緒に運動会を見に来た姉貴一家も碧を慰め、おかげで彼女も立ち直ったらしい。幼稚園からもらったお菓子を皆で食べようという流れになり、私も席に座ろうとする。
が、そのときふと気づいた。観客席の向こうに、知った顔がある。
――明美だった。
目が合い、壁際にいるヤツは手を上げて合図してくる。
私は半ば呆然としていた。例の十三日以降一度も会っていないから、およそ五年半ぶりか。
(…………明美)
気づけば、ぎりぎりと拳を握っていた。
ヤツとは複雑な関係になってしまったが、やはり真っ先にこみ上げてきたのは殺意だ。あの女を殺せと、私の全細胞が呼びかけている気がする。
しかし、ゆっくりと息を吐いて、その昂ぶりを抑える。
私に子供を産ませてまで、殺されることを避けようとしていた女だ。パッと見一人のようだが、身を守る何かしらの対策は持っているはず。安易に攻撃を仕掛けるわけにはいかない。
なにより、今の私には碧がいる。反撃で殺されることも、逮捕されることも、あの子のためには絶対に避けたい。
……そう思うのは明美の思惑そのままなので、実に癪に障ったが。
「……どした? 玲」
固い表情をしている私に気づいたらしく、座っている姉貴が呼びかけてきた。
私は一息つき、思い切って碧を抱き上げる。
「……ちょっと元同級生が来ててさ。顔合わせてくる」
「わたしもいくの? おかーさん」
きょとんとして碧が尋ねてくる。私は小さく頷いた。
「ああ、碧を会わせたほうがいい人なんだ。一応」
彼女はもちろん、他の家族も不思議そうな顔をしている。
……当然、明美の存在は家族には伝えていない。碧は私が海外にいるときに交際していた男性との子供、ということにしてある。
さて。
それじゃあ、遺伝上の父親に碧を会わせるとするか。




