23歳・2
目を覚まして最初に思ったのは、『生きてる』という、安堵と驚愕の思いだった。
視界には、シンプルで上品なデザインの天井が広がっている。背中には、柔らかい布の感触。どうやら、ソファに横たわっているらしい。
体を動かそうとするが、上手く力が伝わらない。どうやら、まだ毒の影響を受けているようだ。
私は気絶してたのだろうか? 時間の経過がよくわからない。服は元に戻ってるし、ヤツの唾液でびちゃびちゃだった顔や脇にも違和感はないが……。
「ああ、目が覚めたみたいね、玲ちゃん」
状況把握に努めていたら、足元からにょっきりと明美が顔を出してきた。
……なんか、覚えのある状況だ。というか、まんま最初に明美と戦ったときと同じ展開じゃないか。
「まず、体に異常はないから安心して。あなたが失神したのは自律神経の乱れのせいであって、毒のせいじゃないわ。もう麻痺は治ってきていると思うけど、どう?」
まだ、手足の先に痺れた感じが残っている。力を入れれば無理に動かせそうではあるが、なんであれ、全力で動くのは無理そうだ。
私が体の各部に力を入れるのを見て、明美はうなずく。
「もうちょっと休んだほうがいいみたいね。意識は大丈夫? 私の話、ちゃんと聞ける?」
「…………頭は……すっきりしてる。声も……思ったよりは出る」
「そう、良かった。じゃあ事情を説明するわね。まずは、私の変な趣味趣向について」
なんでか知らんが、本当に明美は隠していた事実を明らかにする気らしい。
私は唾をごくりと飲み込み、そばに座る明美へと意識を集中する。
「私はね、玲ちゃんを食べたいの」
出だしから意味不明の言葉が出てきて、私は頭の周りにハテナマークを浮かべまくった。なんかの比喩か誇張表現だと思ったが、どうやら違うらしい。
明美は語り始めた。
それによると、ヤツは幼稚園のときに出会ったときから、無性に私に惹かれていたらしい。その原因となった感情の名前は、恋や愛情ではなく、食欲。私の髪を食べたときに、初めてそれを自覚したのだとか。
「い……意味がわからん。髪に味なんてないだろう」
「ごもっとも。でも当時の私は、玲ちゃんの髪を食べて奇妙な喜びを感じたのよ。もちろん、今もだけど」
「……それ、私の髪である必要はあるのか? たぶん思い込みによる現象だから、誰の髪を食ったって……」
「ああ、ダメダメ。そう思って色々試したけど、絶対に玲ちゃんの体の一部じゃないとダメなの。それ以外じゃ、どうやっても幸福感は得られない」
「なんでだ? 髪の質なんて、そんな個人差出ないだろ。私の髪と他人の髪を、どうやって区別するって言うんだ」
「うまく説明できないけど、とにかく分かるの。例えば、別々の十人から一本ずつ髪を取って、その中に玲ちゃんのを混ぜたとするでしょ? でもそれらを口に含んでみれば、私は百発百中の精度で玲ちゃんの髪を当てることができる。心理的な要因じゃなく、物理的な要因によって、私はあなたを『おいしい』って感じているのよ。どうしてかは不明だけど、あなたの遺伝子を瞬時に五感で判別できる能力がある――としか、考えられない」
「そ、そんなばかな……」
私が驚愕し続けるなか、明美は話を続ける。
やはり根本からぶっ壊れていたのか、幼少期のヤツは私を食べることを人生の目標に定めてしまったらしい。しかし幼いゆえか、サイコパスゆえか、私への配慮など微塵もなく、小学校時代からは私の家に忍び込んでパンツを盗んだりしていたのだとか。
「パ……パンツ紛失事件は、お前のせいだったのか。おもらしを隠してるとかって、家族には疑われてたんだぞ……!」
「知ってる。だから罪滅ぼしに、ちゃんと洗ったのをタンスに返しておいたわ」
「そんなホイホイ私の家に出入りしてたのか、お前……」
ウチは爺ちゃん婆ちゃんとかがいる大家族で、いつでも誰かが家にいるから、セキュリティの意識は昔から低かった。そこを明美は突いたのだろう。
……にしても、小学生が簡単に実行できることではないが。
そして、明美はとうとう私を苛めていた理由を話した。なんでも、私の旨みを引き立てるために邪魔な友人を引き離し、孤独というスパイスを与えたかったらしい。
「…………なんで孤独になったら、私がおいしくなるんだ」
「そうね。これはさっきの髪の話と違って、明らかに私の心理に起因している。私が見下す俗世間から切り離され、孤高の存在であり続けることが、あなたの価値を高めると感じてしまったのだから。ともあれ、理解できないだろうけども、私には譲れない重要事項だったの。だから多大なコストを払ってでも、あなたを孤立させたかった」
「……いまさらだが、本当にお前は倫理観がぶっ壊れてるな。好物を食べるためなら、他人の人生を踏みにじっても平気だなんて」
「一切弁解の余地はないわ。そう、私にまともな倫理観なんてない。優先すべきはあなたを気持ちよく食べることであり、他は心底どうでもよかったから。それは幼稚園時代から今にかけて同じ。私の人生は徹頭徹尾、玲ちゃんをおいしく食すためだけにある」
「開き直りやがって……」
堂々と悪行を晒す明美に、私は深い嫌悪感を覚えた。やはりこいつは、人間として腐っている。
けど正直なところ、怒りや憎しみよりも、現段階だと困惑のほうが大きい。
だって、ここまで話を聞いても、明美のいかれた欲求に理解が追いつかないのだ。本能的に私を食べたいという意味不明な動機を、現実のものとして捉えられない。
……しかし一方で、完全なでたらめだとも思えなかった。過去の疑問を一応は解消してくれてるし、明美の非人間性への説明としては非常にしっくりくるからだ。
話は進み、とうとう明美は私の生理のあれこれを食っていた過去まで暴露しだした。
なんでも中学半ばあたりから私への食欲が性欲と結びつき、私を食べることで性的快感を得るようになったらしい。
……本当にこいつ、人間か?
食欲と性欲が一緒になるって、どんな化け物だよ。しかも他人の生理の肉片を食うとか……。
あまりにドン引きしてしまい、私は声も出ない。
「ま、当然の反応ね。でも、それで理解できたでしょ? 私が自分の食欲のことを、あなたに話せなかった理由が」
「…………そうだな。私を食って快感を得るとか説明されても、簡単には信じられん。というか、段階を踏んで説明された今でも、信じられるとは言いがたいが」
「でしょうね。我ながら、話してて現実味がないと思うもの。でも事実なんだから、しょうがない。それに、さっきの私の行動を見れば納得はできるでしょ? あなたの脇汗や唾液が、私にとっては大麻なんて比じゃない興奮物質だってことは」
……確かに、あのイカれた挙動を演技と言い張るのは無理がある。私に旨みや興奮を感じるとかいう言い分のほうが、まだ自然だと思えるほどに。
気づけば、体の自由がある程度戻ってきていた。
私はゆっくり体を起こし、ソファに座る。そして眉の寄っている眉間に手を当てた。
明美の大きな謎が、ひとつ解けた。解けてしまった。
しかし……どう受け入れればいい? 私を食いたいとか言ってるヤツを、いったいどう扱えばいいんだ?
明美と目が合う。
ヤツは静かに、愛しい我が子を見るような慈しみの眼を私に向けていた。その表情には絵画のような厳かさがあり、奇声をあげて私の体を舐め回してきた変態と同一人物とは思えない。
しかし、そんな明美の無駄にきれいな顔を見ていて、ふと気づいた。
悩むことなんてなにもない。これまでどおり、殺すことだけを考えればいいじゃないか。
知らないうちに尊厳を踏みにじられてきたみたいだし、放置しておけば今後も同じ行為をこいつは続けるだろう。
なら、これまでの罪を清算させるためにも、やはり明美には死んでもらうべきだ。他でもない私自身を、化け物の魔の手から救うためにも。
殺意を込めた視線を、目の前の明美へと向ける。それを受け取り、明美は柔らかく笑った。
「『お前をぶっ殺す』って感じの目をしてる。それ、実はけっこう好きなの。あなたの味がいっそう際立つ感じがして」
「ほざけ。もう、安易に私を食えると思うなよ。これからはお前を殺すまで全身脱毛して丸坊主にするし、体液やらなにやらだって、絶対に渡さない」
「うーん、そう言われるだろうから、これまで隠してきたのよねぇ」
明美は顎に手を沿え、悩むようなそぶりを見せる。
「ま、いいわ。とりあえず次にいきましょう」
「……次?」
「玲ちゃんはそもそも、ここに何をしに来たの? 私の悪巧みを暴くためじゃなかったかしら?」
「そうだが……」
確かに、明美の秘密を知って半ば満足していたが、まだ納得できない部分はたくさんある。こいつが教官から『歴史に名を残しかねない悪人』と言われてる根拠を、私はまだ掴めていないのだ。
「さあ、立って。もう歩くくらいならできるでしょ? 私の秘密の研究室を見せてあげる」
明美はそう言うと、立ち上がって部屋の奥へと向かった。まだ本調子ではないが、私もどうにかして歩き出し、それに続く。




