21歳・2(裏)
明美という名を私につけたのは、とある宗教の教祖だ。
全国規模を誇る仏教系の宗教団体で、我が家は祖父のそのさらに祖父の代から、それにどっぷり浸かっていた。おかげで私は、時代遅れの人間から時代遅れの名前を送られるハメになってしまったのである。
とはいえ、名前なんてどうだっていい。そんなものは、社会が私という存在を規定するモノサシのひとつに過ぎないのだから。
重要なのは、私が生まれつき異様なほどの知能を備え、一方で生まれつき他者への共感能力を持たなかったということだ。
世の中では、前者を『天才』、後者を『サイコパス』と呼ぶ。
そんな異常極まりない性質を併せ持ってしまったせいで、当然といえば当然だが、幼年時代の私は相当に尖っていた。別の生物かと思うほどに同い年の子供たちが低脳に見えたし、虫や動物の解剖といった分かりやすくサイコな行為にはまったりもしていた。
しかし五歳にもなる頃には、生きていくためには自分の異常性を隠さなければならない事実を、肌で理解していたように思う。ゆえに、演技をしてでも周りと歩調を合わせ、表面上は普通を装う術を、当時の私はすでに身に着けつつあった。
――普通の人間のフリをして、普通の人間たちと行動を共にする。
実のところ、これはけっこう楽しかった。だからこそ私の演技力は瞬く間に向上し、以後、大学でゴリラの真似をするまで周りと円滑な関係を築けたのである。
勘違いされがちだが、サイコパスという人種は感情が欠落しているわけではない。単に他者への共感力に欠けているだけで、感情そのものは人並みに持っているのだ。
とはいえ、私はその世間の先入観のとおり、子供の頃から情動が極めて薄かった。だからこそ感情がある演技で自分のなけなしの感情を感じて、そこに面白みを覚えたのである。
そして、そのようにして自分を覆い隠すことを覚えたあたりで出会ったのが、玲ちゃんだった。
周囲と一切歩調を合わせず、勝手気ままに自由に振舞う彼女。
私は自分と対極にあるその存在に、妙に心惹かれた。突如沸いてきた自分の感情の正体が分からず、心理学の本を読み漁ったりもした。
が、恒例となっていた密かなストーキングを続けていて、ふと気づく。ふわりと漂ってきた玲ちゃんの汗の匂いに、私は生唾を飲み込んでいたのである。
そして床に落ちていた彼女の長い黒髪をふと口に入れた瞬間、すべての疑問が氷解した。
私は、玲ちゃんを食べたかったのだ。
当然、髪に味などない。噛み切れないから何回咀嚼しても口の中で溶けないし、普通はそんなことをしても不快なだけだろう。
だが、そのときの私は違った。
玲ちゃんの髪を食べている最中、驚くほどの喜びの感情が私の中で渦を巻いていたのである。そして、髪を飲み込んだときにそれは頂点に達した。気づけば私は涙を流し、この世に生まれてきたことを心の底から喜んでいた。
驚きに包まれたまま、私は検証を繰り返した。
周囲の眼も構わずに自分や他の人間の髪を食べたのだが、しかし玲ちゃんのそれを食べたときのような感動は皆無だった。
単に自分の頭がおかしくなっただけでは、と思い始める私だったが、玲ちゃんの髪を強引に一本抜いて口に入れたとき、疑問は確信へと変わる。
再び全身を駆け巡る喜びの洪水に晒されながら、怒って殴りかかってくる目の前の少女こそが特別なのだと、私はようやく気づいたのである。
なぜ、玲ちゃんが私にとって特別なのか。
実のところ、それは今に至ってなお、不明なままだ。
彼女の外見や性格、匂いなどの個人的特長が、私の脳の深遠にピンポイントで刺さり、それが極めて良性のものと認識されているのでは――みたいな曖昧な推測を持っているが、正しいかどうかはわからない。
とはいえ一時的な現象ではなく、十数年も同様の反応をしているのだから、『遺伝子が本能的に求めている』という解釈は十分アリだろう。
……これが、恋だの子供が欲しいだの、といった感情だったら、もう少し事態はシンプルだった。全身全霊をもって玲ちゃんにアプローチを仕掛け、彼女と恋仲になれば、すべてが丸く収まったはずだからだ(相手が受け入れてくれるかどうかはともかく)。
しかし、あいにく私は玲ちゃんに恋愛感情といったものは抱いていない。ただ、彼女を食べたいだけだ。だから相手にどう思われるかなんて知ったことじゃないし、嫌われることにも一切抵抗を覚えない。
稀代の天才児とはいえ、そうした感情を把握し、整理するのに、五歳の私は大いに苦労した。おかけで、シンプルな答えにいたるまで半年以上かかってしまった。
――二条玲を食べることに、自分の人生のすべてを費やそう。
彼女の体を摂取する行為のみが、私に生きる喜びを与えてくれるのだ。ならば、それにとことん人生を費やすのは、考えるまでもない自明の理。
世の中の常識といったものに解を求めたがゆえに手間取ったが、幼い私はようやく確信した。自分の人生は、もはや常識とはかけ離れたものになる。ゆえにもっと自分を偽り、目的を果たすために上手く立ち回らねばならない。
こうして、私こと馬場明美の人生は、幼年期にして異質な方向へと舵を切ったのである。
「お客様、ブランケットをお持ちしました」
客室乗務員が、厚手の毛布をこちらへ差し出してきた。私は思考を一旦打ち切ってそれを受け取り、膝から下へとかける。
「何かお飲み物を持ってきましょうか? ハーブティーを飲めば、より深い睡眠を――」
「けっこうです」
飲み物を勧めてきた白人乗務員に、無骨にノーを突きつける。彼女は柔らかく微笑んで会釈し、その場を後にした。
座席に身を沈め、私は再び自らの過去を思い起こす。




