??歳・49
対岸がかすんで見えるほどの広大な湖を前に、地面に片膝をつく初老のレイ族は胸を張った。
「いかがでございましょう、我らが大寒湖は。ミドリ国広しと言えど、ここまで大きく美しい湖はありますまい」
確かに、湖際の崖から見える水面は鏡のように美しい。
私が軽く頷くと、隣のルミレイは控える領主たちに向かって、威厳と落ち着きを備えた口調で言った。
「始祖様は、いたく気にいられたようじゃ。誇ってよいぞ」
「ははぁー!」と地元の人間たちはかしこまる。
というわけで、私はルミレイなどの部下を連れ、地方の視察に来ていた。
ルミレイは続けて、事前に打ち合わせたとおりの言葉を述べる。
「大府にも、この湖で取れた魚は毎日届いておる。我も週に一、二回の頻度で食しておるが、なかなか美味じゃぞ」
「それはそれは! 巫女様にもウチの魚を頂かれているとは、光栄の極みです。して、始祖様はいかかでございましょう?」
私はなにも言わず、ちらりと視線をルミレイに向ける。彼女は小さく頷き、代わりに返答した。
「無論、お召し上がりになられておる。レイ族の活動を余すことなく把握するよう、始祖様は努めておられるからな。ゆえに此度は、数少ない漁業場の実体を視察されるために、わざわざこの地まで足を運ばれたのじゃ」
統治マニュアルには、『庶民がいきなり権力者になったときに陥りがちな失敗が、お友達感覚で民と接すること』とあった。
曰く、それでは権威が損なわれ、上下関係も崩れてしまい、厳正な統治に支障をきたしてしまうらしい。
もちろん、ひたすら冷たく無慈悲に接しろ、とはマニュアルは言っていない。
要は、メリハリが大事なのだ。近すぎず、離れすぎず、上手く民の心を私に惹きつける必要がある。
ゆえに、私は公の場においては極力喋らないようにしている。言いたいことがある場合は、常にお供をしているルミレイに事前に伝え、代わりに喋ってもらっていた。
そうしたことを数ヶ月繰り返してきたおかげか、彼女もだいぶ成長し、こちらの意にかなった態度を取ってくれるようになっている。最近は以心伝心の様相も呈しており、私のちょっとした仕草でも考えを汲み取ってくれるため、実に心強い。
名実ともに、巫女ルミレイは私の女房役となりつつあったのだ。
と、初老の領主は、こちらに懇願するような顔を向けてくる。
「我らの土地を訪れてくださるとは、それだけでも至上の喜びであります。しかし……ならば、我々が直面している問題も、聞き入れては頂けませぬか……?」
「そういえば、陳情したい悩みがあるとのことじゃったな。現地でなければ言いにくい訴えとは、いったいなんぞ?」
ルミレイが問いただすと、領主はかしこまって続けた。
「……実は、始祖様が注目なされている、漁業そのものに問題があるのです。この湖にはヌシと呼ばれる化け魚がおりまして、時折漁師が食われてしまいます。なので、漁は文字通りの命がけであり、犠牲を前提としなければ魚を取ることはできません」
そして領主は、地面に膝をついて土下座の姿勢を取った。後ろに並んでいる、彼女の配下らしい地元の人間たちも、そろって領主の動きに倣う。
「ですので……どうか始祖様。奴隷制を復活させては頂けませぬか。でなければ、我らは湖の恵みを得られないのです」
――この土地の事情は聞き及んでいたから、そう言われるのは多少覚悟していた。
しかし、その訴えは私の政治理念に大きく反するため、当然、聞き入れることなどできない。
私はそこそこの不快感を示すため、二センチほど顎を持ち上げる。それを確かめたルミレイは、代わって声を荒げた。
「おぬし、なにを言っているか分かっておるのか? 始祖様自らが忌むべきと断罪された奴隷制を、こともあろうに始祖様の前で肯定し、切望するとは! この恥知らずめっ!」
「ぶ、無礼なのは重々承知しております! しかし……そうでなけば、奴隷がいなければ、この湖での漁は成り立たぬのです! それに、我らは忌むべき奴隷売買になど手は出しておりませぬ! 奴隷とするのはあくまで、この土地で罪を犯した犯罪者であり、それならば非人道的ではないはず! 違いませぬか!?」
「……始祖様に道理を説くとは。いったい己を何様じゃと――」
私は手を軽く上げ、ルミレイを制する。さすがに口を出したくなったきた。
ルミレイが会釈しながら一歩下がり、場の空気が瞬時にひりついた。始祖が言葉を発する雰囲気を察知し、領主たちが一斉に身構えたのである。
緊張が場を支配するのを待ち、私は言葉を発した。
「――領主オクトよ。奴隷制は、私が目覚める前から違法とされている。つまり、それを公然と破ってきたお前も犯罪者なわけだ。なのに、犯罪者を奴隷とすることを是とするのか」
領主はぶるぶると振るえ、必死に声を絞り出す。
「わ……私は、領地の運営のため、仕方なく法を破っていたにすぎませぬ。身勝手な理由で罪を犯した者と同列にされるのは……その……」
「心外か」
特に圧も込めず、普通の口調で言ったつもりだったが、領主の顔はいよいよ青ざめてきた。普段は無口を貫いているため、こうしてたまに喋ると言葉に重みが出るらしい。
「己の理屈で罪を帳消しにできるのなら、世に犯罪者など一人もいない。法を破る者は誰だって、大小様々な理由を持ち合わせているのだからな。ゆえに、そうした身勝手な人間を一括して縛るべく、私は憲法を制定し、ミドリ国全体に新たな法を敷いたのだ」
額に脂汗を浮かべつつ、領主は深くうなだれた。配下の者たちも、訴えが無駄に終わったと解釈して意気消沈している。
とはいえ、勝手にがっかりしてもらっては困る。私は別のアプローチによる解決策を考えていたからだ。
「話を戻すが、湖には人食いの魚がいるとのことだったな。そいつは普段、どこにいる?」
「え、ええと……おそらく、湖の底にいると思われます。昼になると水面近くに上がってくるので、そのため最近は夜にしか漁ができないですが……」
「数は?」
「お、おそらく一匹かと……。しかし恐ろしく巨大で、鱗は鉄のように硬く、我が祖先たちが命がけで戦っても歯が立ちませんでした。ですので、討伐するのは無理かと……」
領主の言葉が終わるのを待たず、私は服を脱ぎ始めた。こちらの意図を察し、ルミレイは衣服を受け取るべく両手を前に差し出す。
土地の人間たちが目を丸くして凝視するなか、私は脱いだ服をすべてルミレイに渡し、最後に仮面も外して全裸となった。
「オボロ、刀を」
側付きに任命している忍の名を呼ぶと、彼女は無言のまま一本の刀を鞘ごと渡してくる。
そのあたりでようやく理解したのか、領主は驚愕して叫んだ。
「まっ、まさか、始祖様御本人が討伐に行かれるのですかっ!? なりませぬっ! いくらあなた様と言えど――」
私が素顔のままで視線を向けると、彼女は金縛りにあったように固まった。続けて、ルミレイが呆れたように言い放つ。
「さっきから誰にものを言うておるのじゃ、おぬし。このお方は、我らが偉大なる母君ぞ。不可能など、あろうはずもない」
ルミレイがいい感じに言い返してくれたので、私はそのまま崖を飛び降りて湖へと向かった。
――およそ二時間後。
私は鯨のようにでかい化け魚の死体を二つ引っ張り、湖岸へと辿り着いた。
二匹は全身が白銀の鱗で覆われており、額には雪の結晶を模したような印がある。恐ろしくでかい牙も生えており、いかにも化け物って感じの外見だ。
重量は、たぶん両方とも十トンを軽く越えているだろう。重すぎて泳いでは持ち帰れず、そういったわけで湖の底をひたすら歩いて引っ張ってきたのである。
一匹目はすぐに仕留められた。が、念のため湖の中をくまなく探したら二匹目を発見し、ひたすら逃げ回るそいつを捉えるのに苦労してしまった。
追いつくのに意地になり、水中における泳法の見直しや考案に夢中になったことが、時間がかかってしまった理由だ。
岸に引き上げた化け魚の一方の上に、私は座る。生臭くて仕方ないが、そのほうが偉そうでカッコよく見えると思ったのだ。
統治者として尊敬と畏怖を集めなきゃいけない立場だから、私はこういうことにも気を使わなければならない。
待っていると、すぐにルミレイや領主たちが駆けつけてきた。
地元の者たちは裸の私と怪魚二匹を交互に凝視し、言葉を失っている。その中で、ようやく領主が震えながら口を開いた。
「ま、ま、まさか……この化け物を仕留めてしまうとは……。そ、それも、二匹いただなんて……」
「入念に調べたが、でかい魚はこいつらだけだった。子供や卵が残っていないとは限らんが、ともかくしばらくは無事に漁ができるだろう。――どうだ? まだ奴隷制復活を望むか?」
私がそう言うと、領主は涙を流して首を横に振る。
「……いいえ、とんでもございませぬ。あなた様は、この地の災いを根本から払ってしまわれた。残ったのは恵み豊かな湖のみであり、今後我らは一辺の憂いもなく漁をすることができるでしょう」
領主は再び膝をついた。自然と、地元の者たちもその動きに続く。
「永遠の忠誠を、始祖様に捧げます。あなた様が我らを導き、お守りくださるなら、レイ族はとこしえに栄えるに違いありませぬ」
「ふぅ……」と、私は小さく息をついた。民の心も上手く掴めたようだし、問題も解決できたし、とりあえずは丸く収まったようだ。
しかし、多少体を張ったとはいえ、今回の問題はぜんぜん簡単なほうだった。
力技で一方をしばいて終わり――なんてことは、統治のうえでは滅多にない。たいていのいざこざは人間同士の利害対立であり、両方に妥協を強いる決断も少なくないからだ。
……まったく。統治者ってのは楽じゃない。




