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第三話 幕が上がれば、泣いてはいけない。

一九一九年、六月。上海(シャンハイ)。


柳清音(リウ・チンイン)が初めて舞台の上で歌を途切れさせた日、客席からは拍手が起こった。

悲しみに声を詰まらせる虞姫(ユージー)の名演だと、誰もが思った。


実際には、息が続かなかっただけだった。


「……困ったな」


幕の裏へ戻った清音は、口元を押さえた手拭いを見つめた。


白い布に、小さな赤い染みがある。

紅を落としたあとの唇から、まだ紅が出るなんて。


「ずいぶん、しつこい化粧だね」


冗談にしてしまえば、怖くなくなる気がした。


「先生」


背後から声がした。

程懐安(チョン・ホワイアン)が立っていた。


「……それは、いつからですか」


清音は手拭いを隠した。


「何が?」


「血です」


「君は本当に、見なくていいものまで見るね」


「先生が、隠すので」


懐安は怒らなかった。

ただ、清音の手から布を受け取り、ひどく静かな顔をした。


その顔が、清音には何より恐ろしかった。


*


五月に北京(ベイジン)で始まった学生たちの抗議は、上海にも広がっていた。


六月に入ると商店は戸を閉め、工場の機械は止まり、街路には怒号と足音が満ちた。

第一次世界大戦が終わっても、中国の人々が望んだ平穏は訪れなかった。


劇場も興行を休んだ。


「国が揺れているときに芝居なんぞ、という客もいる」


趙(ジャオ)親方がぼやくと、清音は鏡の前から答えた。


「国が揺れているからこそ、芝居を見たい人もいるでしょう」


「おまえ、たまにはまともなことを言うな」


「給金を上げてくれる?」


「それとこれとは別だ!」


いつものやり取りだった。

けれど清音は、笑ったあとに咳き込んだ。


親方が顔を曇らせる。

清音は見ないふりをした。


*


医者は胸の音を聞き、熱と咳の続いた期間を確かめた。


そして、肺癆(フェイラオ)(肺結核)が強く疑われると告げた。


当時、その病を確実に治す薬はまだなかった。

休養と栄養を取るよう言われても、役者が長く舞台を離れることは容易ではない。


清音は窓の外を眺めた。

荷車が通り、売り子が饅頭(マントウ)を売っている。


世界は少しも変わっていなかった。


「……歌えなくなる?」


医者は、すぐには答えなかった。

その沈黙で十分だった。


帰り道、懐安は清音の歩幅に合わせて歩いた。


「ねえ、懐安」


「はい」


「僕から歌を取ったら、顔のいいだけの男になるね」


「顔はいいです」


「そこは否定してほしかったな」


「否定する理由がありません」


清音は笑った。

その途端、咳が込み上げ、懐安の肩に額を預けた。


男の手が、ためらいがちに背をさする。


「……僕が舞台に立てなくなっても、好き?」


懐安は立ち止まった。


「私が好きなのは、柳清音です」


「……うん」


「寝坊して、焼き栗を落として、私の作った棚が曲がっていると文句を言う人です」


「棚は本当に曲がっていたよ」


「直しました」


「知ってる」


懐安は清音の手を握った。


「だから、帰りましょう」


その言葉に、清音は胸を突かれた。


帰る。

自分にも、そんな場所ができたのだ。


*


七月。

二人は劇場から少し離れた、東向きの窓がある部屋を借りた。


懐安が以前、紙に描いて見せた部屋だった。

小さな寝台。手作りの棚。並んだ茶碗が二つ。


「……本当に作ったんだね」


清音が呟くと、懐安は不思議そうにした。


「約束しましたから」


「僕は、もっと先のことだと思っていた」


「先に延ばす理由がありません」


清音は笑い、懐安の胸に額を寄せた。


その夜、二人はひとつの寝台で眠った。

懐安が清音の背を抱き寄せると、清音はその手を取り、自分の胸元へ導いた。


「……僕、もう舞台の虞姫じゃないよ」


「知っています」


「綺麗な衣装も、紅もない」


「知っています」


「それでも?」


懐安は答える代わりに、清音の額へ口づけた。


頬に、唇に、そして細くなった指先に。


清音は目を閉じた。

誰かの役を演じずに愛されることが、こんなにも心許なく、幸福なものだとは知らなかった。


「……懐安」


「はい」


「僕、君と朝を迎えたい」


「迎えましょう」


あまりに簡単な返事だった。

だからこそ、清音は泣きそうになった。


*


秋になると、清音は舞台へ戻れなくなった。


懐安は劇場で働き、夕暮れには必ず帰ってきた。

清音は窓辺で待った。


「ただいま」


「……遅い」


「まだ日が暮れたばかりです」


「僕が待っていたんだから遅いんだよ」


「すみません」


「謝るなら焼き栗を買ってきて」


懐安は懐から紙包みを取り出した。

清音は目を丸くする。


「……どうしてわかったの」


「先生の好きなものですから」


「今は先生じゃないって言ったでしょう」


懐安は少し考え、言い直した。


「清音」


その二文字だけで、胸が熱くなる。


清音は栗をひとつ剥き、懐安の口元へ差し出した。

男が素直に口を開けた瞬間、自分で食べる。


「……騙されました」


「君が素直すぎるんだよ」


懐安は呆れたように笑った。

清音は、その笑顔を忘れたくないと思った。


*


十二月。

紅月楼(ホンユエロウ)の蘇雪蓮(スー・シュエリエン)が見舞いに来た。


喉に優しい菓子と茶を持参した彼女は、痩せた清音を見ても、憐れむような顔をしなかった。


「相変わらず綺麗ね」


「給金は出ないよ」


「残念。歌ってもらおうと思ったのに」


「君の琵琶(ピーパー)に合わせるには、僕の声じゃ足りない」


雪蓮は微笑み、窓辺の茶碗を見た。


「……いい部屋ね」


「狭いよ」


「でも、帰ってくる人がいる」


その声は、どこか遠かった。

清音は彼女の横顔を見つめた。


紅月楼には、帰らない軍人を待ち続ける歌姫がいる。


噂では知っていた。

けれど清音は、何も尋ねなかった。


「……うん」


代わりに、小さく頷いた。


「僕には、帰ってくる人がいるんだ」


雪蓮は静かに茶を注いだ。


「それなら、待つ時間も大切にしないとね」


清音は笑った。

けれど、その言葉が胸の奥に沈んだ。


自分にはあと何度、あの人を待てる夕暮れが残されているのだろう。


*


その夜、清音は懐安に頼んだ。


「……久しぶりに、僕の歌を聞いてくれる?」


「無理はしないでください」


「少しだけ」


清音は息を整えた。


《覇王別姫(バーワンビエジー)》の一節。


かつて劇場の隅々まで届いた声は、今では小さな部屋を満たすことさえ難しい。


それでも懐安は、最後まで聞いていた。

歌が途切れると、清音は苦笑した。


「……ひどい声だね」


「綺麗でした」


「嘘つき」


「本当です」


清音は懐安の手を取った。


「……じゃあ、約束して」


「何をですか」


「僕の歌が聞こえなくなっても、忘れないで」


懐安の指が、わずかに震えた。


「忘れません」


「舞台の虞姫じゃないよ」


「はい」


「柳清音を」


懐安は、その手を両手で包んだ。


「忘れません」


清音は目を閉じた。


舞台では、悲しい場面ほど美しく泣くように教えられた。

けれど本当に悲しいとき、人は泣くことさえ難しい。


「……懐安」


「はい」


「明日も、帰ってきてね」


懐安は清音の額に口づけた。


「必ず」


清音は微笑んだ。

そして、その約束が守られることを、誰よりも信じた。


ただ、自分がいつまで待てるのかだけは、もう怖くて尋ねられなかった。


――第三話・了――

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