第四話 あなたのいない舞台で、春を待つ。
一九二〇年、二月。上海。
柳清音は、朝が嫌いになった。
以前は、ただ眠いから嫌いだった。
今は、目を覚ますたびに、自分に残された朝がひとつ減ったような気がするからだった。
「……懐安、今日は何日?」
「十六日です」
「昨日も十六日じゃなかった?」
「昨日は十五日でした」
「融通の利かない男だね。恋人が望むなら、昨日くらい繰り返してよ」
程懐安は粥をかき混ぜながら、困ったように微笑んだ。
「それができるなら、去年の六月に戻します」
清音は笑えなかった。
あの頃、舞台の上で初めて血を吐いた。肺癆(肺結核)を疑われ、やがて歌うこともできなくなった。
懐安はそれ以来、夜中に何度も起きている。
清音が咳き込めば背をさすり、熱を出せば額を冷やし、眠れない夜には何も言わず手を握る。
「……ねえ、僕がいなくなったら、ちゃんと寝るんだよ」
匙の音が止まった。
「その話は、しないでください」
「じゃあ、ちゃんと食べて」
「清音も」
「僕は今、格好よく遺言を残そうとしてるんだけど」
「格好悪くてもいいので、生きていてください」
清音は目を伏せた。
この男は、いつだって芝居が下手だ。
本当に聞きたい言葉ほど、あまりにも真っ直ぐに言う。
*
三月。
趙親方から、古い衣装が届けられた。
《覇王別姫》で着た青い衣装と、銀の簪。
懐安が初めて直してくれた髪飾りだった。
「……覚えてる?」
「はい」
「僕が壊れたら直してくれるかって聞いたね」
「覚えています」
「君、直せるところは全部直すって言った」
清音は簪を指先で転がした。
留め金は、今も壊れていない。
「……僕のほうは、直らなかったね」
懐安は何も言わず、その手を包んだ。
「まだ、ここにいます」
「うん」
「私の隣に」
清音は微笑んだ。
その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
*
四月の初め、清音はひとつ頼み事をした。
「ねえ、懐安。舞台を作って」
「……舞台?」
「小さくていい。客席は君ひとり」
懐安は翌朝から木箱を組み、古い布を幕に仕立てた。
寝台の傍らにできた、手のひらほどの劇場。
「右が曲がってる」
「直します」
「幕が短い」
「直します」
「君、僕のこと好き?」
「……それは、どこを直せば」
清音は声を立てて笑い、すぐに咳き込んだ。
懐安が慌てて背をさする。
「清音!」
「……ごめん。君をからかうの、楽しくて」
「ほどほどにしてください」
「じゃあ、百年くらいからかう」
懐安は俯いた。
清音は、その横顔を見て後悔した。
百年。
二人には、もう似合わない言葉だった。
*
舞台が完成した夜、懐安は灯りをともした。
清音は寝台に腰掛け、青い衣装を膝に置いた。
もう袖を翻す力はない。
白粉も紅もなく、痩せた頬には病の影が落ちていた。
「……どう?」
清音は尋ねた。
「僕、まだ綺麗?」
懐安は傍らに膝をついた。
「綺麗です」
「天下一?」
「天下一です」
「親方に聞かせたいな。ようやく給金が上がる」
二人は笑った。
清音は震える手を伸ばし、懐安の頬に触れた。
「……僕はね、ずっと舞台が好きだった」
「はい」
「誰かの人生になれるから。誰かの恋なら、どれほど悲しくても演じられるから」
懐安は黙って聞いていた。
「でも、君に会って……初めて、自分の人生に帰りたくなった」
懐安の目から涙が落ちた。
清音は驚いたように瞬いた。
「……君、泣くんだ」
「泣きます」
「知らなかった」
「清音が、泣かせるので」
清音は親指で涙を拭った。
「……ごめんね」
「謝らないでください」
「じゃあ、ありがとう」
懐安が清音を抱き寄せた。
細くなった背中に腕が回る。
「愛しています」
「……知ってる」
「何度でも言います」
「うん」
「愛しています」
清音は懐安の胸に顔を埋めた。
「……僕も」
その声は、ほとんど息だった。
けれど懐安には、確かに聞こえた。
*
柳清音が息を引き取ったのは、四月の雨が降る朝だった。
懐安はいつものように粥を温めていた。
「清音、朝ですよ」
返事はなかった。
「……また寝坊ですか」
寝台へ近づく。
清音は、少しだけ微笑んでいた。
まるで、いつもの冗談を考えているような顔だった。
懐安は頬に触れた。
冷たかった。
「……清音」
もう一度呼んだ。
「朝ですよ」
窓から、柔らかな光が差し込んでいた。
あの人と暮らすために選んだ、東向きの部屋。
清音は一度も、自分より先に起きられなかった。
懐安は寝台の傍らに座り、その手を握った。
「……約束を、破りましたね」
声が震えた。
「先に起きて、私を待つと……」
返事はない。
懐安は初めて、声を上げて泣いた。
小さな舞台の幕が、朝風に揺れていた。
*
一九二〇年、秋。
上海の劇場には、今夜も客が集まっていた。
舞台では、若い役者が虞姫を演じている。
美しい声だった。
終演後、その役者が懐安に尋ねた。
「程さん。僕の芝居、どうでした?」
「よかったですよ」
「柳先生には、まだ及びませんけど」
懐安は静かに笑った。
「清音なら、喜ぶと思います」
「……どうしてわかるんです?」
「そういう人でしたから」
若い役者は頭を下げ、去っていった。
懐安は幕の端を整えた。
かつて清音が立ち、袖を釘に引っかけ、笑いながら文句を言った場所。
今は、別の誰かが立っている。
芝居は続く。
役者が変わっても、客が変わっても、幕は何事もなかったように上がる。
*
その夜、懐安は紅月楼を訪れた。
二階では、蘇雪蓮が琵琶に合わせて歌っていた。
清音がかつて笑い合った歌姫は、以前より少し静かな顔をしていた。
「……清音は?」
そう尋ねかけ、雪蓮は言葉を止めた。
懐安が首を横に振ると、彼女は目を伏せた。
「……そう」
しばらくして、雪蓮は呟いた。
「綺麗な人だったわね」
懐安は頷いた。
「はい」
「舞台の上でも、下でも」
「……はい」
雪蓮は紅い灯籠を見上げた。
「この楼にはね、帰ってこない人の話が、少しずつ増えていくの」
懐安は何も言わなかった。
彼女も、それ以上は話さなかった。
ただ、二人はしばらく、誰も座っていない席を見つめていた。
*
帰宅すると部屋は暗かった。
茶碗は、今も二つ並んでいる。
棚の端には、清音が落とした焼き栗の殻がひとつ残っていた。
懐安はそれを拾い上げ、苦笑した。
「……最後まで、片づけが下手な人だ」
返事はない。
窓辺の小さな舞台には、青い衣装が畳まれている。
懐安は幕の前に腰を下ろした。
「清音」
いつものように呼んだ。
「今日も、いい芝居でした」
沈黙。
「若い役者が、あなたのことを話していました」
沈黙。
「……あなたなら、きっと喜んだでしょうね」
そのとき、夜風が窓を揺らした。
小さな舞台の幕が、かすかに動いた。
懐安は顔を上げた。
ほんの一瞬、そこに清音が立っているような気がした。
紅を差した虞姫ではない。
寝癖をつけ、少し不機嫌そうに笑う、あの男が。
『ねえ、懐安。僕、綺麗?』
懐安は目を閉じた。
「……綺麗ですよ」
涙が、静かに落ちた。
「今も、ずっと」
窓の外では、明日の興行を知らせる声が響いていた。
新しい役者が舞台に立ち、新しい恋が歌われる。
春も夏も秋も、劇場には何度でも幕が上がる。
けれど、懐安のためだけに笑ったあの男の芝居は、もう二度と始まらない。
それでも懐安は、毎晩、小さな幕を整え続けた。
いつか、あの人が帰ってきてもいいように。
そして今夜も、誰もいない客席に座り、ひとりで開演を待っていた。
――完――




