第二話 恋をするには、袖が邪魔。
一九一八年、六月。上海。
柳清音は、近頃ひとつ、深刻な問題を抱えていた。
恋をすると、芝居が下手になる。
「柳先生。袖が釘に引っかかっています」
「知ってる」
「引っ張ると破れます」
「それも知ってる」
「では、なぜ引っ張るんですか」
「君が見ているからだよ!」
程懐安の手が止まった。
清音も止まった。
舞台裏には、気まずい沈黙だけが残された。
「……今のは忘れて」
「はい」
「本当に?」
「努力します」
「努力じゃなくて忘れて!」
懐安は無言で釘を抜き、引っかかった水袖を丁寧に外した。
その指先があまりに優しくて、清音はますます腹が立った。
自分は京劇の女役、旦として、幾百もの恋を演じてきた。愛する男を待つ女も、別れを拒む姫君も、死を選ぶ虞姫も。
それなのに、たった一人の無愛想な職人を前にすると、指先ひとつ思いどおりにならない。
「……懐安」
「はい」
「君は僕をどうしたいの?」
「袖を直したいです」
「そうじゃない!」
懐安は困ったように眉を寄せた。
清音は顔を覆った。
この男を好きになった自分が、心底恨めしい。
*
欧州の戦争は四年目を迎えていた。
中国からも多くの労働者が海を渡り、上海の港には、帰郷を約束する声と、それを信じたい者たちの沈黙が満ちていた。
劇場も無縁ではない。衣装の布は値上がりし、客は景気を嘆きながら高い席料を払う。
「人間って不思議だね」
幕を繕う懐安の隣で、清音は焼き栗を剥いた。
「明日の米代には怒るくせに、芝居には金を出す」
「腹が減るのと、寂しいのは別ですから」
清音は目を瞬いた。
「……君、たまに詩人みたいなことを言うね」
「幕の修繕費は詩では払えません」
「台無しだよ」
笑った拍子に、栗が一粒転がった。
懐安は拾って紙に包み、清音の手元へ戻した。
「落とすと思いました」
「だったら先に止めてよ」
「先生の手から落ちるものを、全部受け止めるのは難しいので」
「……全部?」
「できるだけは」
清音は栗を口に放り込んだ。
甘いはずなのに、胸の奥が少し苦かった。
*
その夜、二人は紅月楼を訪れた。
清音は宴席で一節披露し、懐安は衣装を運ぶ。
いつもの仕事だったが、帰り際に帳場の玉蘭が清音を呼び止めた。
「ねえ、柳先生。恋文って、どう書けばいいと思う?」
「相手の名前を間違えないことかな」
「それができない男が、案外多いのよ」
玉蘭は呆れたように帳簿を閉じた。
傍らの小蘭が笑う。
「姐姐(お姉さん)だって、この前の代筆屋さんのこと、ずっと話してたじゃない」
「小蘭。あなたの給金、数え直しましょうか」
清音は吹き出した。
「なるほど。名前を間違えない男は貴重らしい」
「ええ。あなたも気をつけて」
玉蘭の視線が、清音の後ろに立つ懐安へ向いた。
清音はわざと気づかないふりをした。
*
宴の喧騒を逃れ、二人は裏階段に腰を下ろした。
遠くで蘇雪蓮の琵琶が鳴っている。
清音は舞台化粧を落としたばかりだった 。
白粉の残る首筋を夜風が撫で、隣に座る懐安の体温が妙に近く感じられる。
「……ねえ、懐安」
「はい」
「僕が女役の役者だから、優しくするの?」
「違います」
「劇団の看板だから?」
「違います」
「じゃあ、何?」
懐安はしばらく黙っていた。
「先生が、舞台から降りたあとも笑っていてほしいからです」
清音は息を呑んだ。
「客は虞姫を見ています。でも私は、化粧を落とした先生を知っています」
「……寝起きの悪い僕?」
「はい」
「金勘定にうるさい僕?」
「はい」
「焼き栗を落とす僕?」
「毎回です」
「そこは少し否定して!」
懐安が笑った。
ほんのわずかな、けれど確かな笑みだった。
清音は、その顔を誰にも見せたくないと思った。
「……懐安」
自分から、男の手を取る。
「僕はね、舞台では誰にでも愛していると言えるんだ」
「はい」
「でも、君には……どう言えばいいのかわからない」
懐安の指が、そっと絡んだ。
「言わなくても、わかります」
「……それじゃ駄目だよ」
清音は俯いた。
「僕は、一度くらい、自分の言葉で恋をしたい」
懐安が身を屈めた。
唇が触れる直前、清音は目を閉じた。
初めての口づけは、驚くほど不器用だった。
舞台で何度も演じた恋人たちの接吻とは違う。
呼吸の合わせ方も、触れる角度も、何ひとつ美しくない。
それなのに、離れた瞬間、清音はもう一度欲しくなった。
「……下手だね」
「すみません」
「謝るところじゃない」
「では、どうすれば」
清音は懐安の襟を掴み、引き寄せた。
「覚えて」
二度目は、少し長かった。
懐安の手が背に回り、清音はその胸に身体を預ける。
唇が離れると、額を寄せたまま、二人はしばらく動かなかった。
「……先生」
「今は、その呼び方やめて」
「清音」
たった二文字で、胸が震えた。
「……もう一度」
「清音」
「うん」
「好きです」
清音は笑った。
笑ったはずなのに、涙が一粒落ちた。
「……遅いよ、馬鹿」
*
一九一八年、十一月。
欧州で休戦が成立したという知らせが届いた。
街には安堵が広がり、劇場にも久しぶりに明るい声が戻った。
その夜、懐安は清音に小さな紙片を渡した。
「何、これ」
「部屋の見取り図です」
描かれていたのは、狭い部屋だった。
窓がひとつ。寝台がひとつ。茶碗を置く棚と、小さな机。
「……君、これ」
「劇場から遠くない場所に、空き部屋がありました」
懐安は少しだけ視線を逸らした。
「朝日が入ります。冬も、あまり寒くないそうです」
清音は紙を見つめた。
舞台では、幾度も幸福な結末を演じた。
けれど、自分の人生にそんなものが用意されているとは思わなかった。
「……僕、朝が弱いよ」
「知っています」
「寝起きも悪い」
「知っています」
「焼き栗を落とす」
「床は掃きます」
清音は笑った。
そして、紙片を胸に抱いた。
「……じゃあ、僕が先に起きて、君を待つ」
懐安は穏やかに微笑んだ。
「それは難しそうですね」
「失礼だな!」
二人は笑い合った。
窓の外では、冬の雨が降り始めていた。
清音はまだ知らなかった。
その小さな部屋で、いつか本当に懐安の帰りを待つことも。
待つだけの時間が、こんなにも愛おしく、こんなにも残酷になることも。
紙に描かれた窓の向こうには、まだ、何度でも朝が来るはずだった。
――第二話・了――




