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第一話 紅を落とせば、ただの男。

一九一七年、九月。上海(シャンハイ)。


柳清音(リウ・チンイン)は、男に愛されることに慣れていた。

もっとも、その愛は幕が下りるまでしか続かない。


「清音! 今夜の虞姫(ユージー)は絶品だったぞ!」


「ありがとうございます。では、絶品にふさわしい給金を」


「おまえは口を開けば金の話だな!」


「口を閉じている間は歌っておりますので」


趙(ジャオ)親方は煙管を取り落としかけた。


鏡の前で白粉を拭っていた清音は、勝ち誇ったように笑う。

細い眉、涼やかな目元、紅を落としてなお艶めく唇。

二十四歳の彼は、京劇(ジンジュ)の女役である旦(ダン)、なかでも気品ある女性を演じる青衣(チンイー)として名を知られていた。


舞台では、男たちが命を捧げたくなる美女。

舞台裏では、給金にうるさく、朝に弱く、焼き栗を食べれば必ず一粒落とす男。


その落差を、本人はたいそう気に入っている。


「柳先生」


背後から声がした。

振り返らなくてもわかる。


程懐安(チョン・ホワイアン)。二十七歳。劇場の大道具を任される職人で、長身に無愛想な顔、いつも袖口に木屑をつけている。


「昨日の床板、直しました」


「ありがとう。これで今夜は安心して死ねる」


「死なないでください」


「芝居の話だよ」


「芝居でも」


清音は鏡越しに男を見た。


「……君、冗談が通じないって言われない?」


「先生によく言われます」


「誰のせいだろうね」


「先生かと」


清音は思わず吹き出した。


懐安は笑わない。ただ、清音の足元に落ちていた髪飾りを拾い、緩んだ留め金を確かめた。


「これも直しておきます」


「君は何でも直すね」


「壊れたものなら」


「じゃあ、僕が壊れたら?」


何気なく投げた言葉だった。

懐安は髪飾りから目を上げた。


「……直せるところは、全部」


清音の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。


「困ったな。そんなことを言われたら、壊れてみたくなる」


「それは困ります」


「どうして?」


「先生が痛い思いをするので」


あまりにも当然のように言われ、清音は返す言葉を失った。


*


その夜の演目は《覇王別姫(バーワンビエジー)》。


愛する覇王に別れを告げる虞姫を、清音は演じた。


水袖(シュイシウ)と呼ばれる長い袖が、灯火の下で白い軌跡を描く。

伏せた睫毛、震える指先、喉の奥から絞り出す別離の調べ。


客席は息を呑んだ。


清音は知っている。

人は、美しい別れを好む。


芝居ならば、どれほど悲しい結末にも拍手が送られる。

役者は死んでも幕の裏で起き上がり、化粧を落として家へ帰れるからだ。


けれど現実の別れには拍手も、やり直しもない。

そう思うたび、清音は舞台の上でだけ少し安心した。


終演後、贔屓客から届いた花束に、妙に熱心な恋文が添えられていた。


『今宵のあなたを思えば、眠ることもできません』


「なら朝まで働けばいいのに」


清音が呟くと、衣装箱を運んでいた懐安が答えた。


「働く場所がないのかもしれません」


「君は恋文にまで現実を持ち込むの?」


「眠れないのは身体によくありません」


「……君には絶対、恋文を書かせない」


懐安は少し考えた。


「先生になら、書けると思います」


清音は花束を落とした。


「……今、何て?」


「文字は書けます」


「そこじゃない!」


懐安は不思議そうに首を傾げた。

清音は顔を背けた。


白粉を落とした頬が、妙に熱かった。


*


数日後、清音は紅月楼(ホンユエロウ)に招かれた。


劇場の後援者が催す宴で、一節披露するためだった。懐安も衣装箱を運ぶ役目で同行した。


紅い灯籠が連なる楼内には、甘い香と酒の匂いが漂っている。


帳場では、玉蘭(ユーラン)と呼ばれる女が帳簿を前に眉をひそめていた。


「小蘭(シャオラン)、三番のお客さまの酒代、また合っていないわ」


「だって、お客さまが『君の瞳に乾杯』って」


「瞳は酒を飲まないでしょう。二杯分つけて」


清音は思わず笑った。

その声に顔を上げた玉蘭は、彼の化粧を眺めて目を細める。


「まあ。うちの女たちより綺麗な人が来た」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


「帳簿をつけるのは得意?」


「金勘定なら」


「それなら気が合いそうね」


二人が笑っていると、奥から琵琶(ピーパー)の音が聞こえた。


歌っているのは、蘇雪蓮(スー・シュエリエン)。紅鶯(ホンイン)の名で知られる歌姫だった。


「素敵な声だね」


清音が呟くと、玉蘭は微笑んだ。


「でしょう。あの人の歌には、帰りを待ちたくなるようなところがあるの」


その言葉が、なぜか胸に残った。


*


宴が終わった頃には、清音の喉は乾ききっていた。


人目を避けて裏廊下に出ると、懐安が茶を持って待っていた。


「喉にいいよう、少し冷ましてあります」


「君は本当に世話焼きだね」


「仕事ですから」


「衣装箱の運搬係が、茶まで淹れるの?」


「……余計でしたか」


清音は茶碗を受け取り、首を振った。


「いいや。嬉しいよ」


懐安は目を伏せた。

その横顔を見て、清音はふと思った。


この男は、自分が舞台でどれほど美しい女を演じても、決して騒がない。


高価な花も贈らない。甘い言葉も囁かない。

ただ、壊れた髪飾りを直し、喉を気遣い、誰も見ていないところで茶を淹れてくれる。


「……懐安」


「はい」


「君は僕の舞台を、どう思う?」


「綺麗だと思います」


「虞姫が?」


「いいえ」


懐安はまっすぐ清音を見た。


「柳先生が」


廊下の向こうで、誰かが笑った。

紅い灯籠が揺れ、二人の影が壁に重なる。


「……僕は男だよ」


「知っています」


「化粧を落とせば、ただの男だ」


「それも知っています」


「だったら、何が綺麗なの」


懐安は少しだけ考えた。


「舞台の上では、誰より遠くを見ているのに」


静かな声だった。


「幕が下りると、いつも寂しそうにするところです」


清音は息を止めた。


そんな顔を見せた覚えはなかった。

見せたくもなかった。


「……君、失礼だね」


「すみません」


「褒め方が下手すぎる」


「すみません」


「でも」


清音は茶碗を置いた。


「……もう少し、褒めてくれてもいいよ」


懐安の目が、わずかに見開かれた。

それが可笑しくて、清音は笑った。


*


帰り道、上海の夜風は冷たかった。


街角には欧州の戦争を伝える新聞が貼られている。

中国が八月に参戦してから、海の向こうの戦争は以前より身近なものになっていた。


それでも劇場では、明日も恋人たちが別れを惜しむ。


清音は懐安の隣を歩きながら、尋ねた。


「ねえ。百年後も、僕の舞台を覚えていてくれる?」


「百年は生きられないと思います」


「君は本当に夢がない!」


「ですが」


懐安は足を止めた。


「生きているあいだは、忘れません」


清音は振り返った。


「……虞姫を?」


「柳清音を」


その名を呼ばれた瞬間、胸の奥に、知らない痛みが生まれた。


清音は慌てて笑った。


「じゃあ、明日も見ていて。舞台裏からでいいから」


「はい」


「僕が転んだら?」


「支えます」


「髪飾りが壊れたら?」


「直します」


「……僕が、泣いたら?」


懐安は少しだけ黙った。

そして、静かに答えた。


「幕が下りるまで、待っています」


清音はもう、何も言えなかった。


遠くで、夜回りの声が響いている。


明日も幕は上がる。

美しい虞姫は、愛する男との別れを歌う。


けれど、その夜の清音はまだ知らなかった。


いつか自分があの男の前でだけ、泣くことさえできなくなる日が来ることを。


そして、最後に残るのが、美しい衣装でも喝采でもなく、壊れた髪飾りを直してくれた、あの不器用な手の温もりであることを。


――第一話・了――


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