02:裏庭と、二百円の高級玉露
「分かった分かった、逃げないから、手を離してくれ」
宵町暁灯くんの手を握り、明らかに気のない彼を半ば引きずりながら廊下を歩いて一分ほど。
ようやく観念したのか、彼はうんざりとした声色で、白旗をあげた。
「強引でごめんね。こういう不意打ちでもないと、君は逃げちゃう気がしたから」
6月中旬の湿気の高いじっとりとした裏庭は、下校ルートから外れているせいか、誰の姿もない。
校舎の方からは部活の掛け声や帰宅する生徒たちの笑い声が聞こえてくるのに、この裏庭だけ、空気が一枚分薄いように感じた。
自動販売機に二百円突っ込んで、彼にボタン選択を委ねる。
「とりあえず、無理矢理連れてきた分のお詫びね。好きなの選んでいいよ」
「じゃあ、これで」
あ、一番高いお茶(贅沢手摘みの別格水出し玉露。二百円)を選びやがった!
自動販売機が機械音を立てて、私のお小遣いを緑色のクール飲料に変換する。
奢ると言ったからには、仕方がない。百円玉を追加して、一番安いアメリカンコーヒー(小サイズ)を頼んだ。
「ここ数日、入院していて暇だったからさ、色々と調べたのよ」
何を? という、露骨に気のない相槌に折れそうになるが、勇気を振り絞る。
苦いコーヒーで口を湿らせてから、私は阿呆みたいな言葉を口にした。
「君って、陰陽師なんだよね?」
「そう思った理由は?」
「ダンジョンで言ってたじゃん、『急急如律令』って。あの言葉が何か調べたら、陰陽道に辿り着いたってわけ」
急急如律令。
古代中国において道教系の呪符や呪文に出てくる文言で、「急ぎ、律に従って実行せよ」という命令だ。使役する使い魔のみならず、敵対する相手に対しても影響を与えられたという。
日本では、中国由来の陰陽五行や占術が国の制度に取り込まれ、陰陽道として発達した。その呪文の一部として、この言葉も使われた……らしい。
と、付け焼き刃の解説をそこまで披露した瞬間、宵町暁灯くんがため息をついた。観念を感じさせる吐息だ。
「そこまで詳しく覚えていたのか…… そういえば、忘れさせられないんだっけな、聖騎士のスキルで」
「うん、そう、忘れられないの」
紙コップを両手で包み込む。ホットコーヒーが指先を温めてくれるが、今も身体の奥底にある冷たさは消えてくれない。
「あのミノタウロスに、アビス・ストーカー。みんながやられたことも、私が殺されそうになったことも…… ぜんぶ、ぜんぶはっきり覚えてる」
改めて言葉にすると、胸がきゅっと痛んだ。
でも、それでも目を逸らすわけにはいかない。
「だからね、宵町くん」
私は顔を上げて、彼の目を真正面から見据える。
「私は強くならなきゃいけないの。聖騎士だから」
コーヒーを一口飲んで、ぐっと身を乗り出す。
「だから、ちゃんと知りたいの。
——宵町くんが何者なのか。
あの時、私たちを助けた君たちが、どんな世界で戦ってるのかを」
逃がさない、という意志を込めて、私はそう告げた。
また大見得を切ったものだ。自分で言っておいて、少しだけ笑えてしまう。
かっこつけてるみたいで、背伸びしてるみたいで、まるで物語の主人公みたいだ。
それでも、これは紛れもない本心だった。
宵町暁灯くんはしばらくしかめっ面で考えた後、大きくため息をついた。
「スキルのおかげか、咲希さんの性格かは分からないけれど、決意は強いみたいだね。ずっと人払いの術法を張っているのに、立ち去ろうともしないし」
「え? ずっとって、今も? ちょっと待って、いつから!?」
彼が両手でなにかの印を結んだ。
同時に、学校の喧騒が戻ってくる。裏庭を通ろうとする人もちらほらと見えた。
「最初、君に手を掴まれてからずっと」
普通に話しているように見せかけて、水面下ではそういうことをしていたのか。たち悪いなこいつ!
「というか、ダンジョン外で許可も取らずにスキルを使うの、犯罪ですよ!?」
「大丈夫、これはダンジョンで得たスキルじゃないから、ダンジョン緊急対策特別法には引っ掛からないんだ」
「そもそもの話、催眠みたいなスキルを勝手に使うこと自体、大問題では!?」
「まあ、それを言われるとぐうの音も出ないところだけど」
緑茶を飲み切った彼が、紙コップを握り潰して投げる。綺麗な放物線を描いたそれは、ゴミ箱にホールインワンした。
「……でも、こういったことを、詳しく聞きたいんだよね?」
その通りです。ぐうの音も出ません。とても魅力的なデモンストレーションでした。
無言で頷いた私を見て、宵町暁灯くんがため息をつく。
「俺の呼び名は、暁灯でいい。宵町って苗字は、あんまり好きじゃないんだ。実家のことを思い出すから」
「実家のこと……?」
思わずオウム返しにしてしまう。
踏み込んじゃいけない話題な気がして、喉まで出かかった『どういう意味?』を、私はそっと飲み込んだ。
「まあ、そのへんも含めて、まとめて——」
その時だった。
暁灯くんの言葉が、不自然に途切れた。
彼の目が、私の背後を見ている。
「……学校で術を使うのは、流石に軽率だったか」
振り返った瞬間、裏庭の空気が凍りついた。
戻ったはずの、学校の音がすべて消える。
同時に、校舎の影から、白い靄のようなものが滲み出してくる。
それは見る間に形を成し、人型の輪郭を取った。
紙でできた人形。
顔のない頭部が、こちらを向いている。
「式神……!」
暁灯くんが舌打ちして、懐から札を取り出した。
白い人形は六体。私たちを囲むように、じりじりと距離を詰めてくる。
「咲希さん、下がってて。これは——」
その瞬間、式神の一体が動いた。
暁灯くんの死角、背後から。
紙の腕が鋭い爪に変形し、彼の首を狙う。
考えるより先に、身体が動いていた。
「《聖盾顕現》ッ!」
暁灯くんの頭上に、小さな光の盾が現れる。本来の武装の十分の一にも満たない、応急の防御。
それを、屋上から攻撃を仕掛けた七体目の紙人形にぶつける。
式神の爪が光の盾にぶつかり、火花が散った。
「——七体目?」
暁灯くんの目が、僅かに見開かれた。
彼が背後からの一撃を躱したのと時を同じくして、屋上からもう一体が奇襲を仕掛けていたのだ。
「助かったよ、ありがとう。というか、今の、よく見えたな」
「聖騎士だからね。味方を守るためなら、目は利くつもりよ!」
強がりだ。実際には、ほとんど反射だった。
でも、暁灯くんは少しだけ目を細めて、感心したように呟いた。
「……なるほど。使えるな、聖騎士」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてるよ。——大技を使いたい。十秒ほど、守ってくれる?」
「そのくらいなら、余裕ッ!」
咄嗟の装備の出し入れは、飽きるほど訓練したのだ。
腰に携えたマジックバッグから、合成カーボナイト製の大盾と、長さ八十センチメートルの特殊警棒を取り出し、構える。
同時に、暁灯くんが何かを唱え始める。
「謹請す——。南方を司る朱雀の神威。五行の理に従い、陽の極致たる蒼き巨火となれ」
奇襲を防がれ、包囲したまま次の手を窺っていたらしき式神たち。だが、私が武装し、暁灯くんが詠唱を始めたのを見て取るや、全員で一斉に攻め立ててきた。
だが。
「この程度、軽い!」
同時に仕掛けられた三本の爪を、盾の一薙ぎで弾き飛ばす。
攻撃自体は確かに鋭い。だが、超常の賜物であろうと、所詮は紙だ。
肉を裂く斬撃に、質量が伴っていない。多分、軽装の相手を切り刻むことに特化した造りなのだろう。
そしてそれは、大きな盾を携えた聖騎士にとって、あまりにも容易い相手であった。
迫る一体を特殊警棒で薙ぎ払い、返す刀でもう一体の斬撃を防ぐ。背後からの不意打ちは、顕現させた聖盾が止めてくれた。
七体を相手取っても、守りに徹するだけなら造作もない。
聖騎士の本領発揮だ。
先日、みっともない姿を見せたのを、これで見直してくれるといいけれども。
「——終わった。下がれ」
背後から、静かな声。
私は反射的に身を伏せた。
「急急如律令——天火招来」
蒼い炎が、七つに分かれて式神を貫いた。
蒼炎はまるで生き物のように式神たちへまとわりつき、一瞬の閃光。
七体の紙人形が、跡形もなく灰と化した。
静寂が、次いで学校の喧騒が戻ってくる。
「……一撃で、七体も」
「詠唱さえ通れば、この程度はね。——助かったよ、咲希さん」
暁灯くんの声は、さっきまでとは少しだけ違う温度を持っていた。
それと分かるほど、優しい声音だった。
「……あ」
ふと、我に返る。
「私も今、無許可でスキル使っちゃった」
「緊急避難だから問題ない。先月、判例も出た」
「詳しいなあ!?」
即答だった。さては、自分のために調べたな?
「ついてきて。話せる場所に案内する」
その瞬間、足元の地面が、ぐにゃりと歪んだ。
「……っ!?」
考える前に、大きく飛び退く。
見間違いじゃない。
校舎裏の地面に、亀裂が走っている。
ただの亀裂ではなかった。裂け目の奥が、暗い。物理的な深さではなく、空間そのものに穴が空いたような、底の見えない暗さだ。
同時に、空気が変質するのを肌で感じた。
気温が下がり、微かに土と鉄錆の混じった匂いが立ち昇ってくる。
この感覚を、私は嫌というほど知っていた。
「——ダンジョンだ」
「ダンジョン……? ここで?」
暁灯くんの声に、珍しく動揺が混じっていた。
式神を焼き払った直後の余裕は消え、裂け目を見つめる目には困惑が浮かんでいる。
「……このタイミングで、か」
独り言のような呟き。偶然にしては出来すぎている——そんな疑念が滲んでいた。
けれど今は、原因を考えている場合じゃない。
亀裂は一秒ごとに広がっている。直径一メートル、二メートル。周囲のアスファルトがめくれ上がり、裏庭のベンチが傾く。
スマホを取り出す。短縮5番、緊急連絡。呼び出し音が鳴る前に、通話が繋がる。
「緊急、ダンジョン発生です! 位置は赤真屋高校裏庭! 今のところ、巻き込まれた人はいません!」
市街地に、突然ダンジョンが現れる。
海外では、そういった事件が何件か報告されているのだ。日本も、晴れてその事例集の仲間入りというわけだ。
『りょ、了解! 対策班を手配するわ!』
電話に出たのは、父の秘書のアカネさんだった。
保留音すら挟まずにキーボードを叩く音と、誰かに指示を飛ばす声が向こう側で慌ただしく響く。
『対応チームを呼んだわ。でも、到着まで最低でも十五分はかかりそう』
十五分。放置すれば中のモンスターが地上に溢れ出しかねない。
ここは学校だ。部活中の生徒たちが、まだ校舎にいる。
「暁灯くん、ここは私が守るから、職員室に行って先生に伝えてほしいの。ダンジョンが発生したこと、校舎から避難誘導が必要かもしれないこと。それと、出来れば部活中の生徒を——」
避難指示を出そうと、視線を向けた瞬間だった。
暁灯くんの腕が、私の言葉を遮って動いた。
私の顔の横を、風が掠める。
蒼い光を帯びた何かが、視界の端を一瞬だけ横切った。
「ギャアッ!」
一拍遅れて、しわがれた悲鳴が裏庭に響き渡った。
振り返る。裂け目から、上半身が生えていた。ゴブリンだ。
その体に、何かが刺さっている。クナイのような、小ぶりの刃物。
円形の持ち手に括られた御札が、風にたなびいている。
「……助かった。ありがと」
「さっき、奇襲から守ってくれたしな。おあいこってことで」
「そう言われると、先日、ダンジョン深層で助けてくれた分の負債を感じないでもないんだけど……」
「そういえば、スキルで記憶しているんだったか」
暁灯くんは小さく肩をすくめ、裂け目へと鋭い視線を向けた。
「ちょうどいい。その時の貸しを返してもらってもいいか?」
「……すごく嫌な予感がするけど、聞くだけ聞かせてもらえるかな」
暁灯くんは答えず、裂け目から距離を取ったまま、懐から一枚の札を抜いた。
それを二本の指に挟み、裂け目の方へ翳す。
札の端が微かに揺れた。風ではない。裂け目から漏れ出す何かに反応しているように見えた。
数秒。
彼は札を引っ込めて、小さく息を吐いた。
「浅いな。瘴気の密度も薄い。——出てきたのが小鬼一匹ってことは、中もその程度だろう」
その目が、さっきの式神戦の時とは違う光を帯びている。
警戒でも、困惑でもない。
計算だ。
損と得を天秤にかけて、答えを出した人間の目だった。
暁灯くんは札を懐に戻すと、裂け目に背を向けて、私の方へ向き直った。
「ここで、受け身で待っているのも癪だ。——どうせなら、ダンジョンに攻め込んでみないか?」




