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15:現状維持と、願わない男

 猿の手、という怪談がある。

 

 三つの願いを叶える代わりに、願った者へ破滅的な代償をもたらす呪物。

 金を願えば、愛する者の死によって保険金が手に入る。

 死者の帰還を願えば、帰ってくるのは、もはや人とは呼べない何かである。

 

 願いは叶う。

 歪んだ形で。

 

 では。

 その猿の手から、願いを叶えるための『手』だけを取り除いたなら、何が残るのか。

 

 願いはある。

 想いもある。

 答えも、そこにある。

 

 けれど、それを現実へ引き寄せる手がない。

 

 願いが消えるなら、人は諦められる。

 願いが壊れるなら、人は別の道を探せる。

 願いが叶うなら、たとえ歪んだ形であっても、物語は終わる。

 

 だが、届きそうで届かない願いだけは終わらない。

 

 あと一歩。

 あと一言。

 あとひとつの答え。

 

 そこに辿り着けるはずだと知っているからこそ、人は手を伸ばし続ける。

 そして、届かない手を伸ばし続ける限り、人は自分の願いに縛られる。

 

 それが、神性呪物捌號しんせいじゅぶつはちごう

 【猿の手の手以外】。

 

 願いを叶える手を持たない、反願望器である。

 

 †††

 

 暁灯(あきと)くんは、知っていた。

 

 私が最初期のダンジョン災害に巻き込まれたこと。

 自分が千歳(ちとせ)ちゃんを連れて逃げたことで、陰陽寮(おんみょうりょう)の初動が乱れたこと。

 そのせいで、私たちに届くはずだった助けが遅れたかもしれないということ。

 

 だから、危険な場所へ向かう私たちを、ずっと見ていた。

 

 そこまで聞いてから、私はまだ、何も言えていなかった。

 

 怒るべきなのか。責めるべきなのか。

 それとも、死人みたいな顔をしている彼を、まず抱きしめるべきだったのか。

 ……分からない。

 

 暁灯くんは、まだ何かを言おうとしていた。

 けれど、その言葉に届く直前で、烏丸局長が【猿の手の手以外】を解き放った。

 

 何も言えないまま黙っている私の隣で、暁灯くんもまた、口を閉ざして立っている。

 

「そもそも、あなた方はまだ学生なのです」

 

 そんな私たちへ、烏丸局長だけが穏やかに言葉を重ねた。

 

「荒事は大人に任せ、勉学に励めばよい。子供には、それが許されています」

 

 そうだ。

 二ヶ月前まで、私はただの学生だった。

 放課後になれば友達と買い食いをして、休日には新しくできたお店へ遊びに行く。

 モンスターを剣で斬ることも、盾で叩き潰すこともなかった。

 

「戦うことのできるダンジョンスキル保有者は少ない。中でも、仲間を率いる立場のあなたが休息を選べば、他の探索者たちにも休む理由が生まれる。無理をしなくてよいという、良い前例にもなりましょう」

 

 そうだ。

 私が戦う必要なんてない。

 

 この世界には、暁灯くんや、烏丸局長のような人たちがいる。

 私なんかよりずっと昔から、怪異と戦うことを仕事にしてきた人たちが。

 ならば、そういう人たちに任せてもいいんじゃないだろうか。

 

 今ここで逃げれば、きっと日常へ戻れる。

 

 ダンジョンのことも。

 千歳ちゃんの痛みも。

 そして、暁灯くんの告白も、全部、知らなかったふりをして。

 

 教室へ戻って、クラスメイトとお菓子を食べる。

 たまには暁灯くんも連れ出して、遊び方を教えてあげてもいい。

 その後は、あの静かな喫茶店で、コーヒーを飲んで——。

 

 ——でも、そこに千歳ちゃんはいない。

 

 真白(ましろ)さんもいない。

 多分、暁灯くんもいない。

 

 ちりっ、と。

 胸の奥で、小さな火花が爆ぜた。

 

 心へ絡みついていた泥のような諦めが、内側から焼き切られていく。

 代わりに広がるのは、見慣れた黄金色の温かさだった。

 

 【精神干渉への抵抗に成功しました】

 

 ダンジョンシステムさんの声が聞こえた。

 《聖騎士の誓いオース・オブ・ホーリーナイト》。意志力を高め、自らを対象とした精神関与系スキルの成功率を著しく下げる。

 

 視界が、一気に澄んだ。

 

 烏丸局長の右手を覆う手袋が、淡く光っている。

 薄緑色の燐光。病室のカーテン越しに差し込む朝日のような、妙に清潔で、妙に冷たい光。

 

 【猿の手の手以外】が放つ、無差別な重い気配とは違う、別の呪物か、術。

 でも、それが何を意図したものかは分かった。

 

「暁灯くん! 気をつけて! 何か術を掛けられてる!」

 

「……お気づきになりましたか。なるほど、聖騎士というのは厄介ですな」

 

 盾を構え直した私の声に、烏丸局長の柔和な笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。

 その変化は一瞬で、次の瞬間には、いつもの穏やかな老人の顔へ戻っている。

 

「暁灯くん、大丈夫!?」

 

 振り返った瞬間、血の気が引いた。

 暁灯くんが、クナイの切っ先を自分の胸へ押し当てていた。

 

「うわぁ! シールドバッシュゥッ!」

 

「ぐわあぁぁッ!」

 

 考えるより先に、身体が動いた。

 大盾を構えたまま、暁灯くんへ体当たりする。

 

 からん、とクナイが地面を跳ねた。

 暁灯くんは数歩ぶん吹き飛び、背中から地面へ落ちて大きな音を立てる。

 

 しばらく横たわった後、彼は肩を押さえながら起き上がった。

 

「……暗示破りには、肉体的な苦痛がよく効く。自分でやるつもりだったけど、咲希さんのおかげで解けた」

 

「ご、ごめんね。痛かったよね」

 

「いや。刃物よりは、ずっといい。ありがとう」

 

 平静を装う声とは裏腹に、暁灯くんの表情は少しだけ歪んでいた。

 やっぱり痛かったらしい。少し近づくと、半歩引かれた気がする。

 

「まあ、いいでしょう。暗示を破られたとて、この場が【猿の手の手以外】の影響下にあることは変わりません」

 

 烏丸局長の手袋から、薄緑色の光が消える。

 だが、鳥籠の中に浮かぶ木乃伊の気配は、今も変わらない。

 

「別働隊が拾弐號(じゅうにごう)を確保するまで、互いに千日手といこうではありませんか」

 

 拾弐號。

 

 千歳ちゃんを、人ではなく管理番号で呼ぶ声。

 その千歳ちゃんを、真白さんのいる雨宿り(あまやどり)から連れ去ろうとしている。

 

 せめて真白さんへ知らせようと、ポケットのスマホへ手を伸ばす。

 けれど、指先は布地へ触れる寸前で止まった。

 

 警告して、襲撃の結果を変えたい。

 千歳ちゃんを助けたい。

 その願いそのものが、泥に沈められている。

 

 ならばと、反射的に烏丸(からすま)局長へ踏み込もうとする。

 だが、足も動かなかった。

 

「……っ」

 

 力は入る。

 呼吸もできる。

 身体を縛られているわけでもない。

 

 なのに、前へ出ようとする意思だけが、柔らかい泥へ沈んでいく。

 

 烏丸局長を止めたい。

 別働隊を止めたい。

 千歳ちゃんを助けたい。

 

 強く思うほど足元が不確かになり、ただ直立することを強く意識しないと倒れそうになる。

 

「……暁灯くん、これ、何をされてるの?」

 

「烏丸の呪物、【猿の手の手以外】。名前の通り、願いを叶える『手』がない。だから、願いだけをその場に停滞させる」

 

「願い、だけ?」

 

「倒したい。助けたい。選択したい。変えたい。決着をつけたい。そういう、何かをやろうとする意思が止まる。強く願うほど、動けなくなる」

 

「……性質(タチ)悪ぅ」

 

「ああ。しかし、それが作用しているのは俺たちだけじゃない。烏丸も同じだ」

 

 そういえばと、一点、思い当たることがあった。

 

「さっき、暁灯くんにシールドバッシュぶつけられたのは?」

 

「願うより先に終わっている反射も止められないらしい」

 

「武術の達人とかならともかく、私たちには役に立たないってことは分かった」

 

 少しの間、互いに睨み合う。

 戦いの前哨戦に見えて、その実、ともに動けない停滞。

 

 烏丸局長が口を開く。

 

「これは年長者としての、本気の助言ですがね。結論を出せない者に、何かを預かる資格はありません」

 

 静かな声だった。

 今までの呪的な声とは違う。年輪を感じさせる、深く染み込む声。

 

「呪物も、ダンジョンも、結局は同じことです。人の命運を左右するものは、迷わぬ者が扱わねばならない。悩むのは結構。若者の特権です。ですが、悩むのならそこから退きなさい」

 

 烏丸局長が、私を見て言う。

 

宵町(よいまち)暁灯(あきと)を、(ゆる)すのですか。責めるのですか」

 

 胸の奥が、また泥へ沈む。

 

「あなたの日常が壊れた遠因の一つでありながら、それを知ってなお黙っていた少年と、今後も共に戦うと言うのですか」

 

 何かを言おうとする。だが、何も言葉にはならない。

 少なくとも今の私は、何も決められていない。

 どの言葉へ手を伸ばしても、指先が泥へ沈んでいく。

 

 多分、これは【猿の手の手以外】のせいだけじゃない。

 あの呪物がなくても、私には答えが出せなかった。

 

 ——その時、烏丸局長が、静かに視線を動かした。

 私から、暁灯くんへ。

 

 私が答えられないことを見て、次は暁灯くんに何かを言うために視線を変えただけなのだろう。

 ただ、それだけだった。

 

 けれど私は、考えるより先に足を出していた。

 

 一歩、歩く。隣にいた暁灯くんを守る位置に向かって。

 今度は、足が動いた。

 

 けれど、それは答えが出たからではなかった。

 ただ、嫌だった。

 烏丸局長が次に暁灯くんへ何を言うのか、それを黙って聞いているのが、どうしようもなく嫌だった。

 

 でも、私は動けたのだ。

 

 ……今の私は、暁灯くんへの答えを出せていない。

 

 でも、暁灯くんが言いかけた言葉を、私はまだ聞いていない。

 千歳ちゃんが、暁灯くんの選択をどう思っているのかも知らない。

 真白さんの考えだって、私はちゃんと聞けていない。

 

 烏丸局長の話が、どこまで事実で、どこからが彼に都合よく並べられたものなのかも、確かめていない。

 

 そして何より。

 私は、自分が何に傷ついて、何に怒っているのかさえ、まだ整理できていない。

 

 今ある材料だけで、答えを閉じるには早すぎる。

 けれど、答えは消えたわけじゃない。今は届かないだけだ。

 まだ聞ける。まだ知れる。まだ確かめられる。

 

 なら、今ここで守るべきなのは、答えそのものではない。

 いつか未来で答えに辿り着くための時間と、関係だ。

 

 答えを出せないままでも、守れるものはある。

 

 私は、烏丸局長へ攻め込むのをやめた。

 代わりにもう一歩、暁灯くんの前へ出る。

 

 今度も、足は動いてくれた。

 

 誰かを倒すためではない。

 今ここにいる誰かを、守るための一歩だから。

 

「結論は、出せません」

 

「……ほう」

 

「今の私には、まだ材料が足りません。暁灯くんから聞いていないことがある。千歳ちゃんに聞かなきゃいけないこともある。真白さんの考えだって、私はまだちゃんと知らない」

 

 烏丸局長の口元が、満足げに緩んだ。

 それこそが、彼の望んでいた答えだと言わんばかりに。

 

「だから、今ここで赦すとも、責めるとも言いません。信じるとも、突き放すとも言いません」

 

「では、やはり——」

 

「判断は保留します」

 

 言葉を重ねて、遮った。

 

「でも、それは投げ出すという意味じゃありません。これから考えるために。これから聞くために。これから自分で選ぶために——今ある関係を、あなたに終わらせさせないという意味です」

 

 大盾を地面へ据える。

 黄金色の聖盾を、私と暁灯くんの前へ並べた。

 

「それから、これは個人の感情とは別の話です」

 

 私は、姫岸財閥が管理する第七東京ダンジョンの、現場責任者だ。

 探索隊の隊長で、暁灯くんたちを仮登録した当事者でもある。

 

「姫岸側は、ダンジョン管理権の変更に同意しません。暁灯くんたちの仮登録も、現在の協力関係も継続します」

 

 私は、烏丸局長が使った言葉を、そのまま返す。

 

「世界は、手続きで回っているのでしょう?」

 

 烏丸局長が、わずかに目を細める。

 

「だったら、手続きを変えるには、こちらの同意も必要です。私は同意しません」

 

 今ここで、すべてを解決することはできない。

 烏丸局長を倒すことも、暁灯くんへの答えを出すこともできない。

 

 だから、変えない。

 今すぐ奪われることだけを、拒む。

 

「すべて、現状維持です」

 

「それは、結論からの逃げですな」

 

「はい」

 

 即答した。

 

「逃げました。でも、逃げた先で考えます。今日出せなかった答えを、明日も、明後日も、その先も考えます」

 

 聞きたいことがある。

 知りたいことがある。

 怒りたいことも、守りたいものも、まだ山ほど残っている。

 

「結論は出せなくても——今持っているものを手放す気は、もっとありません」

 

 大盾を、構え直す。

 

「私は、強欲なので」

 

 隣へ、暁灯くんが並んだ。

 

「俺も、まだ咲希さんに何を言えばいいのか、分かっていない」

 

 その声は、いつものポーカーフェイスを作る時よりも、少しだけ掠れていた。

 

「謝らなきゃいけないことがある。説明しなきゃいけないこともある。でも、それは全部、俺の意志でやるべきことで、烏丸さんに言われてやることじゃない」

 

 暁灯くんの指の間へ、札が滑り込む。

 攻撃のためではなく、何かを守るように胸元へ構えられた。

 

「咲希さんが聞くと決めてくれたなら、俺はもう逃げない。俺も、ここにいる」

 

 それから、烏丸局長を真っ直ぐに見据える。

 

「それに、千歳は渡さない。——あんたに任せるという選択肢だけは、最初から存在しない」

 

 沈黙が落ちた。

 

 烏丸局長は、しばらく私たちを眺めていた。

 値踏みするような、それでいて、どこか古い写真でも見るような目だった。

 

「……成る程。停滞の檻の中で、自ら停滞を選びますか」

 

 烏丸局長は、コートの前を、改めて大きく開いた。

 

 左の内側には、【猿の手の手以外】を収めた鳥籠。

 右の内張りには、数珠。曇った手鏡。錆びた鈴。封蝋された小瓶。色褪せた組紐。

 

 几帳面に、整然と。

 工具箱の中身のように並べられた、いくつもの呪物。

 

 手袋も、【猿の手の手以外】も、その中の一つに過ぎなかったのだ。

 

「よろしい。ならば、千日手の指し方というものを、お見せしましょう」

 

 外灯の光が、烏丸局長の眼窩へ深い影を刻む。

 それでも、彼の声はあくまで穏やかだった。

 

「ご存知ですかな。【猿の手の手以外】の檻の中で、最も自由に動けるのは——何も願わない者です」

 

 ぞわり、と空気が冷えた。

 

「私は、願いません。祈りも、望みもしません。この歳になるとね、未来に望むものなど、何ひとつ残っていないのですよ」

 

 烏丸局長が、静かに、礼でもするように頭を垂れる。

 

「あなた方が自ら降りてくれないなら、それでもいい。ただ——手続きを、執行するだけです」

 

 烏丸局長が、呪物を手に取る。封蝋された小瓶だ。

 彼は印を結び、封印を解こうとする。

 

 ——だが、正直なところ、もう格好良く決め台詞っぽいものを言ったところで本当に大変申し訳なくごめんなさいなことではあるが、烏丸局長のことは完全なる認識の範囲外にあった。

 

 彼女は、そこにいた。

 腰まで届きそうなつやつやの黒髪に、白いワンピース。背後に、何本もの金毛の尾を揺らして。

 散歩でもするかのような、軽い足取りで。

 真白さんや会社のSP、私のパーティメンバーまでもを後ろに引き連れて。

 

「咲希ちゃん聞いて! やっと出たよ! 『九尾の魔法少女・たまもん』!」

 

 ひまわりのような笑顔で、千歳ちゃんはそう言った。


MVP《聖騎士の誓いオース・オブ・ホーリーナイト》さん。

2話続いたシリアスな雰囲気は終わりだァ!

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