14:救いの代償と、届かない答え
「宵町暁灯が、なぜ陰陽寮を離れたのか」
烏丸局長の声は、ひどく穏やかだった。
「そして、その日、陰陽寮で何が失われたのか」
煙草の先端で、赤い火がじわりと膨らむ。
紫煙が、簡易休憩所の屋根の下を薄く漂った。
「姫岸咲希さん。あなたにも、無関係な話ではありません」
私にも。
その言葉の意味が、一瞬分からなかった。
暁灯くんが陰陽寮を出たこと。千歳ちゃんを連れて逃げたこと。真白さんと一緒に、雨宿りで暮らしていること。
それらは確かに、私にとって無関係ではない。
けれど、それはあくまで、今の話だ。
私が暁灯くんと出会ったのは、数日前の第七東京ダンジョンだ。
アビス・ストーカーに負けて、仲間たちが倒れて、私がもう駄目だと思った、その時。
暁灯くんと真白さんが現れて、私たちを助けてくれた。
だから、私にとって暁灯くんは——。
「あなたは、宵町暁灯さんに救われた」
私の思考をなぞるように、烏丸局長が言った。
「第七東京ダンジョンで、アビス・ストーカーに遭遇したあなたは壊滅的な被害を受け、彼に救われた。そこまでは、間違いありませんな」
「……はい」
それは箝口令の敷かれている極秘事項だった。だが、事実だ。
「ですが、物事には前段というものがある」
烏丸局長は、ブリーフケースの上に置いていた書類を一枚めくり、私に渡した。
そこには、災害発生直後の日付と、いくつもの黒塗りが並んでいる。
けれど、その見出しだけは読めた。
『初期ダンジョン災害発生時における霊的観測網の機能低下について』
「ダンジョン災害が発生した最初期、国も、民間も、我々陰陽寮も、何が起きているのかを把握しきれておりませんでした」
ダンジョン災害。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
今では誰もが使う言葉だ。ニュースでも、会議資料でも、日常会話でも、当たり前のように出てくる。
けれど、最初からそんな名前があったわけではない。
最初は、ただの異常だった。
突然、現実が裂ける。
そこにいた人間が、迷宮に呑まれる。
モンスターが現れ、レベルとスキルという、意味の分からないものが与えられる。
誰も、何も分かっていなかった。
「本来であれば、陰陽寮は霊的観測、発生地点の封鎖、被災者救助、異常存在の判別に動くはずでした」
烏丸局長の言葉は淡々としている。
まるで、すでに終わった会議の議事録を読み上げているみたいに。
「しかし、当時の我々は、十分に機能していなかった」
暁灯くんの横顔が、わずかに強張った。
「理由が何か、ご存知ですか?」
わからない。
ふと、隣を見る。
暁灯くんの顔は、死人のように白かった。
「宵町暁灯さん。あなたは、よく知っているでしょう」
烏丸局長が、静かに微笑む。
空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
「神性呪物拾弐號。夏王朝の妖狐。白の仮面で誘うもの。九尾の狐。陰陽寮の霊的防衛体制において、長年、中核的な役割を担っていた高濃度霊力媒体です」
「……千歳だ」
暁灯くんが、ひび割れだらけの声でそう言った。
「あいつの名前は、千歳だ。拾弐號と呼ぶな」
烏丸局長は、一拍だけ沈黙した。
それから、困った子供を見るような目で、柔和に笑う。
「まあ、いいでしょう。今日は部外者の方もおられる。千歳と呼びましょうか」
烏丸局長が、あっさりと首肯した。
そのさまは、千歳ちゃんを一人の少女として認めたのではなく、話を進めるためにラベルを貼り替えただけのようだった。
千歳ちゃんという少女がいて、笑って、ゲームをして、私のことを見て目を輝かせて、興奮しすぎて倒れて、それでも嬉しそうに笑っていたことなんて。
彼にとっては、どうでもいいことなのだ。
「ご存知ですかな。あれの耳は、人の形を持たぬモノたちの『声』を拾う。我々陰陽寮の誇る霊的観測網とは——突き詰めれば、あの狐の耳のことだったのです」
烏丸局長は、手元の書類を一枚めくった。
「千歳の喪失により、陰陽寮の霊的観測網は著しく精度を落としました。特に、突発的な異界化現象——ダンジョン災害への初動対応能力は、大きく毀損した」
「結果として、初期被災者の多くは、十分な避難誘導も、霊的封鎖も、危険度判定も受けられないまま、自力で生き延びるしかなかった」
煙草の灰が、灰皿に落ちる。
そこで、烏丸局長が私を見た。
「姫岸咲希さん。あなたも、その一人です」
音が消えた。
自動販売機の稼働音も。
遠くで聞こえる施設スタッフの声も。
烏丸局長の吐く煙の気配も。
全部が遠くなって、代わりに、別の音が戻ってくる。
——悲鳴。騒音。嗚咽。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
コンビニの一角。どこにでもある、お菓子売り場。
そこは、見慣れた場所だったはずだ。
床。壁。照明。色とりどりの陳列。窓の外の景色。
当たり前にそこにあったはずのものが、またたく間に別のものへ変わっていた。
壁は、湿った石になっていた。
床には、黒い蔦のようなものが這っていた。
明かりは消え、代わりに、苔のようなものが青白く光っていた。
誰かが叫んだ。
誰かが転んだ。
誰かが、助けて、と泣いた。
私は何も分からなかった。
ダンジョンなんて言葉も、まだ知らなかった。
スキルも、クラスも、レベルも、何一つ分からなかった。
ただ、分かったことが一つだけあった。
このままだと、みんな死ぬ。
見たこともない怪物がいた。
人ではない。獣でもない。
けれど、明確な殺意を持って、こちらへ向かってきていた。
足が震えていた。
逃げたかった。
誰かに助けてほしかった。
誰か大人が来て、何とかしてくれると思いたかった。
でも、誰も来なかった。
……だから、前に出た。
どうして前に出られたのかなんて、今でも分からない。
怖くなかったわけじゃない。
自信があったわけでもない。
勇気があったのかどうかも、分からない。
ただ、私の後ろに、人がいた。
動けない人がいた。
泣いている人がいた。
私より小さな子がいた。
だから、前に出た。
仕方なく、前に出るしかなかったのだ。
その瞬間、頭の中に声が響いた。
【適性を確認しました】
無機質な声。
感情のない声。
【クラス:聖騎士を付与します】
手の中に、盾が現れた。剣が現れた。
私は何も分からないまま、その剣と盾を構えた。
守らなくてはならない。
誰も来ないなら。
誰も助けてくれないなら。
私が、ここにいる人たちを守るしかない。
そうして私は、聖騎士になった。
「——っ」
呼吸が戻った。
ベタつく喉が、吐き気を訴える。
私は自販機の横に立っていた。
手には、飲みかけのペットボトル。
目の前には、烏丸局長。
隣には、暁灯くん。
けれど、足の裏にはまだ、あの日の石床の冷たさが残っていた。
「あなたは、立派でした」
烏丸局長が言った。
「最初期のダンジョン災害において、姫岸咲希さんは多数の被災者を守り抜いた。その後も探索者として前線に立ち、日本におけるダンジョン探索の象徴となった。まことに、称賛すべきことです」
褒められている。
なのに、背筋が冷たかった。
彼が、何を言っているのか、何を言わんとしているのか、理解できたから。
「ですが、考えたことはありませんか」
烏丸局長の声が、少しだけ低くなる。
「あの日、なぜ助けが来なかったのか」
胸が、ぎゅっと縮んだ。
「なぜ、あなたのような少女が、何も分からないまま前に立つしかなかったのか」
「やめろ」
暁灯くんが言った。
その声は静かだった。
けれど、今まで聞いたどの声よりも硬かった。
「……やめてくれ」
「私は事実を述べているだけですよ」
暁灯くんの懇願を、烏丸局長は穏やかに返した。
「ダンジョン災害は、宵町暁灯さん、あなたが起こしたものではない。そこは認めましょう」
煙が、白く流れる。
「ですが、あなたはその混乱を利用した。陰陽寮が、国が、人々が、誰もが混乱する中で、神性呪物拾弐號を連れ出した」
暁灯くんは、何も訂正しなかった。
「あなたは、神性呪物拾弐號を連れて逃げた。その結果、陰陽寮の初期対応は乱れた。霊的観測網は精度を落とし、封鎖班は再編を余儀なくされ、情報共有は遅れた」
烏丸局長が、私を見る。
「その遅れの中で、姫岸咲希さんは聖騎士として覚醒した。誰も来ない場所で、人々を守るしかなかった」
違う。
違うと言いたかった。
暁灯くんが、私をあの日に放り込んだわけじゃない。
ダンジョンを生んだのは暁灯くんじゃない。
怪物をけしかけたのも、彼じゃない。
そんなことは、分かっている。
でも。
あの日、誰も来なかった理由の一つに。
私が一人で立つしかなかった理由の一つに。
暁灯くんの選択があったのだとしたら。
私は、何を思えばいいんだろう。
「暁灯くんは、知っていたの?」
「……知っていた」
暁灯くんは、逃げなかった。
胸の奥が、少しだけ淀む。
「……咲希さんの日常が、俺のせいで壊れたのは分かっていた。だから、せめて危ないときに助けられるよう、ずっと見ていたんだ。……同じ学校に編入したのも、そのためだ」
アビス・ストーカーに襲われて、私たちが死にかけていた、あの時。
だから、暁灯くんがそこにいたんだ。
「せめて、それくらいはしなきゃいけないと思った。助けて、記憶を消して、そしてまた距離を取るつもりだった」
「……でも、そうならなかった」
私が呟くと、暁灯くんは小さく頷いた。
「咲希さんが、追ってきてくれたから」
責めるような声ではなかった。
むしろ、ずっと胸の奥にしまっていたものを、ようやく取り出すような声だった。
「記憶を消そうとしても、忘れなかった。学校で俺を問い詰めて、ダンジョンにまでついてきた。千歳に会って、真白と話して、俺たちを守ろうとさえした」
暁灯くんの視線が、わずかに落ちる。
「そのたびに、言わなきゃいけないと思っていたんだ」
「……」
「謝らなきゃいけないと思っていた。君に、ずっと」
暁灯くんは、そこで初めて言葉に詰まった。
言えなかった理由があるのだと、分かった。
暁灯くんは、その言えなかった理由を、今度こそ口にしようとしていた。
暁灯くんが、ゆっくりと息を吸う。
「咲希さん。俺は——」
その時だった。
「青春ですね」
烏丸局長が、静かに介入した。
「互いに傷つき、言葉を探し、届かない想いに手を伸ばす。まことに、清く美しい。これこそが、青春というものでしょう」
彼は、コートのボタンを外していた。
左の合わせを、ゆっくりと開く。そこにあったのは、想像以上の痩躯と、小さな鳥籠だった。
ぞわり、と空気が変わる。
背筋に氷を入れられたかのように、体中に震えが走る。
鳥籠の中には、止まり木の代わりに、小さな木箱が浮いていた。
古びた、黒檀の箱。
表面には、何重にも護符が貼られている。
「ですが、青春とは青く苦いもの」
烏丸局長が、箱の蓋に指をかける。
「届かぬ想いに挫折してこそ、大人への糧となるのです」
「烏丸……!」
暁灯くんが札に手を伸ばす。
だが、遅かった。
「——さあ、願いを聞きなさい、【猿の手の手以外】」
護符がはがれ、箱が開く。
干からびた何か。
小さな、木乃伊。
両腕を欠損した、形を持った呪い。
それを見た瞬間、胸の奥にあった言葉が止まった。
暁灯くんに聞きたいことがあった。
怒りたいことがあった。
言ってほしいことがあった。
自分でも分からない感情を、どうにか言葉にしたかった。
なのに。
全て忘れてしまったかのように、ただ不安だけが、そこにあった。
「……何、これ」
私は、胸を押さえた。
苦しいわけではない。痛いわけでもない。
むしろ、何もなかった。
心の奥で伸ばそうとした手が、何か柔らかい泥に沈んでいくようだった。
「……神性呪物、捌號」
暁灯くんが、辛うじて声を出した。
神性呪物。千歳ちゃんと同じ、国が管理する異常存在。
「【猿の手の手以外】は、願いを叶えません。願いを、停滞させる反願望器です」
鳥籠の中で、干からびた木乃伊が、ゆらりと揺れた気がした。
「叶うはずの願い。届くはずの想い。出るはずの答え。それらを、ただ、そこに留める」
「あなた方は、結論には到達できない」
胸の泥が、また一段、深くなった。
「互いを責めることも、赦すことも、信じることも、拒むこともできない。答えを出す直前で、ただ足踏みを続ける」
「さあ、好きなだけ悩んでください。悩むことは、若人の特権です」
「その間のダンジョン管理は、我々陰陽寮が行わせていただきましょう」
型月チルドレンなので、こういうのが好きです。大好きです。
でもこの時期にコート着てんのは流石に暑そうが過ぎるな……




