11:嗤う影と、失われた声
真白さんの身体が、右肩から左腰にかけて裂けていた。
斜めに分かれた身体が互い違いに崩れ落ち、一拍を置いて血が吹き出る。
真っ赤な血だ。それが、馬鹿みたいに吹き出ている。
何が起きたのか、最初は分からなかった。
真白さんの右肩が、そこにある。
左腰も、そこにある。
そのどちらも、確かに真白さんの身体の一部のはずなのに。
なのに、その間だけが、ありえないほど遠かった。
喉がひゅうと鳴る。
指先から血の気が引いて、盾を取り落としそうになる。
「——ま、真白さん!?」
息を吸い、無理やり意識を引き戻す。
今、私にできることは一つしかない。
跪き、スキルを発動させる。
《聖女の献身》。
術者のMPとHPを代償に、味方全体を絶対防御と超回復で包み込む、聖騎士の奥義。
「危ないッ!」
スキルが形を取る直前、視界が跳ねた。
暁灯くんが、私を抱いて跳んでいた。
組んでいた手がほどけ、胸元に集まりかけていた黄金の光が霧散する。祈りの姿勢を崩したことで、《聖女の献身》の発動がキャンセルされた。
次の瞬間、私がいた場所に、黒い触手が数本、深々と突き刺さった。
石床が砕ける。破片が頬を掠める。
もし暁灯くんが引き剥がしてくれなかったら、私は祈りの姿勢のまま、串刺しになっていた。
「ギ、ギ、ギェゲェギェ……」
そこに至ってようやく、黒い影は嘲るような嗤い声を上げた。
黒い影。
輪郭の定まらない、不定形の身体。
鎌にも、触手にも、牙にも見える無数の突起。
見間違えるはずがない。
アビス・ストーカー。
私たちのパーティを壊滅させた、あの悪夢がそこにいた。
「回復スキルを使うのに、数秒掛かる! 再始動するから、少しだけ時間を稼いで!」
暁灯くんは私を抱えたまま、アビス・ストーカーから距離を取る。
その視線は、真白さんへは向いていなかった。
「そのスキルは、死んだ人間の蘇生もできるのか?」
「それは、分からない……まだ、人が死んでから使ったことはないから……」
「なら、温存しておいた方がいい」
「でも、真白さんが!」
「あの真白は、もう死んでる」
息が止まった。
何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。
真白さんが死んだ。
それを、暁灯くんはまるで装備が壊れたみたいに告げた。
冷たい声だった。
けれど、その横顔は、何も感じていない人のものではなかった。
「咲希さんの回復は、まだ必要になる。ここで無駄撃ちしない方がいい」
「無駄って——」
言い返そうとした瞬間、アビス・ストーカーが揺れた。
影が薄く広がる。床へ、壁へ、天井へ。黒い染みのように広がったそれが、一斉に触手となって跳ね上がる。
「悪い! 防御頼む!」
「《聖盾顕現》っ!」
暁灯くんに抱えられたまま、大盾を掲げる。
展開された概念的な聖盾が黒い触手を弾き、防ぎきれなかった衝撃だけが身体を打つ。
追撃の触手を二度、三度と躱したところで、暁灯くんが私を床へ下ろす。
「立てるか?」
「は、はいっ!」
足元は少しふらついた。
けれど、大盾を握る手は緩めない。
真白さんが倒れている。
血臭が、死の気配を帯びて鼻腔を叩く。
さっきまで軽口を叩いて、私をからかって、当たり前みたいに隣で戦っていた人が、もういない。
考えるな。
今は、泣く場面じゃない。
あの人を斬った影を、暁灯くんにまで届かせる場面でもない。
アビス・ストーカーの影が床を滑り、暁灯くんの背後へ回り込む。
正面から来る気はないらしい。
本当に、嫌な敵だ。
「後ろ、止めます!」
聖盾を一枚、暁灯くんの背後へ滑り込ませる。
黒い触手が光盾に弾かれ、火花のような黒い飛沫を散らした。
その一瞬で、暁灯くんが懐から何かを取り出した。
銃だ。
短く切り揃えられた銃身。
横に二列並んだ、大きな銃口。
水平二連の、ソードオフ・ショットガン。
陰陽師の武装としては、あまりにも異質なもの。
間髪入れず、引き金が引かれた。
轟音。
銃口から、蒼い光跡が走る。
それは散弾のように広がらず、一本の線となってアビス・ストーカーへ向かった。
当たる。
そう思った瞬間、黒い影の胴が割れた。
弾丸が当たったからではない。
自ら割れたのだ。
人間なら即死する。
獣でもありえない。
生き物の構造を無視した、悪夢みたいな動き。
蒼い光跡は、その裂け目を抜けて、背後の壁へ突き刺さった。
「ギ……ギギ、ギィ……」
アビス・ストーカーが嗤う。
外れた。
そう言っているのだと、分かった。
「楽しそうじゃない。私も混ぜてよ」
聞き覚えのある声。
——失われたはずの声。
それが何を指すかを考える間もなく、銀の煌めきが空間を縦に割った。
それは、鋭い斬撃だった。
刃の軌跡が天から落ち、アビス・ストーカーの肩口に突き刺さる。
「ギ——ッ!?」
肩口から深く斬り込まれたアビス・ストーカーが、苦痛に呻く。
まるで嫌がるかのように、触手を振り回すアビス・ストーカー。
だが、銀の軌跡が壁や天井を跳ねるたび、伸びた触手が次々と斬り落とされていく。
そこでようやく、私は軌跡の正体を認識した。
狐だ。
全長三メートルはあるだろう、銀毛の狐。
しなやかな胴体に、鋭い四肢。二本の尾を翻すたび、毛並みがダンジョンの薄暗い光を受けて淡く輝く。
その口には、長巻が咥えられていた。
真白さんの得物だ。
人の手で扱うには大きく、長すぎる柄。
けれど、巨大な銀狐が牙で噛み締め、全身をしならせて振るうには、あまりにも自然な形に見えた。
発作的に、その名前が口から出た。
「真白さん!」
返事の代わりに、銀狐がちらりとこちらを見た。
口には長巻を咥えたまま。それなのに、笑ったように見えた。
「ギィ、ア、アアアアア——ッ!」
次の瞬間、アビス・ストーカーが絶叫するように身を震わせた。
黒い影が爆ぜる。
反射的に盾を掲げ、身構える。
だが、衝撃は来なかった。
さっきまで私たちを狩る側だった影が、初めて身を縮める。
形を保てなくなった黒い肉体が、染みのように床へ崩れ、ダンジョンの奥へ逃げようとする。
だが。
「前回は、要救助者がいた」
暁灯くんの声が落ちる。
彼は既に札を放っていた。
一枚ではない。床に、壁に、天井に。
蒼い札が、アビス・ストーカーの逃走経路を塞ぐように突き刺さっている。
黒い影が壁へ触れた瞬間、蒼炎が弾けた。
「ギィッ!?」
アビス・ストーカーが弾き返される。
「今回は、仲間しかいないんだ」
長巻を咥えた銀狐が、黒い影の退路を塞ぐように跳んだ。
私も、改めて盾を構え直す。
そして、暁灯くんが新たな札を手に取った。
「逃しはしないさ」
ようやく、逃げ場はないと理解したのだろう。
分散していた黒い影が、一点に集まる。
アビス・ストーカーは、もはや嗤っていなかった。
「ギ、ギギギャァァッッッ!」
叫び声とともに、黒い影が膨れ上がる。
それは影ではない。
物理的な圧力を持った黒い肉が、内側から弾けた。
触手が束になり、鎌がいくつも生え、牙のような突起が全方位へ向く。
逃げるためではない。
攻撃するためでもない。
全部を、まとめて押し潰すつもりだ。
「咲希さん!」
「任せて!」
私は前に出た。
大盾を床へ突き刺す。
《聖盾顕現》、《聖域展開》、《不退の誓い》。
四枚、五枚、六枚。展開できるだけの聖盾を、正面に重ねる。
その後ろで、私自身の大盾も、最後の障壁として掲げる。
黒い津波が来た。
「っ——!」
重い。
触手でも、鎌でも、牙でもない、ただの質量。
悪意を塊にして、こちらへ叩きつけてくるような圧力。
盾が軋む。
一枚、二枚、展開した聖盾が砕ける。
それでも、退けない。退かない。
私の後ろで、暁灯くんが術式を練っているのが分かったから。
「ら、あああああッ!」
大盾を押し込む。
足元の石床が割れる。
腕の感覚はもうない。
肺と心臓がまとめて潰れそうになる。
それでも、黒い津波の進みは止まった。
「咲希さん、助かったよ」
暁灯くんが、指の間に札を挟む。
それだけで、周囲の空気が変わった。
「東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武。四方を鎮め、八方を閉じろ!」
暁灯くんの札が、床と壁と天井に突き刺さる。
蒼い線が走り、アビス・ストーカーを中心に四角い陣を描いた。
「亦た三天洞の教主より、暁月を頂戴する。其は闇を照らし、明日を開かんことを!」
黒い津波が震える。しかし、私の盾はアビス・ストーカーを陣の中に押し留める。
暁灯くんが、その手に持った短刀を投じた。
眩く光るそれは私の障壁を、暁灯くんの陣を、何事もなかったかのように通り抜け、黒い影の中心に突き刺さった。
その奥で、暁灯くんの瞳が金色に光る。
「急急如律令——『四神封界・南天焦星』ッ!」
——宙天に、星が生まれた。
蒼白色に輝く、灼熱の恒星。
それは瞬きの間に膨れ上がり、結界の内側だけを昼へ変えた。
光ではない。熱だ。
黒い影の表面が泡立ち、声を上げるより早く蒸発する。
一瞬で焼き尽くされたアビス・ストーカーは、跡に塵すら残さなかった。
——————
「お、終わったぁ……!」
暁灯くんの陣が解けてからも、十五秒の間、残った聖盾と聖域を維持する。
それでも、そこが限界だった。
MPはすっからかん、身体中が痛みを訴える、眩暈も酷く、倒れ込む——
その直前で、銀狐が私の下に滑り込んだ。
やっわらか! もっふもふぅ!
先程までアビス・ストーカーと高速で斬った張ったをしていたのが信じられないような天然のクッションに身体が包まれて、思わず破顔する。
人を駄目にするお狐様!
「咲希ちゃん、しばらくぶりだねえ」
銀狐から聞こえた声も口調も、よくよく知っているものだった。
「やたらでっかい狐だけど、やっぱり真白さん!?」
「そそ。正真正銘、真白さんだよ。まあ、今はちょっと着替えたけどねえ」
「着替えたどころじゃないですよ!? え、すごい、ほんとに真白さんなんですか!? 無事だったんですね!?」
「無事無事。さっき斬られた方は、まあ、人の世に出るための形みたいなものだから。血も出るし、痛みもあるし、死ぬ時は死んじゃうけどね」
銀狐が、長巻を咥えたまま器用に肩をすくめるような仕草をした。いや、狐が肩をすくめたように見えるってなんだろう。
「真白は人間じゃない、管狐なんだ」
暁灯くんが、口を開く。
「人間じゃないってのは、もう思う存分に実感しましたが……管狐?」
「ああ、竹筒の中に住まう、狐の使い魔だ。……うちの管狐は、ショットガンのショットシェルの中に住んでいるんだがな」
暁灯くんがそう言って、ソードオフ・ショットガンを掲げてみせる。
なるほど、あの時、アビス・ストーカーに避けられた銃弾か。
「一戦闘につき、一度限りの大技だ。真白を撃ち出して、直撃すればそこから顕現、外しても、視界の外から奇襲できる」
「え、えげつない……」
ともかく、真白さんは生きていた。
その事実だけで、胸の奥に詰まっていたものが一気に抜ける。
「よかった……本当に、よかった……」
「いやあ、そこまで心配してもらえると、ちょっと照れるねえ」
「しますよ! 真っ二つだったんですよ!?」
「それはまあ、派手だったね。私の死に方でもかなりハードな方だったよ」
「そういう問題ですか!?」
ひとしきり安堵して——そこで、ふと気づいた。
「……ところで、暁灯くん?」
私は、ジト目を作って彼を見上げた。
「真白さんが死んでないって、最初から知ってたよね。『あの真白は、もう死んでる』って言い方、ものすごく紛らわしかったんですけど!? 私、本気で……本気で、駄目かと思ったんだから」
最後だけ、少し声が震えた。
暁灯くんが、目を伏せる。
「……すまない。だが、あの場では言えなかった。敵の前で『本体は無事だ』と口にすれば、切り札ごと読まれる。アビス・ストーカーは、それを理解する程度には賢かった」
「うっ…… それは、確かに、そうだけど」
「それでも、だ」
暁灯くんは、律儀に続けた。
「昨日、真白に言われたばかりだからな。戦闘が終わったら、真っ先に説明すると決めていた。——遅くなって、すまなかった」
「説教の効果、ちゃんと一日もってるねえ」
真白さんが、もふもふの身体を揺らして笑う。
……まったく。理屈が通っているのが、余計に憎たらしい。
言いながら、私は銀狐の背中に沈み込んでいた。
駄目だ。起き上がれない。
もふもふが強すぎる。
人を駄目にするお狐様は比喩ではない。
黒い線が跳ねた。
暁灯くんの胸元へ。
細い。
速い。
錐のように尖ったそれが、床の石目から弾丸みたいに飛び出した。
私は、その黒色を知っていた。
忘れるはずもなかった。
——アビス・ストーカー。
私の盾は下りている。
真白さんは、私を受け止めている。
今からでは、間に合わない。
気がついた時には、全てが終わっていた。
「《ヘイスト》」
ただ、暁灯くんの声だけが、響く。
甲高い破裂音。
次いで、土埃が舞う。
「……なるほど、凄いな、ダンジョンスキルってやつは」
——土埃が収まった後。
そこには、一本の線のように尖ったアビス・ストーカーを、二本の指で摘んだ暁灯くんが立っていた。
管狐と薬莢の組み合わせはいいですよね。
デジモンも、そうだそうだと言っています。
えっ、薬莢で殴るの!? それは聞いてない……
本日もおまけの断章があります。
真白回です。
どうぞよろしくぅ。




