ルナティック=リバース 第二話 〜変化〜
どれだけの時間が経ったのかわからない。ずっと泣いていた。
ようやく幸せな家庭を手に入れたと思ったのに、最悪の形で壊れてしまった。お母さんは無事だろうか……?
白髭の男の態度は、僕とお母さんとでは明らかに違った。無事でいてほしい——そう願うしかない。
それにしても、この木の箱はまったく開かない。
内側には呪文のようなものが書かれている。
意味があるのかもしれないが、今はそれどころじゃない。
このまま誰にも見つからず、この白い棺桶の中で朽ちていくのか……?
頭の中にさまざまな絶望が渦巻く中——
ボコン!!
——それは、突然訪れた。
木箱が内側から弾け飛ぶように崩壊した。あのクソ白髭、時間経過で壊れるように細工していたのか!
「沈む! 溺れる!」
予期せぬ浸水に、肺が焼けるように苦しくなる。
——ああ、やっぱり、死ぬんだ。
そう諦めかけた、その瞬間だった。
ガッ!! ゴオオッ!!
「!? 痛い——痛い!!」
凄まじい衝撃。噛まれている!
横を見ると——サメだ。サメが僕の脇腹を咥え、猛烈な勢いで深海へと泳いでいる。
しかし、サメは突然動きを止め、僕を放り出した。
獲物を仕留める体勢に入ったのだ。
ガブッ!!
「あああ!!」
右脚を食われた。膝から下がない。
痛い——なんてものじゃない。熱い鉄棒を突き刺されたような、悍ましい激痛。
抗う術などない。このまま、生きたまま食い尽くされる。
ガブッ!!
「ぐあああ!!」
次は右腕をもぎ取られた。
激痛と出血多量で、視界が急速に狭まっていく。
……短い人生だったな。
意識が混濁する中。
耳元で、無機質な声が響いた。
脳裏に、うっすらと光る文字が浮かび上がる——
【リカヴァー(治癒)】
【バイト(咬壊)】
【スウィム(速泳)】
【ブリーズ(呼吸)】
文字をなぞるように、僕は微かに動く口でその名を呼んだ。
「リカヴァー……! ブリーズ……!!」
その瞬間、全身に雷が走ったような衝撃が突き抜けた。
湧き出るように、力が溢れる。
「あああああ!!」
右脚と右腕が、肉を盛り上げながら再生していく。
水中なのに息ができる。寒くない。
サメは、食べ終えたはずの手足が復活したことに驚いたのか、その場に止まり躊躇している。
——今度は、僕の番だ。
僕は一気に泳ぎ出した。
「スウィム!」
水の抵抗を無視した驚異的な加速。
僕はサメの懐へと突き進み、叫んだ。
「バイト!!」
その瞬間、僕の視界を覆い尽くすほどの、巨大な光の「顎」が出現した。
——ザンッ!!
僕よりはるかに巨大だったサメの上半身は、その「顎」に一飲みにされ、咀嚼する間もなく消失した。
残された尾だけが、断面から鮮血を撒き散らしながら海底へ落ちていく。
「はあ……はあ……やった……」
喜びよりも先に、深い安堵が込み上げた。
ふと見ると、また新たな文字が浮んでいる。
【コンフォート(適応)】
【ナイト=ヴィジョン(暗視)】
冷たいはずの海が温かく感じ、真っ暗なはずの深海が隅々まで見通せる。
僕は初めて、この新しい世界の景色をゆっくりと見渡した。
色とりどりの魚。サンゴ、イソギンチャク。
差し込む陽の光——まるで幻想だ。
寝たきりだった頃、モニター越しに憧れていた景色が、今、目の前にある。
「綺麗だ……」
誰かの撮った映像じゃない。僕が今、僕の目で、実際に体験している。
海の中だから分からないけれど、僕はきっと、泣いていた。
さて——何をしよう。
まずは、休める場所が必要だ。
しばらく泳ぐと、巨大な岩壁を見つけた。
その下には砂地が広がっている。
僕は閃いた。
「バイト!」
ガボン!!
岩壁を「顎」で削り取った。
不思議と、岩の味はしない。だが、以前ネットで見た、カルシウムを求めて壁を舐める猿の話を思い出した。
身体が、この岩に含まれる成分を「栄養」として取り込んでいる確かな感覚がある。
入り口に手頃な岩を並べ、床には柔らかな砂を敷いた。
僕だけの、最初の「秘密基地」の完成だ。
横になった途端、泥のような眠気が襲ってきた。
あまりにも、いろんなことがありすぎた。
探索は明日にしよう。今日はもう、休もう……。
おやすみなさい。
……うっ……うっ……。
お母さん……。




