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記録10 神格生成試験環境③



 高度一万二千メートル。何かがそっと頬を撫でた。


 衣服の裾が揺れ、髪が揺れる。それまで存在しなかったはずの空気が、ゆっくりと身体にまとわりつき始めていた。


 同時に、低く籠った音が響き始める。地鳴りか、あるいは遠くの雷鳴か。その正体は落下する人間たちの悲鳴が合わさり、大きなうねりとなったものだった。この世界に欠けていた音が少しずつ輪郭を持ち始めていた。


 落ちている。風を感じ、音を聞き、見ている光景と体感が一致していくことで、とてつもない高さから落下しているということをAは再認識した。そして、その速度についても。


 落下開始から約四十秒、高度二万メートルからの落下と仮定すると、その速度は理論値でおよそ時速千四百キロメートル。一秒で四百メートルほど落下する計算となる。この高さ、この速度。待っているのは絶対的な死。誰もが正気を保てるような状況ではない。この少年を除いては。


「来た! 揺れるよ!」


 少年が声をあげた瞬間、風が爆発して衝撃が全身を叩いた。体が大きく持ち上がり、視界が回転する。Aの防衛スキルがここに来て起動するが、大きく崩れた体勢までは制御できない。半ばパニックになりかけたAの両手を少年が引くと、二人の体は同時に横を向いた。


 ベリー・トゥ・アース。地面へ腹を向ける落下姿勢。


 空気抵抗によって少年とAの落下速度が減衰する。瓦礫が、人間が、ガラス片が、次々と二人を追い抜いていく。先ほどまで連れ添うように同じ速度で落下していたはずの全てが下方へ流れていく。そしてその先には、落とし穴の底に並ぶ杭のように見えていた超高層ビル群が目前にまで迫っていた。


 遠くから見た時よりも遥かに巨大だった。ガラス。鉄骨。広告塔。無数の窓。それらが視界いっぱいに広がっている。しかし距離感だけは奇妙だった。ビル同士の間隔は数百メートル、場所によっては数キロ近く離れているであろう。それでも巨大すぎる建築物同士が近接しているように見えてしまう。


 Aと少年はその超高層ビル群の“谷間”へと落下していった。


 谷間ではビルが次々と崩壊していた。世界最高到達点を目指したであろう超々高層タワー。その残骸が続々と上空から降り注ぎ、他のビルを押し潰している。巻き込まれた人々が窓から、屋上から、崩壊したフロアから次々と空中へ投げ出されていた。轟音と風切り音に混ざって、悲鳴の大合唱が空間に響き渡る。


「Aちゃん、そろそろだよ!」


 少年はこの光景を前にしても調子が変わらない。そして少年の言葉の直後、遠方のビルの中腹が吹き飛んだ。続いて別の場所。さらに別の場所。ビル群の隙間を小さな光点が飛び回っている。あれが少年の言っていた戦闘機だろうか。


 そう思った時には、少年の手が離れていた。


「ちょっと行ってくるね! 姿勢はそのままで!」


 次の瞬間にはもういない。少年は落下する人混みの中へ飛び込んでいた。


 向かった先には片腕を失った若い女性がいた。血まみれで、服も破れている。それでも少年は迷わない。女性の手を取り、そのまま抱き寄せ、何かを話しかける。そして頭上に『+3』の文字が浮かんだ。

 そして少年は女性をその場に残し、次の標的へ。少年が向かった先にいたのは、頭から垂直に落下している女性だ。頭部から血を流し、おそらく意識を失っている。それでも少年は構わず同じ姿勢になって飛びつき、その勢いで回転しながらも何かを会話して『+5』を得る。そしてまた、その女性を置き去りにしてどこかへと飛んでいく。


 Aは思わず眉を顰めた。ここまで来ると異常だった。

 少年だけではない。この世界がそもそも異常だ。


 その間にも、超高層ビル群は至るところで崩壊を始めている。いつの間にか火球のように燃えさかる小隕石もビル群に降り注いでおり、轟音と衝撃波を撒き散らしながらビルを砕き、人々を燃やし、進路上の全てを吹き飛ばしていく。後には灼熱の尾が残り、鼻の奥にツンとくるオゾン臭を放つ。


 何かが飛んで、何かが撃って、何かが壊している。それらを一つ一つ識別する意味は既になかった。上空からはタワーやビルの残骸が降り続けている。人間も降り続けている。この空域全体が落下物で埋め尽くされ、さらに密度を増していく。


 少年はその中を飛び回っている。落下しているのは変わらないのだから、飛ぶという表現が正しいのかは分からない。しかし飛んでいるようにしか見えなかった。瓦礫に足を掛け、蹴った反動だけで進路を変える。次は鉄骨。次はガラス片。次は落下する人間。常識では考えられない軌道で空間を移動し続けていた。


 その途中で女性を見つける。血まみれの男性にしがみつき、何かを叫び続けている女性。腹部を失いながらも落下を続ける女性。つい今しがた瓦礫に衝突したばかりの女性。少年は誰であろうと構わず、手を取り、抱き寄せ、何かを話し、数字が出て、離れて次へ向かう。その繰り返し。そこに区別は存在しないように見えた。若い女性、それだけだった。


 少年は隕石の爆風すらも利用した。戦闘機すら踏み台にした。回転し、加速して、方向を自在に変える。そして次の瞬間には別の女性の手を取っている。頭上には『+5』。続いて『+3』。さらに『+5』。少年は確実にそれを集め続けていた。意味は分からなくても、その執着だけは理解できた。


 それでいて、少年は時折Aのすぐ側を経由し、そっと触れてAの体勢や位置を微調整していった。どれほどの効果があるのかは測れないが、実際にAはまだ何にも激突されていない。クリアを目指したプレイではない。Aをエスコートしながらデモンストレーションでもしているつもりなのだろう。


 Aの中では不快感と共に、初めからあった疑問が大きく膨らみつつあった。

 それは『この世界は何のために存在するのか』という問題に収束する。


 この空域には瓦礫や人間以外に、特殊なスキルを持つAにしか見えないものが溢れている。犠牲者たちの身体から分離した、剥き身の魂だ。風や重力の影響を受けないそれらは空中に固定されており、Aはすでにその幾つかに触れている。


 さらに、Aのすぐ横を落下しているスーツ姿の男性。風圧で顔面の肉が波打ち、ジャケットは裏返って万歳のような格好で翻り、ズボンすらも脱げて膝から下に残っている。惨めなほどに風に弄ばれている彼に手を伸ばして触れると、やはり魂が存在した。


 若い女性だけではない、ここにいる全ての人間が魂を持っている可能性が高い。

 そして、魂を持たない少年が、唯一この世界に適応している。

 その彼をもってしても、まだクリアができていない。

 そしてこの世界で何かが破綻している。だから自分がここにいる。

 それはつまり──


 Aの思考が一段進まんとするタイミングで少年が戻ってきた。少年はAのすぐ隣を落下するスーツ姿の男性の肩を踏み台にした。男性の身体が不自然な方向へ折れ曲がりながら吹き飛んでいく。その勢いのまま少年はAの両手を取った。


「Aちゃん、デドラブ楽しんでるぅ!?」


 少年の顔も、ジャージも、全身が血まみれだった。本人のものではないだろう。負傷した女性と接触したことによる返り血だ。だがそんなことはどうでもいいと、Aは必要なことだけを尋ねる。


「どの辺りまで行けそう?」


「もうすぐ噴火した火山の灰がここに流れ込んでくるよ! めっちゃ熱い! 近場のビルに飛び込んで回避するけど、結構これで死んじゃうことが多いかな!」


「そう」


 Aは短く答えると、少年を引き寄せた。


 ぐいと腕を引かれた少年の顔が目の前まで近付く。返り血でひどく汚れている。それなのに、瞳だけがきらきらと輝いている。まるで今から遊びに行く子どものような目だった。この世界のことしか考えていない目だった。


 Aは思い切り少年を蹴飛ばした。


 少年はきらきらと輝く目のまま、ひどく驚いた表情を見せた。そして無言のまま離れていき、落下してきた巨大な瓦礫に挟まれて、ぐちゃぐちゃに潰れた。




 - GAME OVER -




 世界が暗転する。次の瞬間には二人ともタイトル画面に立っていた。

 黒一色の空間に、巨大なタイトル文字だけが浮かんでいる。


 少年は元の状態に戻っている。返り血も、怪我もない。

 Aも同様だった。


 先ほどまで全身を叩いていた風圧は消えている。耳を埋めていた轟音もない。だが静かになったという感覚もなかった。それらが消えたのではなく、最初から存在しなかったことにされたような感覚だった。記憶は残るが、プレイヤーの死亡で身体の状態がリセットされるというAの見立ては正しかった。


「Aちゃん、なんであんな事したんだよ」


 特に怒っているわけでも、困惑している様子でもない。いつもの軽い調子で少年はAに歩み寄りながら尋ねた。Aは両手を広げ接近を制しながら答える。


「もう十分かなって」


「いや、確かに今回はAちゃんにゲームを見てもらうのを優先したからベストなプレイじゃなかったよ? ナンパもかなりすっ飛ばしたし。でも乱数自体は悪くなかったから、多分もうちょっと先には行けたと思うんだけどなぁ」


 Aは小さくため息をついた。やはり、少年の頭にはこのゲームのことしかない。だが、それが少年自身の問題ではないこともAは理解していた。


「私があなたより先に死んだ場合、こうして戻って来れる保証はないよね?」


「え? どうだろう? 試してみないと確かに分からないかも」


「あ、もうゲームはしないから。勝手にスタートしないでね?」


 気がつけば、またしても少年はAの目の前にまで詰めてきている。こういった行動も、今なら理解ができてしまう。これはゲームの“後遺症”だ。


「いや、一回本気のプレイを見てほしいんだよ!」


「絶対やめてね、殺すよ?」


「え、怖っ! Aちゃん急にどうしたの!」


 安全に業務を進めるために、Aなりにあえて強い言葉を選んだ。

 ただしそれは、本気だった。


「ゲームはもういい。この世界のことが少し見えてきたから、ここからはお話しで進めよう。色々聞かせて」



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