記録10 神格生成試験環境②
地面の感覚が消えると同時に、身体の重さが消えた。
湧き上がる強烈な浮遊感と、内臓が逆流するかのようなおぞましい不快感。無意識に地面を求めて踏み出された足が虚しく空を切ると、思考よりも先に本能が異常を察知して警鐘を鳴らし始める。つま先から頭のてっぺんにまで悪寒が一気に駆け上がってくると、Aと名乗った少女は思わず「ぅあ」と彼女なりの悲鳴をあげた。
落下アクションであるという事前知識を持っていたとしても、実際に“落ちた”と理解できるまでには時間を要する。肌や衣服に感じるであろうはずの空気抵抗がほとんど無いことも関係した。視覚情報も足りていない。見えるものは先ほどまでと変わらない黒一色の世界と、目の前の少年だけだった。その少年はというと、あまりにも変わらない表情でどこかを見ている。
「Aちゃん、周りを見て」
ひどく籠った声だった。少年はそう言うなり、握り合った手を一瞬だけ離して、Aの肩を掴んで百八十度その場でくるりと回すと、そのまま背後から抱きしめるようにして固定した。Aと少年の視界の先には見たこともない光景が広がっていた。
まず目に飛び込んできたのはこれまでと変わらない黒だった。しかし、先程までは存在していなかったものがある。その黒の中には無数の光の粒——星々が散らばる。さらには太陽と思われる恒星だけが異様なほど強い光を放っていた。
そしてその境界線。黒い宇宙と青い空が混じり合った濃紺色の帯が、遥か彼方まで横一線に伸びている。同時に水平線が見えた。世界そのものの輪郭が薄く弧を描きながら地平の果てへ消えていく。
視線は自然と下へ向かう。そこにはいつの間にか、雲の海が広がっていた。まるで世界そのものを覆い隠す蓋のように、分厚い雲の層が地上を隠している。そしてその雲海を貫いて、幾つもの巨大な建築物がこちらへ向かって伸びていた。
Aは一瞬、それを落とし穴の底に並べられた杭のようだと思った。もちろん杭ではない。実際には超高層ビルの群れだ。まだ距離があるためそう見えるだけで、その一本一本が常識外れの高さを持つ建築物であることは容易に想像できた。そして自分たちは、その真上にいる。
「Aちゃん、こっちも」
少年はAを抱えたまま重心を動かし、再びくるりと百八十度回転した。
そこにあったのは、視界を埋め尽くす巨大な壁だった。
直線。正方形。長方形。窓、窓、窓。無数の窓。それらは一つ一つが家屋ほどの大きさを持ち、規則正しく並んで上へ上へと高速で流れていく。あまりにも巨大で視界に収まらない。近いのか、遠いのかすら分からない。人工物であるはずなのに自然の地形を見ているような錯覚すら覚える。
視線を上へ向けても終わりが見えない。下へ向けても雲の中へ消えている。そこでようやくAはそれが壁ではないことを理解した。まるで人類が到達できる限界へ挑むためだけに建造されたような、圧倒的な高さを持つ規格外の超々高層タワー。
その認識とほぼ同時に、更なる異変が目に入った。崩れている。そのタワーは今まさに崩壊していた。外壁が剥がれ落ち、鉄骨が千切れ、ワイヤーが飛び出し、巨大な瓦礫同士が激突して砕け散る。本来であれば耳を塞ぎたくなるような轟音が響いているはずだった。しかしガラスが砕ける音も、鉄骨が軋む音も、崩壊の轟音も聞こえてこない。Aの耳に届くのは、自らの呼吸音と耳鳴りにも似た微かな風の音だけだった。
そして、人がいた。崩れ落ちる外壁や鉄骨に混じり、無数の人間が空中へ放り出されている。男。女。子供。老人。誰も彼もが落下している。
助けを求めている者もいた。誰かにしがみついている者もいた。高速で回転している者もいた。その誰もが口を大きく開き、悲鳴を上げていることだけは分かる。しかし、その声もまた聞こえない。
空気が極端に薄い。成層圏。高度二万メートル前後。
Aはようやく、自分が置かれている状況を理解した。そしてその直後、これまで保留していた一つの疑問が浮上する。
——どうして、この少年は平然としているのだろうか。
「すごいでしょ? でもここはまだ安全だから!」
背後から少年の声が聞こえる。大気密度が低いためその声は籠っていたが、まるで絶景スポットを案内しているかのような軽さが伝わってきた。
安全なものか。Aは反射的にスキルを起動した。重力をキャンセルする効果を持つ『浮遊』スキル。発動は成功している。しかし何も変わらない。落下は止まらない。少なくとも、この落下は重力によって引き起こされている現象ではなく、何か別の原理で再現されていることを示していた。
「お、いた」
声を上げた少年の視線の先には、スーツ姿の女性が瓦礫とともに落下していた。
「ちょっと行ってくる! ここで見てて」
そう言うと少年はAの腹部に回していた手を離し体を大きく捻った。次の瞬間、少年の体はコマのようにスピンして女性の元へとカッ飛んで行った。置き去りにされたAの「おい待て」という制止は届かない。
少年はスーツ姿の女性と激突したかのように見えた。およそ無事では済まないほどの速度で。しかし衝突したはずの二人は何故か互いの手を取り合っていた。恋人繋ぎ。回転しながら。落下しながら。
少年と女性は数秒だけ何かを話したようだったが、当然その内容は聞こえない。そしてその瞬間、少年の頭上に『+3』という発光する文字が現れた。その文字は一瞬だけ表示されるとすぐに消えた。
直後、少年は女性の手を離す。女性はそのまま慣性に従って遠方へ流れていき、少年だけが別方向へ飛び去った。少年の飛んでいく先には、次の標的。今度は私服姿の女性だった。
少年は再び激突するように接近し、気が付けば二人は抱き合うような姿勢で回転していた。そして次の瞬間、女性の平手が少年の頬を打った。だが少年はむしろ嬉しそうに見えた。直後、その頭上に『+5』の文字が浮かぶ。
ビンタと同時に女性の手を離した少年は、更に奥へ向かって飛んでいく。私服の女性もまた慣性に従って別方向へ流されていった。五十メートルほど先、今度は少女だった。Aよりも幼く見える。少年はその少女の両手を取ると、二人揃って縦方向へ高速回転を始めた。落下している。回転している。それでも二人は手を離さない。何かを話している。そして今度は『+2』と数字が浮かぶ。
意味は分からない。規則性も分からない。そもそも何が起きているのかすら分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。少年はこの状況に慣れ過ぎている。相当な回数プレイしていることは明らかだった。
少女の手を離した少年はその回転力を維持したままこちらへ戻ってきた。その進路上を巨大な瓦礫が横切る。一瞬だけ視界が遮られると、少年の姿が消えていた。
見失った。そう思った直後だった。Aの下方から少年が飛び出してくる。何事もなかったかのような顔で。少年はそのまま流れるようにAの両手を取り、再び恋人繋ぎの姿勢になる。そして二人は、何事もなかったかのように直立姿勢のまま落下を続けた。
「どう? だいたい分かった?」
Aは首を横に振った。
「だよね! でも今のは簡単な方だよ。この空域はまだチュートリアルだから」
Aは反射的に周囲を見回した。崩壊する超高層タワー。空中を漂う巨大な瓦礫。数え切れないほどの落下者。どう見ても地獄のようなこの状況をチュートリアルと言い切るこの少年は異常だ。しかも本人にその自覚がない。
「そろそろだ。Aちゃん、あっち」
少年が視線で示した先には星々が広がるだけで、Aには何も見えなかった。
「まだかなり遠いから見えないか!」
少年は楽しそうに笑った。
「あっちに“母船”があるんだよ!」
Aは再び目を凝らしたが、やはりそれらしいものは確認できない。
首を横に振ると、少年は嬉しそうに笑った。
「もう少しすると戦闘機を大量に“産む”んだ、その時になったら分かるよ! あとこっちも見て!」
何が、と聞く前に少年は器用に姿勢を制御してAに別の方向を見せた。水平線の遥か彼方で何かが光り、大地が膨らみ、巨大な噴煙柱が空へ伸びていく。
「火山の噴火!」
少年が言う。説明するというより確認作業に近い口調だった。
「で……こっちも!」
少年は近場の瓦礫に足をかけ、強く踏み抜くことで横方向に二人の体を吹っ飛ばした。吹っ飛びながらAを再び百八十度回し、後ろから抱きしめる。先ほどまで真横にあった超高層タワーが急速に離れていき、ようやくその全貌が見えてくる。
やはりあり得ないほどの大きさだとAが思った時、タワーの背後にそれを遥かに凌ぐほどの『山』が浮かんでいるのが見えた。
「隕石だよ! 見えてるのは一番おっきいやつ! 隕石の本体!」
Aがリアクションすら取れないでいると、タワーの一部が突然砕け始めた。まるで背後から散弾銃で撃ち抜かれたかのように。
「ちっちゃい隕石が先に来るんだ、でも大丈夫!」
外壁が吹き飛び、鉄骨が千切れ、ガラスが砕け散る。さらに数百人、数千人規模の人間が空中へ投げ出される。それらがごちゃ混ぜになり、Aと少年に向かって高速で襲いかかる。
少年は器用に姿勢を変えて全てを回避したかと思われたが、不意に片手を伸ばして何かを捕まえた。それは制服姿の一人の少女だった。Aと同年代か、あるいは少し年上かもしれない。少年は少女をその勢いのまま自身の懐へ引き寄せた。
気が付けば、三人は互いに密着していた。Aと制服姿の少女は肩を密着させ、二人を少年が正面から両手で抱え込んでいた。落下しながら。回転しながら。
少年は少女へ何かを話しかけていた。少女は最初こそ驚いたような表情を見せたが、やがて困ったように笑う。直後、少年の頭上に『+5』の文字が浮かんだ。
次の瞬間、少年は少女を抱く腕を解いて、すかさずその片手首を握り直した。すると三人の位置関係が一気に崩れ、少女が軸になり、少年とAが振り回される。さらに少年がタイミングを合わせて少女の手を離すと、今度は二人の体が弾かれるように別方向へ吹き飛んだ。
少女は人混みと瓦礫の向こうへ。少年とAは超々高層タワーの方向へ。まるで最初から計算していたかのような軌道だった。
「そろそろ本番だからね、元の場所に戻ってきたよ!」
しかしAは返事をしなかった。それどころではなかった。Aが見ているのは少年ではなく、さきほど飛んでいった少女。
もう見えない、見失ってしまった。でも確かに感じた。至近距離で密着したからこそ分かった。Aは先ほどの少女から魂を検知した。
間違いない。
生きていた。
NPCじゃない。
おそらくあの少女だけではない。
この世界の住人には魂がある。
その事実は少年の異常性について考えている余裕を奪うには十分だった。
落下開始から四十秒が経過。高度一万二千メートル。
『本番』が始まる。




