記録09 僕らはきっと分かりあえる③
この街は、僕らを受け入れてくれた。
もちろん最初からではない。どこの街でもそうだったように最初に向けられたのは警戒と好奇の視線だった。それでも僕らがこの街を離れなかったのは、この街には大きなギルドがあって仕事がたくさんあったからだ。そして何より、この街の人たちは僕らを追い出そうとまではしなかった。
最初は荷運びや街道の見回りばかりだった。けれど長く続けていると顔を覚えられるようになった。依頼人の名前を覚え、酒場の店主と世間話をするようになり、気付けば市場で野菜をおまけしてもらえるようになっていた。僕らはもう旅人ではなく、いつの間にかこの街の住人になっていた。
私は見ていた。
人間が増えた。
匂いが増えた。
声が増えた。
あいつは歩くたびに呼び止められていた。
ギルドでの仕事は順調だった。僕の剣はそれなりに上達していたし、テイミングが役に立つ場面もあった。そしてゾイは強い。街道に出る魔物の群れも、盗賊の集団も、僕らにとってはそれほど脅威ではなかった。ギルドの人に頼りにされて依頼を色々こなしていくうちに名前が広まり、報酬も増えた。
お金を貯めて、街を見下ろせる高台にある小さな家を買った。旅をしていた頃は自分が家を持つなんて考えたこともなかった。僕にとって家というのは失うものだったし、帰る場所というのは思い出の中にしか存在しないものだった。
だから最初の夜は不思議な感覚だった。窓を開けると街の灯りが見えた。遠くで誰かが笑っていた。台所には食料があった。庭にはゾイがいた。明日もここに帰ってくるのだと思った。それがすごく嬉しかった。
住処ができた。
庭ができた。
木が植えられた。
私はその下で寝た。
あいつは満足そうだった。
それからさらに長い時間が流れた。
僕は結婚した。旅の途中で出会った誰かではなく、この街で出会った人だった。最初は依頼人で、次に友人になって、その次に恋人になった。
息子も生まれた。最初に抱いた時のことは今でも覚えている。あまりにも小さくて、本当に同じ生き物なのか疑ったくらいだ。
息子はよくゾイに懐いた。僕がやると本気で怒るくせに、息子が腹に乗っても怒らない。耳を引っ張られても、尻尾を掴まれても怒らない。かと思えば、息子が僕の真似をして合図を出してもゾイはほとんど無視した。
でも棒投げ遊びだけは事情が違うようで、途端に息子の合図にも従うようになって、地面を揺らす勢いで大はしゃぎしていた。
小さかった。
柔らかかった。
昔のあいつに少し似ていた。
父さんと母さんを失った夜のことも覚えている。村を出た日のことも覚えている。雨の中で震えながら眠ったことも、腹を空かせて野草をかじったことも覚えている。決して楽な人生ではなかった。
それでも振り返れば悪くなかったと思う。家がある。家族がいる。友人がいる。仕事がある。帰る場所がある。若い頃の僕が見たらきっと羨ましがるだろう。
私は知っていた。
あいつは満たされた。
匂いで分かった。
顔で分かった。
歩き方で分かった。
違和感に気付いたのはそれからしばらく経ってからだ。ゾイは昔ほど走らなくなっていった。庭を歩く時も少し慎重になった。起き上がる時にはおかしな間があったし、たまに脚が不自然な角度に曲がっていることもあった。
怪我はしていない。病気にも見えない。食欲も元気もある。神獣は人よりも遥かに長く生きるはずだから、老化や寿命だとも考えにくい。でも何かがおかしい。
調子が悪いのか、痛いところがあるのかと、聞かずにはいられなかった。
私は何度か立った。
すぐ戻った。
あいつは見ていた。
ある夜、僕は庭でゾイと並んで座っていた。街の灯りが見えた。昔は空き地だった場所にも家が建っている。市場は広くなった。ギルドも建て替えられた。僕が初めてこの街を訪れた時に遊んでいた子供たちは、もう立派な大人になっている。
僕も歳を取った。息子は大きくなった。ゾイだけは変わらないように見えたけど、本当は違ったのかもしれない。
これまでに出会った魔物達を思い出した。生息域から離れ過ぎて環境に馴染めず弱るものがいた。僕が解放すると彼らは去った。おそらくは、あるべき場所で、あるべき姿に戻っていったのだろう。
ゾイにも、そういう人生があるのかもしれない。ずっと隣にいることが当たり前だったけど、もしゾイが他の生き方を望んでいるのなら。もし僕が気付かないうちに何かを我慢させていたのなら。それを知りたいと思った。
私は知っていた。
あいつが何を考えているのか。
昔からそうだった。
合図以外の言葉は分からない。
でも分かった。
だから待った。
ー
それからしばらく考えた。考えた末に、僕は一つの結論に辿り着いた。確かめてみようと。もし、ゾイが本当は自由を望んでいるのなら。その時はその意思を尊重しようと思った。
まだ夜が明ける前。妻も息子も寝ていた。僕は音を立てないように家を出た。冷たい朝の空気が肺に入る。わずかに白み始めた空にはまだ星が残っていた。
庭の木の下で丸くなっていたゾイが片目を開けた。昔ならすぐに飛び起きていたけど、今は違う。ゆっくりと顔を上げる。その動作だけで少し時間がかかる。僕は胸の奥が少しだけ痛んだ。
ちょっと散歩しようかと声をかける。もちろん意味は伝わっていない。それでもゾイは立ち上がった。
僕が歩く。ゾイも歩く。昔から何度も繰り返してきたことだった。
あいつがいた。
だから起きた。
あいつは歩いた。
だから歩いた。
家から少し離れた丘の上で足を止めた。僕の隣には巨大な銀色の体が静かに座っていた。いつからこんなに大きくなったのだろう。思い出せなかった。
私は待った。
あいつは決めたらしい。
昔からそうだった。
だから待った。
「ゾイ」
名前を呼ぶと、ゾイがこちらを見る。
僕はゆっくり手を伸ばして、ゾイの銀色の毛並みに触れる。
少しだけ冷たい。昔より硬くなった気がする。
僕はそのまま額に手を置いた。
私は知っていた。
これは終わらせる時の仕草だ。
あいつは何度もそうしてきた。
ゾイは僕から目を逸らさない。
僕は目を閉じて、心の中で伝えた。
好きに生きていい。お前がそうしたいなら。
私は理解した。
そういう時が来たらしい。
何も起きなかった。
風が吹き、遠くで鳥が鳴いた。街はまだ眠っている。
ゆっくり目を開くと、ゾイはいつも通りにそこにいた。
巨大な銀色の体。二股に分かれた尾。まっすぐな眼差し。静かな呼吸。
何も変わらない。
どうやら考え過ぎだったらしい。自由にしていいと言ったところで、ゾイはゾイだ。どこかへ行くかもしれないと思っていたけど、そうならなかった。
それに、やってみてはっきりとした。少なくともゾイは、他の魔物みたいにテイミングに縛られてはいなかった。ゾイは最初から僕の言うことを聞かされていたわけじゃない。それでもずっと隣にいた。それが嬉しかった。
私は待った。
終わったらしい。
ゾイの額から手を離して、立ち上がった。
もうしばらくすれば妻が起きる。息子も起きる。いつもの朝が始まる。
戻ろう。そう思った時、背後でおかしな音がした。
振り返り、そして言葉を失った。
ゾイが立っていた。
後脚だけで体を支え、前脚だったものを宙へ持ち上げている。
いや、前脚じゃない。腕だ。
筋肉を振るわせ、骨を軋ませ、腕として機能する形へと組み変わっていった。
それがゾイの全身で起きていた。首で、肩で、背骨で、後脚で。
立ち上がったゾイは、あまりに大きかった。
ゾイ自身もその巨大な体をまだ上手く扱えていないみたいで、何度も傾き、何度も踏ん張り、それでも立ち続けていた。歩き始めたばかりの子どもみたいで、目が離せなかった。
長い鼻先。銀色の毛並み。二股の尾。
面影は残っている。けれど、もう犬ではなかった。
最初から、ゾイは犬ではなかったのだ。
私は立った。
四つ足である必要がなくなったからだ。
ゾイはゆっくり一歩を踏み出した。
ぎこちない足取りで、僕の方へ歩いてくる。
病気や怪我のせいではなかった。環境のせいでもなかった。
ゾイは無理をしていたのだ。ずっと。何十年も。僕の隣にいるために。
胸の奥が痛んだ。嬉しさだったのか、申し訳なさだったのか。分からない。
ただ、自分がとても大切な何かを見落としていたことだけは分かった。
私は見ていた。
あいつが喜ぶ顔を。
待てと言う顔を。
座れと言う顔を。
良い子だと言う顔を。
だからそうした。
それだけだった。
ゾイは僕の前で立ち止まった。
朝日が昇り始め、街の輪郭が浮かび上がる。長い影が丘へ伸びる。
僕は泣きそうだった。
その姿を美しいと感じた。そうだったのか、としか言えなかった。
ゾイはどこへも行かなかった。
森へ帰ろうともしない。山を目指そうともしない。ただ僕を見ていた。
私は理解した。
終わるらしい。
私は知っていた。
終わるのであれば。
終わらせなければならない。
それが私だからだ。
私は見ていた。
あいつはまだ分からないらしい。
分かるはずだ。
人間はすぐ忘れる。
すぐ間違える。
すぐ転ぶ。
でも。
あいつは最後には理解する。
昔からそうだった。
だから待った。
僕はその視線から目を逸らせなかった。ゾイは何かを伝えようとしていた。
待っている。僕を。理解するまで。
ゾイはゆっくり口を開いてみせた。鋭い牙が並ぶ。
ずっと見てきたはずなのに、見たことのない顔だった。
そして、僕はようやく納得した。
そうか。ゾイがそうしたいのなら、それがゾイなのだろう。
自由にしていいと言ったのは僕だ。だったら受け入れなければならない。
僕は腰の剣を抜いた。もう何年も本気では振っていない剣だった。
朝日が丘を照らした。街はまだ静かだった。
僕は剣を握り直した。
ー
あぁ。
やっぱり。
ゾイは強いなぁ。
ー
気付いた時には終わっていた。
ゾイの大きな両手が僕を捉え、その鼻先まで持ち上げられていた。
胸にも、腹にも、背中にも、その巨大な爪が深々と刺さっていた。
それ以外にも、千切れたり、折れてたり。体の感覚はほとんど残っていない。
どうにか剣は握ったままだったけど、落とさないので精一杯だった。
そんな状態にしておきながら、ゾイはすぐには噛もうとしなかった。
まるで小さい生き物を優しく抱き上げるようにして。
いつもとは少し違う、いつもの顔で、ただ見ていた。
あいつはまだ生きていた。
だから待った。
ゾイは待っている。
僕が死ぬのを待っているんじゃない。食いたいわけでもない。
僕が何かをするのを待っている。
だが、もう長くはない。
もう長くは待てない。
口が開かれる。鋭い牙が近づく。次の瞬間には終わる。
でも。それでもまだ何かを、待っている。
終わるのであれば。
終わらせなければならない。
それが私だ。
ゾイ。
長い鼻先。銀色の毛並み。わずかに荒い呼吸。
そして金色の瞳。
その瞬間。
ああ。
そうか。
そういうことなんだな。
「イティカ」
ゾイはびくりとして動きを止めた。
そして口を閉じ、僕をまっすぐに見た。
震える腕を持ち上げる。剣はまだ握ったままだった。
重かった。情けないくらい重かった。それでもどうにか持ち上がった。
剣を抱きしめるようにして、胸の前に。
そして、切っ先をわずかに上へ向ける。
ゾイは待っていた。
僕は笑ってみせた。口からは血が溢れた。
私は理解した。
間に合ったようだ。
あいつらしい。
最後にはこうやって理解する。
だからあと一つ、待った。
もう一度だけ、呼吸をする。
空を見る。
村を思い出す。
母の匂いを思い出す。
妻と息子を思い出す。
あいつが小さかった頃を思い出す。
ともに過ごした日々を思い出す。
そして。
目を見る。
「……エティコ」
牙が届いた。
同時に。
剣が貫いた。
ー
私は覚えていた。
僕は忘れてしまったこともある。
長い時間だった。
あっという間だった。
悪くなかった。
幸せだった。
終わるのであれば。
そう望むのなら。
こう終わりたいと思った。
だからきっと。
私とあいつは。
僕らは。
分かりあえる。
対象09-1、09-2を消去。
終端を確定。
業務終了。




