記録09 僕らはきっと分かりあえる②
僕らは長い時間を旅した。季節は何度も巡った。
ゾイはそのたびに少しずつ大きくなり、僕は少しずつ剣を覚えた。
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村を出たのは、決して冒険がしたかったからではない。
あの村はもともと貧しい場所ではなかった。森も川も畑もあって、少し離れた場所には放牧地もあった。大人たちはよく働き、獣を狩り、冬に備えて肉や穀物を蓄えていた。
けれど悪疫のあとで村は大きく変わった。働ける者も家畜も減った。畑は荒れて薪も足りなくなって、冬を越すための話し合いが増えた。
その頃からゾイを見る大人たちの目も変わった。神獣の仔をいつまで飼っておくつもりだ。売れる時に売った方がいい。牙だけでも高く売れる。そんな話を僕は何度か聞かされた。
檻から出すようになると、ゾイは急激に大きくなっていった。僕の言うことを聞いて、村の人や家畜を襲うようなことは絶対になかったけど、立ち上がれば大人の胸ほどもあったし、餌もよく食べた。村に余裕があった頃ならそれでも許されたのだと思う。でもこの村にはもうその余裕はない。だからある夜、僕はゾイを連れて村を出た。
私はあいつと歩いた。
囲いはなくなった。
鎖もなくなった。
あいつは前を見ていた。
私は横を歩いた。
村の匂いが遠くなった。
母の匂いは、もうどこにもなかった。
旅の最初はひどいものだった。僕は森の歩き方を全く知らなかった。火の起こし方も下手だったし、食べられる草も、毒のある実も、川のどこで水を汲めばいいのかも分かっていなかった。ほとんど全部ゾイに頼っていた。
ゾイはよく僕の先を歩いた。時々振り返って僕がついてきているかを確かめる。危ない場所では立ち止まり、僕が追いつくまで待つ。だから僕は、ゾイが僕を守ってくれているのだと思っていた。
雨の日、僕はゾイの腹の毛に顔を埋めるようにして眠った。銀色の毛は少し硬くて獣の匂いがした。でも温かかった。ゾイは嫌そうに鼻を鳴らすこともあったけど、逃げることはなかった。
あいつは遅かった。
すぐ疲れる。
変な草を食べる。
せっかく持ってきた肉を吐き戻す。
私は何度か置いていこうと思った。
寒い夜、小さくなって震えていた。
目を離すと死にそうだった。
だから近くで待った。
旅に慣れてきた頃、僕らは大きな河原に何日か滞在した。水もあって見通しもいいし、近くに人もいない。ゾイを思いきり走らせるにはちょうどよかった。僕はそこで、檻の中ではできなかった合図を教えた。
枝を投げて「オフカク」
ゾイが走り、枝を咥えて振り回す。
「エオトマ」と呼ぶと、ゾイが全力で戻ってくる。
「オヒアック」で咥えていた枝を離す。
最初は遊びのつもりだった。でもあれはたぶん僕らにとって、とても大事な時間だった。ゾイは走るのが好きだった。河原の石を蹴散らしながら、銀色の体が風みたいに伸びていく。僕のもとへ枝を持ってくると、自分からお座りして僕を見上げ、その二股に分かれた長い尾を千切れんばかりに振り回した。ゾイが飽きるまでその遊びは終わらなかった。
広い場所だった。
走れた。
跳べた。
あいつは枝を投げた。
私は追った。
咥えた。
戻った。
あいつは喜んだ。
また投げた。
私はまた走った。
嫌ではなかった。
ゾイはさらに大きくなった。旅を始めた頃は、大きな犬と呼べなくもなかった。けれど二年、三年と経つうちに、そういう言い方では足りなくなった。
街や村に入るたびに人々はゾイを怖がった。無理もないと思う。
銀色の長い毛並み。細長い鼻先。人間の腰ほどもある肩。静かに歩いているだけでも十分すぎるほど異様だった。
それでも二、三日滞在すると少しずつ慣れる者もいた。
特に子どもは早かった。最初は泣く。隠れる。親の後ろから覗く。でもゾイが何もしないと分かると、今度は遠巻きに見るようになる。
ゾイは子どもをよく見ていた。耳を立て、鼻を鳴らし、じっと観察する。
僕は最初それを少し心配した。でもゾイは子どもへ飛びかかったことは一度もない。ただ見ていた。
子どもは小さい。
弱い。
転ぶ。
すぐ泣く。
昔のあいつに似ていた。
だから見ていた。
盗賊に襲われたこともある。最初に気付くのはいつもゾイだった。僕には何も分からない。普通の山道。普通の風。普通の森。でもゾイは立ち止まる。耳を動かす。鼻先を上げる。その時にはもう危険が近くにあった。
人間は殺す前に匂いが変わる。
鉄の匂い。
汗の匂い。
恐怖の匂い。
欲しがる匂い。
私はそれを知っていた。
一度、僕らは六人の盗賊に囲まれた。ゾイがいなければ死んでいたと思う。
僕は剣を抜いたけれど足が震えていた。人を斬ったことはまだなかった。斬らなければ殺されると分かっていても体はすぐには動かなかった。
ゾイは違った。吠えもせず、ただ低く姿勢を落とした。
僕が反射的に「キエトス!」と言うとゾイは飛び出した。速かった。
誰かが悲鳴を上げ、ほぼ同時に何人かの男が地面に転がった。ゾイは喉を噛まなかったけど、一歩間違えば相手は死んでいた。
戦いが終わったあと、僕はしばらく動けなかった。ゾイは僕の前に立ち、逃げていく盗賊達を見ていた。追おうとしていた。だから僕は声を出した。
「シ、シエス」
ゾイは止まった。その時、僕は初めて思った。僕が教えている合図は、僕らを守るためだけのものではない。人間を守るためでもあるのだと。
私は追えた。
殺せた。
でもあいつは止めた。
だから止まった。
あいつは殺したくなさそうだった。
そういうものかと思った。
その頃から、僕は自分の力についても少しずつ理解し始めた。ある街で初めて「テイミング」という能力の話を聞いた。
魔獣を連れ歩くなんて、お前さんはテイマーか?と話しかけてきたその人によれば、ごく稀に魔物を使役できる者がいるらしい。魔物の敵意を抑え、近付くことを許され、命令を聞かせることができる。僕はその話を聞いた時、すぐにゾイのことを思い浮かべた。
でも、それは違った。試してみてすぐ分かった。
森で出会った大きなカマキリのような魔物へ、意識して語りかけたことがある。そいつは襲いかかってくる寸前だった。僕は剣を抜きながら必死に落ち着けと念じた。すると、何かが繋がった感覚があった。
魔物は動きを止め、敵意が薄れ、こちらへ近付いてきた。試しに、その場で回れと言うと回った。座れと言うと座った。伏せろと言うと伏せた。まるで最初からそういう生き物だったみたいに迷いがなかった。最後に荷物を持てと言うと、その通りに荷物を持った。
便利だと思った。けれど少し気味が悪かった。その魔物は僕の言葉を理解しているわけではなかった。命令の意味を考えているわけでもなかった。ただ単に命令された通りに動いていた。ゾイには伝わらないような複雑な命令でも、僕自身が何をさせたいのかをはっきりイメージできていれば、迷うことなく従った。逆に言えば、それ以上のことは何もしなかった。
魔物が増えた。
大きいもの。
小さいもの。
空を飛ぶもの。
地面を掘るもの。
皆、あいつについて歩いた。
でも、何もしなかった。
あいつが言うと動いた。
あいつが言わないと動かなかった。
私はそれを見ていた。
私はあれらとは違った。
テイミングした魔物たちは、僕が待てと言えば待つ。進めと言えば進む。止まれと言えば止まる。でも命令しなければ、たとえ目の前に危険が迫っても動かない。
だから、僕はなるべく無理な命令をしないようにした。生息域から離れると調子を崩す魔物もいたから、そういう時は解放した。頭に手をのせて、自由にしていいと念じる。テイミングを解除するには、それだけでよかった。
解除すると魔物達はすぐ逃げた。森へ。空へ。穴の中へ。振り返るものはいなかった。どれだけ優しく接していたつもりでも、命令される生活なんて窮屈だったのだろう。自由になった瞬間に逃げ出すのは当然だと思った。
でもゾイは違う。ゾイだけは僕が命令しなくても動いた。僕が疲れていれば歩く速度を落とす。僕が気付くより先に危険を察知する。僕が火を消し忘れていれば鼻先で土をかける。僕が落ち込んでいれば黙ってそばにいる。
それにゾイは言うことをきかない事も多々あった。合図を無視することもあるし、眠たいのに起こされて遊びに付き合わされたこともあった。背中に乗ってみたいなと思って試した時なんかは本気で怒っていた。
僕はそれが嬉しかった。ゾイと僕は、あれとは違う。
僕らは一緒に生きている。そう信じていた。
あいつはよく私を見た。
だから私も見た。
あいつはよく転んだ。
だから待った。
あいつはよく忘れた。
だから代わりに覚えた。
あいつは他のやつらを帰した。
私は残った。
だからいた。
それだけだった。
そんな旅をどれくらい続けて来たのだろう。
僕らは最後に、この街に辿り着いた。




