記録09 僕らはきっと分かりあえる①
母が死ぬところを、私は見ていた。
その夜。村の大人達は松明を持って集まり、森の入口で横倒しになった巨大な獣を囲んでいた。皆その手に槍や鉈を持ち、返り血で服を汚していた。
それは銀色の毛並みをした巨大な神獣だった。罠にかかり致命傷を負って暴れていたため、やむなく仕留めることにしたらしい。背や腹には何本もの槍が深く差し込まれ、呼吸をするたびに血が溢れていた。飛び出した臓腑からは湯気が立ちぼり、村の者たちの熱気も相まって冬だというのに暖炉の側にいるかのようだった。
まだ幼かった僕は両親に付き添いその場にいた。そしてその神獣の目を見た時、自分が以前はここではない場所で生き、そして死んだことを思い出した。
大人達は騒がしかった。なんということだと嘆く者。高く売れるぞと笑う者。早く殺してしまおうと怯える者。
僕は松明の隙間を抜けて、その巨大な鼻先まで歩いていった。あの目を見ていると、なぜか近付かなければいけない気がしたのだ。神獣は閉じかけた目をゆっくりとこちらへ向けた。そして。
——我が子を。
言葉ではなかった。神獣が発したその音の意味を、僕だけが拾った。僕が頷くと神獣は一瞬だけ目を見開き、ゆっくりと白目を剥きながら横に倒れ込んだ。そして僅かに開いた口元から舌をだらりと垂らし、すぐに動かなくなった。
自らの死を、こちらへ示すみたいに。
母が死んだ。
血の匂いがした。
熱かった。
重かった。
光が入ってきた。
人間が大勢いた。
興奮した匂いを発していた。
私は唸った。
牙を見せた。
母の匂いが消えていく。
私は一人になった。
巨大な死体の下から小さな神獣が現れた瞬間、大人達がざわついた。神獣の幼体だ。いますぐ殺すべきだ。そんな声が飛び交う。
僕には狼の子どもみたいに見えた。その仔狼は唸りながら暴れていたけど、数人がかりですぐ押さえ付けられ縄を掛けられた。
「イティカ!」
僕は慌てて仔狼に駆け寄った。この仔狼は僕が預かる、僕が育てる、殺しては駄目だ。そう訴えた。今思えば子供の言葉だった。大人達は当然反対した。危険だ、これは魔物だ、絶対に懐かない。色々言われたが僕は引かなかった。こいつの母親と約束したからだ。
人間が、何かを叫び近付いてきた。
小さい。
弱い。
逃げない。
私を手に抱く。
母と同じ目をしていた。
私は噛まなかった。
そして。
私は狭い囲いへ入れられた。
最初の半年は、ほとんどただの獣と変わらなかった。家の外に組んだ檻に放り込み、さらに鎖で繋ぎ、柵越しに餌を投げ込んだ。野生動物を罠にかけたまま生かしておくだけのような扱いだが、あまりに凶暴なので本当にそれで精一杯だった。
仔狼は本当によく暴れた。村人達からはずっと嫌われていたし、家族にも何度も怒られた。それでも処分されなかったのはこいつの母が神獣の一種だったからだ。
神獣は長く生き、際限なく大きくなる。大きく育てば毛皮も牙も骨も高値で取引される。信仰の対象と考える者もいるにはいたが、実態はその希少性に対するラベルに過ぎない。人に懐くならそれだけで価値がある。そう考える大人もいた。
僕は毎日、檻へ通った。最初は本当に反応がなかった。呼びかけても無視されるし、近付けば唸られる。それでも話しかけ続けた。今日は何をした、何があった、そんな話。こいつの母親のように意味が通じる瞬間が来ると信じて疑わなかった。
私はよく暴れた。
柵を壊そうとして、何度も歯を立てた。
夜中に吠え続けて、石を投げられたこともある。
でも、あの人間だけは毎日来た。
小さい椅子を持ってきて、柵の前に座って、ずっと何かを語っていた。
私はそれらを全て無視していた。
時々、噛みつこうともした。
実際、何度か噛みかけた。
腕を引っ掻いてやったこともある。
それでもあいつは毎日来た。
さらに季節がふたつほど巡った頃。丸っこかった仔狼の顔立ちは母親に似て細長くなってきていた。いつまでも“仔狼”では呼びづらくなり、ゾイと名付けた。ボルゾイ犬みたいな顔だという安易な考えだったが、意外と悪くないように感じた。
同じ頃、僕はゾイに躾を始めた。
ゾイは僕の話にはほとんど興味を示さなかったけど、餌を持っている時だけは真面目にこっちを見る。最初はそれを少し寂しく感じたけど、ある時ふと思った。ゾイは人間じゃない。人間みたいに話しかけても通じないのかもしれない。だったら、もっと犬みたいに接してみたらどうだろう。
もちろん本当に犬だと思っていたわけじゃない。ただゾイは餌の匂いで耳が動き、機嫌が悪い時は低く唸り、嫌な相手には牙を見せる。犬っぽいと言えば犬っぽい。それなら、人間の会話よりもっと単純な合図の方が伝わる気がしたんだ。
肉の匂いがした。
私は空腹だった。
あいつは肉ではなく手を差し出してきた。
そして何かを言う。
同じ音を繰り返す。
知ったことか。
その手を噛んでやった。
悲鳴をあげて逃げていった。
肉は食えなかった。
意味が分からなかった。
翌日、あいつはまた同じことをした。
昨日とは違う手を振るわせながら差し出した。
知ったことか。
その手を噛んでやった。
また悲鳴をあげて逃げていった。
意味が分からなかった。
肉は届かないところに転がっていた。
また食えない。
そう思った時、あいつは戻ってきた。
お手は無謀だった。このやり方ではいつか指を食われてしまう。簡単に止血をしてから檻へ戻り、落とした肉を拾って砂や石ころを払い落とす。ゾイは柵から鼻を突き出し、低く唸りながら前脚で地面を掻いた。
僕はその状態でしばらく待つことにした。ゾイは次第に落ち着きを失い、やがて暴れ始めた。柵に噛みつき、体当たりして、吠える。視線は肉に固定されていた。
僕は今、ゾイの本能を邪魔している。腹が減っている獣を待たせるなんて、冷静に考えればかなり酷いことをしている気もした。でも人間の集団の中で生きるなら必要なことだった。村人達はゾイを恐れている。いつ飛びかかるか分からない獣を人間は絶対に受け入れない。だから僕は心を鬼にするしかなかった。
片手に肉を持ち、空いた手をゾイの鼻先で広げた。
「イティカ!」
ゾイの耳が少し動く。ゆっくり息を吸ってもう一度。
「イティカ」
肉を凝視していたゾイの視線が、ふと僕の目と重なった。
知っている音だった。
母が死んだ時。
こいつが叫んでいた音。
あの時、何が起きた。
何を意味する。
何を求めている。
……
やがてゾイの動きが止まった。低い唸り声は途絶え、逆立った毛並みが音もなく落ち着いていく。そして、その目は僕を見据えていた。
僕は一瞬、何が起きたのか分からなかった。少しして、待てが伝わったと理解し、慌てて肉を持つ手を柵に差し込んだ。肉ごと手を噛まれてしまった。
痛くてまた叫んでしまった。でも嬉しかった。何をしても変わらなかった僕らの関係が、ほんの少しだけど進んだみたいに感じた。
それから少しずつ、ゾイは合図を覚えていった。
『エティコ』は、時間がかかるかと思ったけど意外とすぐだった。
『アズカハ』これは更に簡単にできてしまった。
『シュカ』柵越しだけど、初めて無傷でゾイに触れた。
最初は全部、餌のためだったと思う。でも途中から少し違っていた。ゾイは僕を見て動くようになった。僕もゾイを見て次の行動を決めるようになっていた。
私は待つことを覚えた。
あいつの匂いが変わった。
私は座ることを覚えた。
あいつは嬉しそうな匂いを出した。
私は爪を使わず触ることを覚えた。
なるほど。
こいつはこれを喜ぶ。
吠えるより効率がよかった。
それに。
嫌ではなかった。
初めて檻の中へ入った日のことを覚えている。
正直かなり怖かった。もし飛びかかられたら、多分そのまま喉を食い千切られる。ゾイはもう子どもではなかったし、立ち上がれば僕よりずっと大きかった。それでも、いつまでも柵越しのままでは駄目だと思った。
両親がいない時を見計らって檻の鍵を開けた。柵の奥でゾイがゆっくり立ち上がる。銀色の毛並みが逆立ち、耳がこちらを向く。僕は喉が渇くのを感じながら、ゆっくり檻へ入った。
あいつが囲いの中に入ってきた。
初めてだった。
小さかった。
細かった。
噛めば折れそうだった。
私はあいつの周りをゆっくり歩いた。
匂いを嗅いだ。
血の匂い。
土の匂い。
少し怖がっている匂い。
でも逃げない。
あいつは震える声で音を出した。
「アズカハ」
私は座った。
怯える匂いが消えた。
僕はゾイの前へゆっくり手を伸ばした。噛まれない保証はなかった。でもゾイはただ僕の手をじっと見ていた。僕はそのままゆっくり頭へ触れた。硬い毛並みだった。少し温かかった。ゾイは動かなかった。
それからの躾は驚くほど順調に進んだ。ゾイは賢かった。僕の動きや視線を読むのが上手く、一度覚えた合図はほとんど忘れなかった。檻の中は狭かったけど、遊びもいくつか覚えた。いつか外で思いっきり遊ばせてやりたい。そんなことを思うようになっていた。
ー
その冬、村に悪疫が流行った。本当に一気だった。気付けば村の半分以上が寝込んでいて、毎日のように誰かが死んだ。
僕の両親も死んだ。前世を含めれば二度目の親との別れだった。不思議と涙は出なかったけど、何かが終わった感じだけがしていた。
埋葬を終えた足で、僕はゾイの檻に向かった。暗闇の中に浮かぶ目が僕を捉えていた。数日ぶりの対面だった。飢えに飢えたゾイは、殺気立った気配で唸りを上げている。
僕は餌も持たず檻へ入った。獣じみた唸り声を無視して近づき、首輪と鎖を解き放つ。そして僕はその場に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
「ゾイ。エティコ」
何を許可したのか、自分でも分からなかった。
私は外へ出た。
でも森へは行かなかった。
私がいた囲いの中に、あいつがまだいた。
ずっと一緒にいた人間だった。
悲しい匂いがした。
死の匂いもした。
私はその前へ座った。
あいつは長い間、黙っていた。
やがてその小さな手を、私の頭へ手を置いた。
「エシュ……エシュ。ゾイ」
その瞬間。
初めて意味になった。
言葉だった。
私は、あいつの声を理解した。
「エシュ。エシュ」
私とあいつは、
僕らは、
その日からずっと一緒だった。




