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記録08 ツキルとミチル④



「不思議な世界だね」


「え……なに?」


 ミチルの反応を無視して、“人型の黒い影”がゆっくり首を傾げる。

 細い指先が宙を払うと、黒い板のようなものが現れた。

 影は、手のひらサイズのそれを慣れた手つきで縦に持ち直す。


 ……携帯端末。


 その形と影の所作から、ツキルはそう直感する。

 だが、街灯の下で見てもそれは“黒い平面”にしか見えなかった。

 まるでこの世界がそれを正しく描写できていないみたいに。


 黒い影は、その表面を指で滑らせながら呟く。


「私の記録形式より、この世界の“物語形式”が優先される」


 指先が止まる。


「私も組み込まれてる」


 黒い影の口元がさらに緩む。


「黒い影。ふふ……」


 ミチルが半歩引く。


「ツキル、なにあれ」


「……」


「ゆ、幽霊?」


「分かりません……!」


 ツキルの声が掠れる。


「ミステリ小説の中。という感じかな、ここは」


 微かに風が吹き、霧が流れる。

 黒い影が周囲を見渡す。


「風、霧。こんな変化も拾うんだね」


「こいつ、なんの話をしてるの!?」


 ツキルの肩口を掴み、後退を促しながらミチルが叫ぶ。


 ツキルは答えられない、動けない。

 背筋へ冷たいものが走った。


 言わんとしている事には、察しが付いた。

 ツキルには心当たりがあった。


 だが。


 目の前の“それ”だけが、

 自分たちとは別の法則で動いている原理は分からない。


 黒い影は、ようやく黒い板から視線を外した。


 そして改めて、


「でも、貴女たちの方が不思議」


 二人を、いやツキルを見る。


「始まりを見せて」


 視界の奥で、何かが軋む。


 霧が遠ざかる。


 街灯が滲み、消える。


 代わりに、別の景色が浮かび上がる。







 朝、意識が浮上する瞬間が一番苦しい。


 体の中に冷たくて重い鉛が流れているみたいだ。

 指先ひとつ動かすのにも、ひどく時間がかかる。

 低血圧。

 朝という時間は、いつだって私を拒絶しているように感じる。

 けれど、まどろみの中に逃げることは許されない。


 重い瞼をこじ開けると、視界に入るのは色のない風景だ。

 ぎっしりと参考書が詰まった本棚。

 消しゴムの滓ひとつ落ちていない学習机。

 そして私が横たわるこのベッド。


 ……起きなきゃ。


 肺の奥に溜まった淀んだ空気を吐き出し、重力に抗って体を起こす。

 冷たい水で顔を洗い、髪を整え、制服に腕を通す。

 鏡の中の私は、一分の隙もなく、今日も「朔間さくま家の娘」の顔をしていた。


 ギシ、と微かな音を立てる階段を降りて、一階のリビングへ向かう。

 扉を開ける前に、一度だけ深く呼吸を整えた。

「おはようございます」

 食卓に座る両親へ、まっすぐに背筋を伸ばして挨拶をする。


 朔間 尽。


 尽きる、と書いてツキル。


 そんな名前を付けておきながら、両親は厳しかった。

 勉強。礼儀。振る舞い。

 失敗しないこと。

 間違えないこと。

 空気を読むこと。


 ずっと、“正しく”あることを求められていた。

 そういうものだと、疑問に思うことはなかった。

 ただ、私の正しさは、私を一人にした。


 だから私は、密かに友達を作ることにした。


 最初はただの空想だった。

 自分とは違う、明るくて、奔放で、朝から元気で。

 思ったことをすぐ口にして。

 考えるより先に行動して。

 誰とでもすぐに仲良くなれる。

 そんな女の子。


 その子は、私の行く場所ならどこへでもついてきた。

 放課後の教室、塾の階段、図書館の隅の指定席、風が吹き抜ける駅のホーム、夕暮れの道、本しかない自室。車に乗ればガードレールの上を、電車に乗れば線路沿いの建物を、まるで忍者のように軽快に走って。


 名前をあげた。

 いや、彼女の方から名乗ったのかもしれない。

 

 満。


 満たされる、と書いてミチル。


 当たり前だけど、満は私にだけ見えていた。

 満は私によく話しかけてきた。

 私は心の中で返事をした。


 それだけでよかった。


 だけど、いつからか







「うわっ!?」


 ミチルの声で、視界が引き戻される。


 霧。

 街灯。

 停車場通り。


 黒い影は、まだそこに立っていた。


「なに今!? なんか急に変な映像流れた!!」


 ツキルの呼吸が乱れる。

 冬だというのに、汗が吹き出す。

 これは、


「……記憶」


 黒い影はこくりと頷く。


「体は一つ。視座は二つ。記憶は共有。そして主体は……」


 そこで、黒い影は少し考え込むように黙った。


「ねぇ、さっきからそれ何なの!? 気持ち悪いんだけど!!」


 ミチルが吠える。


「ごめんね、不快にしたいわけじゃないの」


 影は、ここでようやくミチルへ応えた。


 ツキルの呼吸は乱れたまま、汗も止まらない。


 今のは、私の記憶だ。


 勝手に掘り起こされた。

 頭の奥へ手を突っ込まれたみたいな、不快感だけが残っている。

 恐ろしい。逃げ出したい。


 だが。


 それでも、思考だけは止めなかった。


 止めた瞬間、この“黒い影”に全部持っていかれる気がした。


 そして直感していた。


 たぶん、逃げられない。


 走っても。

 隠れても。

 振り切っても。


 この黒い影は、追ってくる。


 なら。


 いつものやり方でいくしかない。


 私は横目でミチルを見る。


 知らない相手と距離を詰めるのは、私よりミチルの方が上手い。


 ミチルが空気を動かし、

 私がそこから情報を拾う。


 朔間探偵社は、ずっとそうやってきた。


 相手が何であっても、やることは変わらない。


「……ミチル」


「な、なに?」


「アレと会話してください」


「えぇ!?」


「その間に、解決の糸口を探ります」


 ミチルが嫌そうに黒い影を見る。


 黒い影は、静かにこちらを見返している。


「放っといて逃げようよぉ」


「おそらく、無理です」


「うぅー」


 ミチルは珍しく駄々をこねていたが、やがておずおずと話し始めた。


「……えっと、お話し、しよっか?」


「うん」


 影はそれを待っていたかのように、軽く受け入れた。


「あ、なんて呼べばいいのかな?」


「私は、■■■」


 音が砕けるようにして抜け落ちた。


 わずかな沈黙を挟み、「では」と小さく呟き、続ける。


「名前は  だよ」


 今度はまた違った欠け方だった。

 その部分だけ、世界が受け取り損ねたみたいな。


 黒い影はそこで僅かに考え込む。


「どちらもダメ……じゃあ」


 まるで仮のラベルを貼るみたいに、あっさり言った。


「Aでいいよ」


「Aちゃん?」


「うん」


 黒い影——Aは、少しだけ嬉しそうに頷いた。


 ミチルがちらりとツキルを見る。


 ツキルも小さく頷き返した。


 少なくとも、“会話”は成立している。


 ミチルはまだ警戒した顔のまま、それでも恐る恐る口を開いた。


「あ、私ミチル。この子はツキル」


「ミチルちゃん」


「うん。えっと……Aちゃん、真っ黒だけど寒くないの?」


「寒さは感じないよ」


「あ、だよねー、黒いもんね」


「黒いのは関係ないよ」


「だよねぇ」


 どんな会話だ、と口を挟みそうになるのを堪えて、ツキルは思考を続ける。


「あー、Aちゃんは、ここで何してるのかなー?」


「貴女たちを見ていたよ」


「うぇ! は、張り込み!?」


 ミチルは半分引きつりながら、それでも会話を続ける。


「えーと……あっ、じゃあ探偵とか興味ない? サクマ探偵社、人手不足でさぁ」


「勧誘しないでください」


 我慢できず、ツキルが割り込んだ。


「だって怖いんだもん!! だったら仲間になってもらった方がいいでしょ!!」


 Aは、そこで少しだけ口元を緩めた。


「ミチルちゃんは面白いね」


「え?」


「“現在”へ戻す力が強い」


 ミチルは意味が分からないまま、「はぁ」と気の抜けた声を出す。


 Aは静かに続けた。


「普通、もっと記憶へ沈むのに。ミチルちゃんがいると“今”が先へ進む」


「え、なにそれ」


「周囲が、貴女を中心に動き始める」


 ミチルがなんとも言えない顔になる。


「それって褒めてる? それとも変人扱い?」


 Aは小さく頷く。


「うん。やっぱり珍しい」


「変人の方!? ツキルの方が変じゃない??」


「うん。でも、気になってるのはそこじゃない」


「え?」


「貴女の始まりは、ツキルちゃんの——」


「やめてください!!」


 ツキルが初めて強く遮った。


 Aが顔を向ける。


 ツキルはまだ汗を流しながら、それでもAを真っ直ぐ見返していた。


「それ以上、勝手に解体しないでください」


 一瞬。


 Aは少しだけ動揺したような動きを見せた。

 まるで、その反応自体が予想外だったみたいに。


「……次は私です。いくつか質問します」


 Aが応じる。


「うん」


「あなたは、人間ですか」


 Aは少し考えてから、静かに答えた。


「元は」


 ミチルが「うわぁ」と嫌そうな顔をする。


 ツキルは続けた。


「では、生きている?」


「生きてるよ」


「この世界の人間ではない」


「うん、違う」


 霧が流れる。

 街灯が滲む。

 Aの黒い輪郭だけが、やはりこの世界へ馴染まない。


「……目的は?」


「まずは記録」


「それは、私たちのことを知りたいという意味ですか?」


「そうだね」


「……私の記憶を見たのは、そのため?」


「そう。できれば続きを見せてほしい」


 そう言って、何故かAはミチルの方を見る。


「それが終われば、私たちは解放されますか?」


「解放されるのは、この世界の方かも」


 黙って聞いていたミチルが完全に顔をしかめる。


「わっかんない!!」


「私もです!!」


 会話になっているようで、決定的な部分だけが滑る。


 ——それでも。


 ここまでの情報をもとに、

 ツキルはその内心で状況を打開する策を構築していた。


 ——考えるな。


 言葉にするな。


 形にした瞬間、“読まれる”。


 ツキルは思考を押し殺しながら、必死に輪郭だけを掴もうとする。


 “読む側”だから、“演じる側”に成りきれない。

 この世界は、そういう異物を上手く処理できない。


 だったら、

 役割を与えれば。

 説明ができる存在にしてやれば。

 この世界に固定できるかもしれない。


 探偵。助手。犯人。怪異。


 この世界は、定義されたものを受け入れる。

 私たちが、そうであったように。

 そうなれば、“探偵”が対処できる存在になるはず。


 ツキルはまだ震えていた。

 でも、もう最初ほどではない。


 理解できないものを、理解不能のまま放置しない。

 それが探偵という、この世界の朔間ツキルだった。



 が、



「ツキルちゃんは構造へ潜る。構造を読む」


 Aは、例の黒い板に指先で触れながら、笑っている。


「ツキルちゃんは構造を利用する」


「どういう……」


「私も、構造を読むのが好き」


「…………あ」


 ツキルの背筋が凍る。


 今の思考の、

 どこまでが読まれた?


「でも、ごめんね。“怪異役”にされるのは嫌かな」


 黒い手がツキルに向けて伸びてくる。


 ぞわり、と全身が粟立った。


 また見られる。

 頭の奥へ潜り込まれる。


 そう直感した瞬間、ツキルは反射的に声を上げていた。


「やめてください!!」


 Aの手が止まる。


 ツキルは荒い呼吸のまま、Aを睨み返した。


「……話します」


「うん?」


「記憶を見せられるのは、不快です。私の口で説明しますから、勝手に読まないでください。お願いします」


 敗北宣言に近い、必死の懇願。


 ツキルは理解してしまっていた。

 Aを止めることはできない。


 自分は、この世界の仕組みを利用しようとしていた。

 だがAは、その仕組みに“外側”から触れている。


 “探偵役”が勝てる相手ではなかったのだ。


 Aは少しだけ静止し、「分かった」と静かに手を引っ込める。


 ミチルは何も言えなかった。


 ツキルが、自分から話す方を選んだ。


 それは探偵というより、

 追い詰められた犯人が観念して口を開く時の顔だった。




「……ミチルは、元々ただの空想でした」


 悪寒で全身が震える。

 心臓はまだ速い。


 Aは静かに耳を傾けている。


「現実世界で、私が作った、イマジナリーフレンドです」


「うん」


「この子は、私の行く場所ならどこへでもついてきた」


「……この世界へ来た時も、一緒だった」


 震えるツキルの背へ、ミチルがそっと触れる。


 ツキルは続けた。


「最初は、見えているだけでした」


「でも、この世界は“役”を求めた」


 ツキルの指先が小さく震える。


「私は探偵になった。ミチルは助手になった」


「そして役へ染まるうちに、ミチルは少しずつ“存在”を獲得していったんです」


 Aが小さく首を傾げる。


「体を持った、という意味?」


「……はい」


「最初は触れられなかった。でも今は、他人からも見える。触れられる。会話もできる」


 ツキルはそこで少し迷い、


 それでも言った。


「この世界が、“ミチルは存在する”と認めたからです」




 ツキルの“供述”はそこまでだった。


 静かな沈黙が落ちる。


 霧の向こうで、路面電車の鐘が微かに鳴った。


 Aはしばらく何も言わなかった。


 何かを確認するように、黒い板へ指先を滑らせる。


「……なるほど」


 ミチルが少し肩を縮める。


「え、なに」


「仮説が確信に変わりました」


 ツキルの呼吸が止まる。


「ツキルちゃんは構造を読む。構造を利用する」


 Aは静かに続けた。


「でもミチルちゃんは、その構造ごと引っ張る」


「構造を、書き換えてしまう」


 黒い影が、ゆっくりミチルを見る。


 最初から見ていた。


 でも今は、

 “観察”ではなく、

 “照合”するような向きだった。


「体は一つ。視座は二つ。記憶は共有」


「そして主体——この世界の主人公は、ミチルちゃん。貴女です」


 まるで「お前が犯人だ」と突き付けられた人間みたいに、ミチルの顔から表情が消えた。


「次は、貴女の話を聞かせて」



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