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記録08 ツキルとミチル③



 夜の停車場裏。夜露で濡れた石畳を、ミチルは全力で駆けていた。


 乱雑に置かれた荷運び用の木箱を飛び越え、倉庫の隙間を縫う細い路地を、影を振り切る勢いで突き進む。


 その後ろを、重い足音が追ってくる。


「いたぞ!!」

「回り込め!」

「こっちだ!」


 最初は二人だったはずだ。

 角を曲がるたび、背後の気配が増えている。


「ツキルー!! これ絶対“向こうから来てもらった方が早い”の範囲超えてる!!」


「静かに……してください……」


 ツキルは既に息が上がっていた。


「次、左……」


「はいよ!」


 ミチルは軽業師のような身軽さで、速度を落とさず角を蹴る。

 後ろで木箱が崩れる音。

 男が一人、飛び越えようとして盛大に突っ込んだらしい。


「ぎゃははは!!」


「前、見て……ください……」


 さらに路地を抜けると、視界が開けた。


 黒い川にかかる、ガス灯が並んだ古い鉄橋。


「渡ります……!」


「了解!」


 二人は鉄橋へ飛び込んだ。


 橋の上では足音がやけに響く。


 背後の男たちも、もう隠す気がない。


 ガス灯へ浮かんだ影を見て、ミチルの顔が引き攣った。


「増えてない!?」


「増えてます……」


「なんで!?」


「……派手に、やりすぎました……」


「あっれぇ!?」


 橋を渡り切る。


 石畳も、ガス灯も、街の匂いも変わる。


「要所は……超えました……」


「まだ追ってきてるけど!?」


「予定……通り……で……」


「今にも死んじゃいそうだよツキル!?」


 さらに角を曲がる。


「……あ」


 ミチルが止まった。


 路地の先は、高い煉瓦壁で塞がれていた。


 積まれた樽と木箱が逃げ場をさらに狭めている。


 ミチルは立ち止まり、肩で一つ息をした。


「ツキル、これさぁ……」


 数秒遅れて、男たちが路地へなだれ込んでくる。


 濡れた石畳を踏み鳴らしながら、じわじわと距離を詰めてくるその様子には、場数を踏んだ連中に特有の嫌なまとまり方がある。


 酒と煙草の臭いが、狭い路地へ一気に満ちる。


「随分と走らせてくれたなあ、探偵さん」


「もう逃げ場ねぇぞ」


 男たちは笑っていたが、目だけは笑っていない。


 ミチルはゆっくり前へ出る。


 その後ろではツキルが壁へ手をつきながら、ぜはぜはと息を整えていた。

 完全に限界の顔だった。


「……ミチル」


「んー?」


「三十秒……耐えてください」


「雑!」


 男の一人が踏み込んでくる。


 ミチルは真正面から飛び込んだ。


 低く潜り込みそのまま鳩尾へ拳を叩き込むと、鈍い呻き声と共に男の身体が折れ曲がった。


「ごっ……!?」


「うわ、思いっきり入っちゃった!」


「テメェ!!」


 別の男が横から腕を伸ばす。


 ミチルの肩が掴まれた。


 酒臭い息が近い。


「大人しく——」


「近い近い臭い!」


「ミチル!!」


 ——その瞬間。


 頭上を、黒い影が横切った。


 男たちがつられて見上げた先、瓦屋根の上に人影。


 夜風に揺れるインバネスコート。

 防寒具としては過剰なまでに長い白マフラーが、旗のように夜空へたなびく。

 頭には前後逆に被った鳥打帽ハンチング

 目に装着した丸レンズの航空眼鏡ゴーグルが月明かりを反射し黄色く輝く。

 さらにはその片腕に、大きな灰色のフクロウ。


 機能性と流行を詰め込んだ、トレードマークの大渋滞。


 自称、『ハイカラ理学士』。

 通り名は、『フクロウ探偵』。

 ミチル曰く『奇天烈マフラー』。


 それがこの男、梟野きょうのである。


 男たちがざわつく。


「なんだアイツ……」

「また変なのが増えたぞ」

「いや、あいつは飛び抜けて変だ!」


 ミチルが嫌そうな顔をする。


「うわ出た。マフラー長っ」


「冬場は冷える」


「いや毎回ちょっとずつ伸びてるって絶対」


 フクロウ探偵は真顔のまま答えた。


 ツキルは壁へもたれたまま、安堵の息を吐く。


「……やはり、来てくれましたね」


 その間もじっと男たちを見下ろしていたフクロウが、不意に音もなく羽ばたいた。


 次の瞬間、ガス灯が割れる乾いた破裂音と共に、路地が一気に暗くなる。


「うおっ!?」


「なんだ!?」


 混乱した男の顔面を、鋭い爪が横切った。


 悲鳴。


 掴まれていた腕が離されると、ミチルは即座に後ろへ飛び退く。


「フクロウちゃん、ありがと!」


 そしてその時、路地の入口側から笛の音が響いた。


「警察だ!!」


 怒号。


 駆け込んでくる足音。


 男たちの顔色が変わる。


「あっ、クソっ、別のシマの犬か!!」


「逃げろ!!」


 だが既に遅かった。


 制服の色が違う警官たちが、一気に路地へ雪崩れ込む。


 怒号と悲鳴が狭い路地へ反響する中、ツキルの肩からようやく力が抜けた。


「……成功です」


「最初からここまで込み?」


「警察は予定通りです」


 ツキルはそこで視線を上げる。


「そちらは、“お約束”ですが」


 黄色レンズの奥で、フクロウ探偵がわずかに目を細めた。




 その夜、停車場裏は酷い騒ぎになった。


 川向こうの警察が逃走犯追跡の名目でそのまま停車場通りへ雪崩れ込み、停車場裏の地下倉庫の捜索を開始したのだ。


 果たしてそこにあったのは、大規模な犯罪組織のアジトであった。

 

 地下賭場。

 偽造帳簿。

 人身売買の記録。


 積み上がる証拠に、これまで静かだった停車場側の警察も、流石に知らぬ顔はできなくなった。


 癒着していた警官も何人か引っ張られたらしい。


 停車場通りは数日間、昼夜問わず警笛と怒号が響き続けた。




 失踪者の何人かは保護された。


 だが、全員ではない。


 既に別の土地へ売られていた者。

 名前すら確認できなかった者。

 そして、死体で見つかった者もいる。


 小峰サヨの姉は、最後まで見つからなかった。




 数日後。


 停車場前の甘味屋『朝露』で、記者の三条は新聞を広げたまま呆れた顔をしていた。


「お前ら、本当に無茶苦茶やるな」


 羊羹を頬張っていたミチルが、すぐに口を挟む。


「結果オーライ!」


「お前はな」


 三条は半眼のまま視線を上げる。


「で? 本当はどこまで読んでた」


 ツキルはそこでようやく湯呑みに手を添えた。


「警察が動かない時点で、内部に何かあるとは思っていました。貴方も殆ど辿り着いていたように、見えないところに非合法な溜まり場があることは私たちの聞き込みでもほぼ確実でしたからね」


「だから派手に嗅ぎ回った?」


「はい。こちらから探すより、“向こうから来てもらう”方が早いので」


「で、川向こうまで引き連れて逃げ込んだわけか」


 ツキルは静かに頷く。


「あちらの警察も、ずっと機会を窺っていたんでしょう。最近は川向こうでも被害者が出ていたようですし」


「まぁ、それがなくても元々仲悪いからな。こっちとあっち」


「ええ。だから現行犯を押さえれば止まりません。追跡経路がこちらの管轄へ続いていれば、なおさらです」


 三条はしばらく黙ったあと、煙草を咥えた。


「探偵っていうか、お前それ半分囮捜査だろ」


「探偵です」


「探偵のやることかぁ?」


「でも上手くいったじゃん!」


 ミチルが口を挟む。


 三条は新聞越しに顔をしかめた。


「お前はもう少し危機感持て」


「でも今回も生きて帰れたよ?」


「そういうことじゃねぇ」


「ミチルがいるから、成立した作戦ではありましたね」


 ツキルはそこで少しだけ視線を落とした。


「……でも、全員は助けられませんでした」


 甘味屋の空気が、一瞬だけ静かになる。


 窓の外では、冬の停車場通りを路面電車がゆっくり通り過ぎていった。




 三条と別れ、甘味屋を出ると、冬の空気が一気に頬へ張り付いた。


 通りにはまだ薄く霧が残っている。


「うわ、さむ」


 ミチルが肩を竦める。


「さっきまで甘くて幸せだったのに」


「冬ですからね」


 ツキルが外套の襟を直した時。


「……朔間探偵社さん」


 少し離れた街灯の下に、サヨが立っていた。


 薄汚れた外套。

 胸元には、小さな紙袋を抱えている。


「あ、サヨちゃん」


 ミチルが軽く手を振る。


「こんばんは……」


 サヨは二人の前まで来ると、小さく頭を下げた。


 ツキルは先に口を開いた。


「……申し訳ありません」


 サヨが顔を上げる。


「お姉さんは、見つけられませんでした」


 どこかで風に揺れた看板が乾いた音を立てる。


 サヨは少しだけ黙ったあと、静かに首を横へ振る。


「……いいえ」


 その声は、もう最初に会った時ほど張り詰めてはいなかった。


「探してくれたこと、嬉しかったです」


 ミチルは少しだけ視線を落とす。


 ツキルも何も言わなかった。


 石畳を踏む夜警の足音が、遠くゆっくり離れていく。


 やがてサヨは、抱えていた紙袋を少し持ち上げた。


「本当は……最後に、お礼をしたくて」


「お礼?」


「はい。幽霊を」


「幽霊を?」


 ミチルが変な顔をする。


 サヨは困ったように笑った。


「もう、同じようにはできないんですけど」


 紙袋の中には、白い布や細いレースが入っていた。


「路面電車の灯りと、倉庫の窓ガラス、あとこの霧を使ってたんです」


 ツキルが小さく頷く。


「科学的幽霊ですね」


「え?」


「西洋の見世物小屋で使われる、“ペッパーズ・ゴースト”の一種です。反射角と光量で虚像を見せる」


 サヨは少し驚いたように目を瞬かせた。


「……知ってたんですか」


「推測です。白い幽霊が“現れて消える”のではなく、“特定の角度を通った時だけ見える”ようだったので」


 路面電車が通り過ぎる。


 前燈の照射が霧を横切り、一瞬だけ白布が淡く浮かび上がった。


 まるで、そこに誰かが立っているみたいに。


 ミチルが「おお……」と声を漏らす。


「うち、洋品店だったんです」


 サヨは白布を見つめる。


「お父さんが、そういう西洋の舞台装置を面白がってて。帝都で実物を見せてもらったこともあります」


「それを応用したんですね」


「はい。でも……」


 サヨは少し笑って、それから視線を落とした。


「先日の捜査で、窓も、鏡も、仕込んでたもの全部警察が持っていってしまったので。もう同じ幽霊は出せません」


「まぁ事件現場だしねぇ」


「はい」


 少しだけ沈黙が落ちる。


 やがてサヨは、小さく息を吸った。


「姉が幽霊を見たなんて、嘘をついてごめんなさい……」


 サヨの目を見たまま、ツキルは首を振った。


「停車場裏に何かあることまでは分かったのですが、警察も、街の人も、誰も動いてくれなくて、それで……」


「……幽霊騒動を起こしたことって、犯罪ですか」


 そうではないと分かっていながら、それでも確認せずにはいられない声だった。


 ミチルは即答する。


「怪談でっちあげ罪!」


「ミチル」


「あ、はい」


 ツキルは少しだけ考えるように目を伏せ、それから静かに口を開いた。


「貴女は、“見つけてほしかった”んでしょう」


 サヨの肩が、わずかに揺れた。


「……はい」


「なら少なくとも私は、依頼人を責める気にはなれません」


 踏切の警鐘が風に乗って響いた。


 サヨはしばらく俯いたあと、かすかに笑った。


 ようやく少しだけ、人らしい顔だった。


「……ありがとうございます」


 ミチルがぱっと笑う。


「どういたしまして!」


 サヨはもう一度深く頭を下げると、白布の入った紙袋を抱えたまま、ゆっくり夜霧の向こうへ歩いていった。




 停車場通りには、再び冬の夜だけが残った。


 しばらくサヨが去った先を眺めていたミチルが、ツキルに肩を寄せてつぶやく。


「ねぇツキル」


「なんですか」


「結局さぁ、幽霊って本当にいるの?」


 ツキルは少しだけ考えるように目を細めた。


「……幽霊なんていませんよ」


「お、言い切った」


「きっかけは依頼人です。でも、育てたのはこの街です」


「街?」


「噂を広げて、怖がって、勝手に形を与えた。怪談というのは、大体そういうものです」


 ミチルは「ふーん」と頷き、それから急に思い出したように顔を上げた。


「あっ」


「なんですか」


「依頼料もらってなくない!?」


 ツキルは数秒黙った。


「……もらってませんね」


「えぇーっ!?」


「まあ、依頼人に請求する状況でもなかったでしょう」


「いやでもうち普通に今月ピンチだよ!?」


「明日からまた頑張りましょうねえ」


「他人事みたいに言う!」


 ミチルが騒ぎながら歩き出す。


 ツキルは肩を竦め、その後を追った。


 停車場通りには、相変わらず薄い霧が流れている。


 ガス灯の光は滲み、石畳は夜露に濡れ、どこか遠くで夜警の拍子木が乾いた音を鳴らす。


 街はまた、何事もなかったように明日を迎えるのだろう。


 怪談も。

 失踪も。

 誰かの噂話として薄れながら。


 それでもきっと、この街ではまた新しい事件が起きる。


 そして朔間探偵社は、明日も変わらず騒がしく、それを追いかける。



 (朔間探偵社奇談 一:『停車場通りの幽霊』 了)







































 ふと、ツキルの足が止まる。


 街灯の向こう。


 薄い霧の中に、黒い人影が立っていた。


 最初は、誰かが立っているだけだと思った。


 夜学帰りの女学生か。

 夜更かしした書生か。


 そういう、この街にいくらでもいる、夜の影。


 だが。


「…………」


 ツキルは動けなかった。


 何かがおかしい。


 霧の中にいるのに、輪郭だけが妙にはっきりしている。


 黒い。


 街灯も、霧も、その黒だけを薄められない。


 まるで、人型の黒い空白。


 ミチルが数歩先で振り返る。


「ツキル?」


 ツキルは答えない。


 視線だけが、動かない。


 人影が歩き出した。


 石畳を踏む。


 だが、足音が妙に小さい。


 霧を裂きながら、真っ直ぐこちらへ向かってくる。


 ツキルの喉が、ひくりと鳴った。


「……ミチル」


 その声は、自分でも驚くほど低かった。


「あれを……」


「え?」


 ツキルの視線を追ったミチルが、ようやく異変に気づく。


 黒い影。


 女。


 ゆっくり歩いてくる。


「な、なにあれ」


 返事はない。


 ツキルの指先が、じわりと汗ばむ。


 逃げろ、と先に思った。


 だが脚が動かない。


 黒い影は、まるで独り言のように呟き始めた。




「体は、一つ」




 一歩。




「視座は、二つ」




 一歩。




「入力は同時」




 一歩。




「そして、魂は一つ」




 ツキルの思考が空転する。


 知らない。


 こんなものは知らない。


 怪談ではない。

 人間でもない。


 理解しようとするほど、思考が空滑りする。


「ツキル、これ……」


「分かりません!!」


 ツキルが声を荒げる。


 黒い影は、二人の目の前で足を止めた。


 顔は見えない。

 見えないはずなのに。


 ツキルには、その口元だけが微かに緩んだように見えた。




「貴女たちは、なにかな?」




 その声は静かだった。


 ただ、本当に不思議そうだった。


 霧が流れる。


 街灯が滲む。


 黒い影は、じっと二人を見つめている。




「どうして、そうなったの?」




 口元が、少しだけ笑う。




「どうやって始まったの?」




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