記録08 ツキルとミチル②
朝の光が、厚手のベロアカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
古書街の外れ。
路面電車の停留所から少し離れた場所に、その古い雑居ビルは建っている。
一階は輸入雑貨屋。
二階は空室。
三階だけが、夜逃げしかけたような雑多さで生き残っていた。
扉には、擦れた金文字で『サクマ探偵社』と書かれている。
事務所兼住居として使われているその部屋は、決して広くはない。
入口側には、応接用の机と古びた長椅子が置かれている。もっとも、実際に依頼人を通す時以外は、新聞や資料の仮置き場として機能していることの方が多かった。
その奥、背の低い本棚を境にして、二人の生活空間が広がっている。
片側の壁際には、本棚に入りきらなかった書籍が煉瓦のように積み上がり、その隙間へ赤線入りの新聞記事や地図が無造作に差し込まれている。空いた壁には、停車場通り周辺の地図、失踪記事の切り抜き、失踪者の名前を書き留めた紙片が、本人にだけは分かる順序でぺたぺたと貼られていた。机の上には、開きっぱなしの辞書、原稿用紙、万年筆、昨夜の夕刊、飲みかけの珈琲が積み重なり合い、探偵というより徹夜続きの書生がそのまま住み着いたような有様になっている。
反対側は、まるで別の部屋のようにミチルの領域が広がっていた。開きっぱなしの菓子箱。洋雑誌。色鮮やかな髪飾り。半分だけ読みかけの活動写真雑誌。椅子の背には外套が半分落ちかけ、机の端には誰かが食べかけたまま忘れた飴玉や片方だけの靴下が転がっている。
雑多な部屋だった。
だが、不思議と境界は崩れていない。
応接机から奥へ入った瞬間、この部屋にはさらに二つの領域が存在していることが分かる。
秩序立てて散らかったツキル側と、勢いで散らかったミチル側。
その境界だけを、本人たちは完全に理解しているようだった。
「起きてー」
布団の上へ、ミチルが勢いよく倒れ込む。
布団の塊が「ぐぇ」と呻いた。
「朝です」
「知ってます……」
布団の奥から、ツキルの声だけが返ってくる。
「知ってるなら起きる」
「人類に必要ですか、朝」
「必要だから毎日来るんでしょ」
ミチルは容赦なく布団を剥がした。
寝癖だらけの黒髪が現れる。
ツキルは半分だけ目を開け、そのまま力なく枕へ顔を埋めた。
「だめだこの探偵」
「まだ八時です……」
「もう八時!」
ミチルはカーテンを開き、さらに窓を開け放つ。
冬の朝日と空気が部屋へ流れ込み、紙束の端をぱらぱらと揺らした。
遠くで、路面電車のベルが鳴っている。
「今日は聞き込み!」
「分かっています……」
「あと新聞社!」
「分かっています……」
「あと停車場!」
「分かっていますから、揺らさないでください……」
ミチルに肩を掴まれ、ツキルの頭がぐらぐら揺れる。
それでも布団へ戻ろうとする辺り、本気で朝に弱いらしい。
ミチルは呆れた顔で腰に手を当てた。
「なんで朝になるとこうなるの?」
「夜行性なので」
「猫?」
「あなたは逆に、なぜ朝から動けるんですか」
「ん〜?」
ミチルは少し考える。
「元気じゃない時がない!」
「全天候型ですね」
「なにそれ」
ツキルはようやく身体を起こし、ぼんやりした目で机へ視線を向けた。
昨夜追加した夕刊記事が、失踪者の名前を書き込んだメモの上へ重なっている。
『停車場通りに現れる白い女——また失踪者か』
その見出しを眺めるツキルの目からだけ、少しずつ眠気が消えていった。
「……ミチル」
「ん?」
「今日、多分忙しくなります」
ミチルは既に外套へ腕を通しながら振り返った。
「じゃあ早く準備しなよ、名探偵」
ツキルは小さく溜息をつき、ようやく布団から足を下ろした。
冬の朝の路面電車は、吐く息まで白かった。
古書街の停留所へ滑り込んできた車両は、深緑色の塗装を朝日に鈍く光らせながら、軋むような音を立てて停車する。
ミチルは軽い足取りで飛び乗った。
「はやくはやく」
「電車は逃げません……」
ツキルはまだ半分眠そうな顔のまま、外套の襟を押さえて後ろへ続く。
車内には、朝の市場の熱気を外套に纏った買い出し帰りの人々や、隅々まで読みふけった朝刊を折り畳む男たちが疎らに座っていた。
窓の外を、古書店の並ぶ通りがゆっくり流れていく。
軒先に積まれた洋書。紙の匂い。煤けた看板。
時折、横道から市場の余韻を運ぶ威勢のいい声が、電車の軋み音に混じって通りへと溢れ出していた。
「眠い……」
ツキルがぼそりと呟く。
「まだ言ってる」
「昨夜は記事整理をしていたので」
「いつも三時くらいまで起きてるじゃん」
「あなたは帰宅して早々に寝たでしょう」
「寝た!」
胸を張るミチルに、向かいの老婦人が思わず吹き出した。
ミチルはすぐに気づき、にこっと笑う。
「おはよーございまーす!」
「あらまあ、元気だこと」
「全天候型なので!」
ツキルが顔を覆った。
「その言葉、気に入ったんですか……」
路面電車が橋を渡る。
川面の白い光が、車窓へちらちら反射した。
やがて停車場通りの停留所が近づくと、ミチルは吊革を掴んだまま窓の外へ顔を寄せた。
「今日もいるかなー」
「幽霊ですか? まだ明るいですよ」
「昼でもいるかもじゃん」
「昼間に出たら、いよいよ怪談ですね」
電車が止まる。
降りた瞬間、停車場の鐘の音と、人々の喧騒が押し寄せてきた。
夜とは別の街だった。
荷物を抱えた客夫。
新聞売り。
煙草の煙。
湯気を上げる屋台。
霧の街だった昨夜とは違い、昼の停車場通りはせわしなく人が流れている。
「よー、サクマ探偵!」
八百屋の店主が片手を上げた。
ミチルも即座に振り返す。
「おはよー!」
「この前は助かったぜ。弟んとこの財布の件よ」
「だからあれ旦那さんが隠してたんだって!」
「はっはっは!」
店主は笑いながら、蜜柑を二つ投げて寄越した。
ミチルが片手で受け取る。
「やったー」
「謝礼金代わりですよ、それ」
「現物がうれしいね!」
ツキルは小さく息を吐きながら手帳を開いた。
「停車場周辺で、最近変わったことは?」
「変わったことぉ?」
店主は顎を擦る。
「まぁ、白い女の話ばっかだな」
「見たんですか?」
「いやぁ俺ぁ見てねぇ。でも、夜にゃ客減ったよ」
「失踪者については?」
「……そっちは、あんま喋りたがらねぇな皆」
店主の声が少しだけ低くなる。
「なんかある?」
「さぁなぁ。ただ、最近の夜中にここいらをうろつく連中は、ろくな顔してねぇ」
言いながら、店主の視線が一瞬だけ停車場裏手へ流れる。
ツキルはそれを見逃さない。
その横で、ミチルはもう別の店へ向かっていた。
「こんにちはー!」
「お、ミチルちゃん!」
今度は古書店の老人だった。
「新しい洋雑誌入ったぞ」
「ほんと!?」
「聞き込みをしてください」
ツキルが即座に引き戻す。
「えー」
「あと先月の分を読んでからにしてください」
「読んでるし!」
「積んでいます」
「積んでるだけ!」
古書店の老人がけらけら笑う。
「相変わらず賑やかだなぁ、お前さんら」
「平和担当なので!」
「あなたは騒音担当です」
そんな調子で、二人は停車場周辺を歩き回った。
煙草屋。
屋台。
車夫。
新聞売り。
ミチルがまず笑わせ、懐へ入り込み、ツキルがその隙に必要な話を拾っていく。
そのやり方は、妙なほど噛み合っていた。
そして、昼を回る頃には。
「……つかれた」
停車場脇のベンチへ、ツキルがぐったり凭れ込んだ。
ミチルはまだ元気だった。
「えー、まだ半分くらいじゃん」
「あなた基準で世界を測らないでください……」
「軟弱探偵〜」
「昨夜から動き続けているんですが……」
ツキルはそう言いながらも、手帳へ視線を落とす。
共通点はいくつか見え始めていた。
失踪者の多くは、停車場周辺で最後の足取りが曖昧になっている。
そして——
停車場裏手の話になると、誰もが少しだけ声を潜めた。
彩鏡新報の社屋から少し離れた場所に、その喫茶店はあった。
煉瓦造りの細い建物の一階。
曇ったガラス窓。
昼間だというのに薄暗く、店内には珈琲と煙草の匂いが沈殿している。
新聞記者や作家崩れがよく使う店だった。
ミチルは入口へ入るなり顔をしかめた。
「けむい」
「記者の巣ですからね」
「巣って言うな」
窓際の席から声が飛ぶ。
新聞を片手に座っていた男が、気怠そうに手を上げた。
三十代半ばほど。無精髭。袖口にはインク染み。
彩鏡新報の記者、三条だった。
「おはよー三条!」
「昼だ馬鹿」
ミチルは勝手に向かいへ座り込む。
ツキルも軽く会釈し、その隣へ腰掛けた。
三条は二人を眺め、呆れたように煙草を揺らす。
「で。今度は何を嗅ぎ回ってんだ、サクマ姉妹」
「そちらが依頼人を回したんでしょう」
「まぁな」
三条は肩を竦めた。
「小峰サヨ。あれ、お前ら向きだと思った」
「変な奴らだから?」
「変な奴らだから」
ミチルが机を叩く。
「風評被害!」
「今さらだろ」
三条は平然と珈琲を飲んだ。
ツキルは手帳を開く。
「停車場裏について、何か」
「直球だな」
「時間が惜しいので」
三条は少しだけ視線を細めた。
店内では蓄音機が掠れた音楽を流している。
その奥で、食器の触れ合う乾いた音が響いた。
「……最近、裏手に変なのが増えてる」
「変なの?」
「仕事の無い連中。賭博屋崩れ。用心棒。あと、どっから流れてきたか分からん顔」
「地下組織?」
「そこまでは知らん」
三条は煙草を灰皿へ押しつける。
「ただ、警察も妙に静かだ」
「癒着ですか」
「証拠はねぇよ」
そう言いながらも、三条は否定しなかった。
ミチルが身を乗り出す。
「じゃあやっぱり黒じゃん」
「お前はすぐそういうこと言う」
「だって怪しいし」
「怪しいだけで飛び込むな。死ぬぞ」
三条の声だけ、少し低かった。
ツキルはその言葉を聞きながら、窓の外を見た。
停車場方面へ向かう人の流れ。
昼間の街。
だがその下に、何か別の流れがある。
そんな感覚があった。
「小峰姉妹については?」
三条が少しだけ眉を動かす。
「そっち気になるか」
「気になります」
「元々、停車場通りで洋品店やってた家だ。輸入布やレース扱ってた」
「洋品店」
三条はそこで肩を竦める。
「両親が死んで潰れたがな」
ミチルが少しだけ黙る。
三条は続けた。
「それからは姉妹二人で細々暮らしてたはずだ。その姉の方が消えちまったんだってな」
ツキルは静かに手帳へ視線を落とした。
白布。
レース。
霧。
停車場の灯り。
昨夜、サヨは言っていた。
“待っているみたいだった”と。
「……ツキル?」
ミチルが小さく呼ぶ。
ツキルはゆっくり顔を上げた。
「ミチル。今日の聞き込み、少し派手に続けましょう」
「派手に?」
「ええ」
三条がそこで嫌な顔をした。
「お前、まさか」
「こちらから探しに行くより、向こうから来てもらった方が早い」
「おい」
「停車場裏へ踏み込むには、まだ情報が足りません」
ツキルは静かに珈琲へ口をつける。
「ですが、“探られて困る側”は既に存在している」
三条は深く溜息をついた。
「……その顔、お前もう半分くらい答え見えてんだろ」
「まだ仮説です」
「その段階のお前が一番怖ぇんだよ」
ミチルは椅子を引きながら、テーブルの端へ置かれた角砂糖をひとつ摘み取った。
「三条またね! ……変なやつってツキルのことだよね?」
「行きますよ、ミチル」
三条は去っていく二人の背中を見送りながら、小さく煙草を噛む。
「どっちもだろ……」
喫茶店の扉が閉まり、冬の街のざわめきが再び二人を飲み込んだ。




