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記録08 ツキルとミチル①



 午前零時を告げる鐘が、停車場通りの夜気を震わせた。


 古びた煉瓦造りの停車場は、昼間こそ人で賑わうものの、終電を過ぎればまるで別の建物のように静まり返る。石畳は霧に濡れ、街灯の明かりは白く滲み、遠くを走る路面電車の残響だけが、眠りきれない街の気配として残っていた。


 停車場前の甘味屋『朝露』は、そんな夜でも灯りを落とさない数少ない店だ。


 暖簾をくぐれば、湯気と餡の甘い匂いが鼻をくすぐる。店の奥で年老いた店主が黙々と湯を沸かし、小机が並ぶ店内では夜更かしの客たちが流行りの雑誌や新聞を片手に噂話を交わしていた。


 賑わいから離れた窓際の隅、笠の低い電球がオレンジ色の光を溜めている席に、目を引く姿があった。


 一人は、黒髪を肩口で揃えた細身の少女。机の上へ新聞を広げ、冷めかけた珈琲にも手をつけず、黙々と記事を読み比べている。


 もう一人は、その向かいで頬杖をつき、不満そうに頬を膨らませていた。


「だからさぁ、絶対あの人、自分で変なとこ入れてたって」


 皿の上の羊羹を箸で突きながら、ミチルは不満げに唸る。


「畳ひっくり返して、棚まで動かして、三時間だよ? それが最後、帯の内側から出てくる!?」


「出てきましたね」


 向かい側の少女——ツキルは、赤鉛筆で線の引かれた夕刊から視線を上げずに答える。


「“盗まれた!”って騒ぐ前に、自分の腹見ろって話じゃん。帯から出てきた時の顔、見た?」


「気恥ずかしそうでしたね」


「腹立つ〜……」


 ミチルは新しい羊羹へ箸を伸ばす。


「依頼料は受け取ったでしょう」


「安い」


 即答だった。


 ツキルは小さく溜息をつき、新聞をめくる。


 記事の隅には、誰かが事前に引いた赤線が残っていた。


『停車場通りに現れる白い女——また失踪者か』


 新聞社の記者が直接持ち込んできたものだ。


 最近、この街では“幽霊”の噂が広がっている。


 深夜十二時。

 停車場通りに、白い女が現れる。


 それを見た者は、数日以内に姿を消す。


 もちろん、噂には尾ひれがつく。


「目が合うと連れていかれる」

「声をかけられた」

「死んだ恋人を待っている」


 挙句の果てには、


「女に呼ばれた奴は、自分からついて行く」


 などという話まで出回り始めていた。


 だが、妙なのはそこではない。


「ねぇツキル」


「なんですか」


「この幽霊さぁ」


 ミチルは湯呑みを両手で包みながら、窓の外の霧を眺める。


「なんか、“うらめしや〜”って感じじゃないんだよね」


「どういう意味ですか」


「もっとこう、“絶対見ちゃダメなやつ”じゃなくてさ。むしろ見てほしいっていうか」


「……」


「あと、“いた”っていうより、“待ってた”って感じ」


 ツキルはそこでようやく新聞を畳んだ。


 ミチルは時々、妙な方向から核心を触る。


「現在までの失踪者は六名」


 ツキルは静かに言う。


「ただし、その全員が幽霊を見たという確証はありません。“見たらしい”という噂が、後から付着している可能性があります」


「でもさ」


 ミチルは湯呑みを両手で包みながら、窓の外を眺める。


「なんかあるよね、これ」


「……あるでしょうね」


 ツキルも否定しなかった。


 幽霊かどうかは別として、この街のどこかで人が消えている。


 それだけは事実だった。


 しかも警察の動きが妙に鈍い。


 記事は毎日のように出ているが、怪談欄の延長のような書き方ばかりで、捜査情報も深くは載らない。


 新聞社も、“事件”として踏み込むには、何かを警戒しているようだった。


 まるで、“深入りするな”と言われているかのように。


「そういうの、嫌い」


 ミチルが小さく呟く。


「分かりにくいやつ」


「あなたは分かりやすい方が好きですからね」


「ツキルは?」


「分かりにくい方が、後で面白いです」


「うわ、探偵っぽ」


 その時だった。


 店の戸が開き、冷たい夜風が入り込む。


 客たちが一瞬だけ視線を向ける。


 入ってきたのは、小柄な少女だった。


 古い外套。

 濃紺のマフラー。

 そして、眠っていない人間特有の、少し乾いた目。


 少女は店内を見回し、やがて窓際の二人へ視線を止める。


「……朔間さん、ですよね」


 ミチルが先に反応した。


「はい、サクマ探偵社でーす」


 軽い調子で手を上げる。


 少女は少し安心したように息を吐き、席の前まで歩いてきた。


「お願いがあります」


 ツキルは静かに椅子を引いた。


「座ってください」


 少女は、湯気の立つ茶を両手で包みながら、自分の名前を「小峰サヨ」と名乗った。


 年齢は十七。


 停車場通りから少し外れた長屋で、姉と二人で暮らしていたという。


「姉は、三週間前にいなくなりました」


 サヨは俯いたまま続ける。


「警察には言いました。でも、“家出だろう”って」


「違うの?」


 ミチルの問いに、サヨはゆっくり首を振る。


「姉は、そんな人じゃありません」


 そこで一度、言葉を止めた。


 言うべきか迷っている顔だった。


「……いなくなる何日か前に、“白い女を見た”って言ってました」


 店の奥で、湯の沸く音が小さく鳴る。


 ツキルは静かにサヨを見る。


「どのような話でしたか」


「停車場通りに立ってたって」


「声をかけられた?」


「いえ。ただ……」


 サヨは、自分の指をぎゅっと握った。


「“待ってるみたいだった”って」


 ミチルとツキルの視線が、一瞬だけ交差する。


 さっきミチルが口にした言葉と、ほとんど同じだった。


「姉さん、それから変だったんです」


 サヨは続ける。


「何回も窓の外を見たり、夜になると落ち着かなくなったり……。最後の日なんか、“また会いに行かなきゃ”って」


「それで出て行ったきり帰ってこないと」


「……はい」


 窓の外を、路面電車の灯りがゆっくり横切っていく。


 サヨは、しばらく湯気の立つ茶を見つめていた。


 話し終えて少し冷静になったのか、最初より呼吸が落ち着いている。


「……新聞社に行ったんです」


 ぽつりと、彼女は言った。


彩鏡新報さいきょうしんぽう?」


 ミチルが羊羹を口へ運びながら聞き返す。


 サヨは頷いた。


「でも、同じような話が毎日のように届いてるって」


「でしょうね」


 ツキルは頷く。


「今、この街で一番売れる怪談でしょうから」


「記事にはなる。でも、人は戻らない」


 サヨは俯いた。


「それで、記者さんに言われたんです。“だったら朔間を頼れ”って」


 ミチルがぴくりと反応する。


「おっ」


「“最初は変なのが来たと思うだろうが、まあ慣れる”って」


「誰!? 絶対あいつじゃん!」


「今回は仲介料から名誉毀損分を引きましょう」


「“でも信用できる”って言ってました」


 サヨはそこで、ようやく少しだけ笑った。


「だから来たんです。……正直、少し怖かったけど」


「実際会ってみたら?」


 ミチルが身を乗り出す。


 サヨは困ったように笑う。


「……いい人でした」


「聞いたかツキル」


「“変な奴”は、あなたのことでしょうね」


「えぇ? そこはどう考えてもツキルじゃん」


「依頼人が見ていたのは、あなたの方でしたよ」


「ひどくない?」


 ミチルがけらけら笑う。


 ツキルは小さく息を吐き、冷めた珈琲へようやく口をつけた。


 サヨは、そのやり取りを見ながら、少しだけ肩の力を抜いているようだった。


 ここへ来るまで、かなり緊張していたのだろう。


 ツキルは新聞を閉じ、机の端へ揃える。


「依頼は受けます」


 その言葉に、サヨの表情が強張る。


「……本当に?」


「ええ。ただし今日は遅い」


 ツキルは窓の外を見た。


 霧はますます濃くなっている。


「今から動いても、得られる情報は少ないでしょう。調査は明日から始めます」


「なので今日は帰宅! 寝る!」


 ミチルが勝手に締める。


 サヨは慌てて頭を下げた。


「あ、ありがとうございます……!」




 店の外へ出る頃には、鐘の音も止み、停車場通りはすっかり静まり返っていた。


 濃い霧の中、ガス灯だけがぼんやりと滲んでいる。


 サヨは外套を抱き寄せるようにしながら、小さく会釈した。


「……姉を、お願いします」


「小峰さん」


 ツキルが呼び止める。


 サヨが振り返った。


「あなたは、幽霊が本当にいると思っていますか」


 霧の向こうで、遠く路面電車の軋む音がした。


 サヨは少しだけ黙り込み、それから静かに答える。


「……いてくれた方が、まだ納得できます」


 その言葉に、ミチルの表情から笑みが消える。


 ツキルも、何も返さなかった。


 サヨはそれ以上何も言わず、小さく頭を下げると、霧の向こうへ足早に歩き去っていった。


 しばらく、その背中を見送ったあと。


「ツキル」


「ええ」


 ミチルが珍しく真面目な声を出す。


「あれ、“幽霊だった方がマシ”って意味だよね」


「でしょうね」


 ツキルは静かに頷いた。


 霧の向こう、停車場の鐘が風に揺れている。


 この街のどこかで、誰かが消えている。


 そしてそれは、怪談で片付けられるほど綺麗な話ではない。



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