記録07 記憶の代打、代打の記憶②
「お前が神の類いなら、この世界に何が起きたか分かっているだろう」
この世界のことも、あなたのことも、何も知らない、と答える。
「夜の帳だぞ、知らんのか」
「知らない」
舌打ちが返ってきた。
「……前段から話す。お前はただ聞け」
私は、これがどのように記録されるのかを注視する必要がある。
彼が語るに任せてみることにする。
深いため息を一つ挟み、彼は語り出した。
「この世界は、夜に喰われかけていた」
「最初は遠くの話だった。眠ったまま起きない奴がいるとか、夜が明けない村があるとか、そういう噂だ」
「だが、それが少しずつ近づいてきて、自分のところにも来るって、誰でも分かるくらいにはなっていた」
「人だけではない。獣も、魔物も。木々や精霊さえも。夜に侵された場所では、やがて全てが眠りにつくという」
「夜の帳。そういう現象なのだとされた」
「恐怖と混乱で国中が荒れた。他の国も同じような状況だと聞いた」
「その頃になって、神を名乗る者が現れた」
「世界の四方に点在する塔に火を灯せばいい。ただそれだけだと言われた」
「雑な言葉だった。なぜ俺なのかも分からなかった」
「だが、やることが決まってるならそれで十分だった」
それは本当にそうだったと思う。あの時の俺は、迷っていなかった。
迷う理由を、まだ持っていなかった。
「一つ目の塔までは順調だった」
「道も覚えていたし、何をするべきかも分かっていた。自分がなんで歩いているのか、それもはっきりしていた」
「影に触れるまでは」
あれは見えない。形もない。
夜の闇から滲み出た、不可視の怪異。
ただ、触れると分かる。
「中を触られる」
そうとしか言いようがなかった。
「触れた瞬間に、何かが抜ける。理由とか、目的とか、そういうものなのだろう」
「気づいたら、分からなくなってた」
「なぜ歩いているのかも、どこに行くのかも」
「それでも体は動く。歩くことだけが残る」
そして、止まってしまった。
「二つ目の塔を目の前にして、終わった」
全部なくなって、ただ立ってるだけだった。
「その時だ。彼女は来た」
「中に、入ってきた」
外から来たというよりは、俺の内側にぽんと置かれたような感覚。
「例の神が連れてきた。俺に同行させる、異界の魂だと」
「それだけ言って去った。どういうことなのか、まともに理解させる気はなさそうだった」
「だが、それ以上に……よく分かんねえもんを置いてったと初めは思った」
彼女が発した最初の言葉を覚えている。
『あぁん? なんだこの湿気たツラは』
『シャキッとせえよ、イケメンが台無しじゃんか』
頭の中で、はっきり聞こえた。
妙に近い距離で。
こんなものを引き連れてどうしろというのだと、その時は思ったのだがな。
「彼女は……こいつは、覚えてた」
俺のことも、塔のことも、火のことも。
俺が何をしようとしていたのか、それを全部知ってるみたいに話した。
『あー、もう! うちが覚えといてやるから、あんたは前だけ見てな!』
「だから任せた」
俺は忘れる。こいつが覚える。
「それで進めた」
実際、それで進めた。
影に触れても、止まらなくなった。
理由は分からなくても、進む方向だけは残った。
ただ辿り着き、ただ火を灯す。
理由は、こいつが俺の代わりに持っててくれたんだ。
「……でもな」
「こいつが、減っていった」
最初は、うるさかった。
頭の中でずっと喋ってた。くだらないことばっかり。
こんびにの肉まんがどうとか、誰々のカレシがこうだとか。
そんなことを言って笑っていた。
意味は分からなかったが、軽かった。
中にいるのに、重さがなかった。
「影に触れるたびに、何かやってた」
何をどうしていたのかは、正確には分からない。
ただ、触れた後に、少し静かになる。
俺がそうであったように、記憶を抜かれていたのだ。
ただし俺とは違った。
それはどうやら、選択的に行われていたようだった。
『クソ親父にぶん殴られた時のやつをやるよ。ぶん殴り返した時のもついでに持ってけ』
『歌詞とかメロディでもいいのか? まぁ持ってけ、持ってけ』
『うち、勉強嫌いだしさ。余計なもん無い方が軽くていいんだわ』
そういうことを言っていた。
軽い調子で、たいしたことじゃないように。
「名前は、覚えてる」
「こいつの名前も、俺の名前も」
それは失っていない。
「でも、こいつは」
「呼ばなくなった」
最初から呼んでいなかったのか、途中でやめたのかは分からない。
「それでも、旅は止めなかった」
『いいから進めって。止まる方がだりぃだろ』
その言葉は、最後まで変わらなかった。
こいつは、分かっていたんだと思う。
俺の代わりに、自分が削られていることを。
分かっていたんだ、最初から。
……そうに決まっている。
そうじゃなきゃ、あんなことはできない。
「四つ目の塔に火を灯した時、終わった」
夜は消えた。
光が戻った。
「その時、全部思い出した」
俺が何をしていたのか。
何を忘れていたのか。
そして、こいつが何をしていたのか。
「だが、こいつには何も残ってなかった」
声も、言葉も。
たぶん、名前も。
どれだけ語りかけても、もう返事はない。
「だから、俺が覚えてる」
こいつの分まで、全部。
俺だけが、こいつの全部を覚えている。
「世界を救った英雄だと、人々は俺を称えた」
「だが、そうじゃない」
「臆することなく全てを捧げ、俺の記憶と目的を守り抜いた」
「本当の英雄は、自らを犠牲にしたこいつなんだ」
そして、少しして分かった。
こいつが、離れていく。
そうなると分かっていたわけじゃない。
だが、そうなるしかないのだろうと、妙な納得はあった。
あれだけ削られたら、残る方がおかしい。
「だから、ここに来た」
この場所を選んだ理由は、特別なものじゃない。
ただ、こいつが終わるのなら、きっとここが良い。
他にあるはずがない。
「しばらく待ってたら、こいつは出てきた」
目の前に、浮かんでいた。
最初からそこにあったみたいに。
「軽かった」
もう、ほとんど残っていなかった。
当たり前だ。
全部使ってきたんだから。
残っている方が間違っている。
「名前は、呼ばなかった」
呼ぶ必要がなかった。
こうなってしまっては、もう。
「そして、神が来た」
いつもと同じ奴。
姿も、声も。
やることも。
「それを置いていけと言われた」
まあそうなるだろう。
こいつの役目は終わっている。
使い終わったものを回収するだけだ。
そういう話だ。
だがな、
「できるわけがない」
「こいつがやったことを考えれば、ただ置いていけるわけがない」
理由は単純だ。
この旅を成立させたのは、こいつだ。
俺じゃない。
俺はただ動いていただけだ。
こいつが覚えていたから、続いた。
こいつが差し出したから、保たれた。
だから、
「本当の英雄は、こいつだ」
それで終わらせるべき話だ。
「……だから、拒否した」
当然だ。
「意味はなかったと思う」
「でも、それしかなかった」
神はそれ以上何も言わなかった。
最初から、話す気もなかったんだろう。
「代わりに言われた」
「すぐに誰かが来る。それに渡せ」
だからここで待っていた。
こいつを、手放さないまま。
「……そして、お前が来た」
男の視線がこちらに向く。
「これで終わりだ」
そのまま、何も言わなかった。
語りは終わっている。
記録としても、形式としても、問題はないように見える。
ただ、いくつか過剰な断定が含まれている。
観測されていないはずの内面。
確認されていないはずの動機。
それらが、躊躇なく確定されている。
信頼性に、軽微な揺らぎ。
しかし、それによって構造が崩れているわけではない。
むしろ、その補完によって整合性は強化されている。
結果として、この記録は成立している。
これが一体、誰の記録なのかは…… 私が決められるものではない。
そう判断して視線を上げる。
「記録できたよ」
男は、何も言わない。
私は、彼の手の中に残されたそれに意識を向ける。
揺らぎはあるが、応答はない。
思念経路はまだ維持されている。
もう一度だけ、試す。
今のお話しは、正しい?
少し言い方を変える。
これをあなたの記録にするよ。
それでいい?
沈黙。
やはり、反応はない。
ここで切り上げよう。
これ以上続けても結果は変わらない。
処理に移る。
「……待て」
何かを察したのか、男の声が入る。
「こいつを、どうするつもりだ」
答えは決まっている。
だが、そのまま言っていいのか、わずかに迷う。
「……回収対象なの」
言葉を選んだつもりだ。
「そのままにはできない」
男の反応を見る。
やはり、理解ではなく拒否の方向に動く。
「こいつは、この世界を救ったんだぞ」
声が強くなる。
「四つの塔を回って、あの夜を止めた」
「……うん」
一度、肯定する。
事実としてはそうなのだろう。
「それを消すっていうのか」
ここは、外せない。
「……消す、というよりは」
言い換えようとして、止まる。
適切な表現が見つからない。
「処理しないと、いけなくて」
結局、そこに戻る。
「ふざけんなよ……」
「元の世界に戻すとか、そういうことはできねえのか」
「こいつは、どっか別のとこから来たんだろ」
「終わったなら、それで終わりにするんじゃなくて——」
そこで言葉が詰まる。
適切な言い回しが見つからないのか、それとも、そもそも前提が共有されていないことに気づいたのか。
「……残すべきだろ」
曖昧な結論。
でも、その後の意思は明確だった。
男がこちらに向き直る。
強い視線。
敵意、殺意。
ロングコートに隠されていた武具に片手をかける。
私の姿は見えていないはずだが、こちらの位置は捕捉されていると考えるべき。
この世界の『英雄』に抜擢されたほどの男だ、私はすでに間合いなのだろう。
この状況も初めてだ。
現地個体が対象の処理にここまで強く干渉するケースは、想定されていない。
とは言え、彼が私に危害を加えることは、スキルの効果でおそらくできない。
無力化する方法もある。
強引に彼女を奪うことも、造作もなく出来てしまうだろう。
彼の了解がなくても、問題なく進めることもできる。
——だけど、それでいいのか。
……考え方を変えよう。
私は認識阻害を解除して、姿をさらけ出す。
対話するしかない、と思った。
その意思表示のつもりだった。
男の動きが止まる。
視線が落ちてきて、初めてしっかりと目が合う。
理由は分からない。
だけど、その瞳から敵意が抜け落ちていくのを感じた。
「……彼女を、引き渡して」
命令ではなく、お願いに近い形。
「ここには、残せないの」
少しだけ、間を置く。
「戻すことも、できない」
男の反応を待つ。
沈黙。
理解してはいない。
納得もしていないはずだ。
それでも、
「……そうかよ」
男の声が落ちる。
「じゃあ、最初からそう言えよ」
目を逸らしながら、そう吐き捨てる。
それに対しては、何も返さない。
返す言葉がない。
やがて、男の手が開く。
「連れてけ」
私はそれを受け取る。
ほんの僅かに軽い気がした。
男は背を向け、そのまま丘を降りていった。
振り返らない。
そのまま、やがて草原の端へと消えていった。
その後も、しばらく待機していた。
この世界の神が接触してくる可能性を僅かに期待したのだが、風が強まるばかりで結局現れなかった。
今回の記録については、これで対象のものとして扱われるはず。
そうなっていればいいのだけど。
現地個体の関与が強い点については、別件として保留する。
転写の残存が確認された場合、再調査を検討。
そうならなければ、いいのだけど。
対象07を消去。
終端を確定。
業務終了。




