第十一話_安楽な彫刻
慈眼の五入道において、最も「安楽」を説くのが楽眼寺である。
苦痛からの解放、心の平穏、現世の欲望からの解脱――。
その甘美な教えは、過酷な現実に喘ぐ京の民衆にとって、抗いがたい救いの福音であった。
しかし、その実態は信者の安寧を食い潰し、寺の肥やしとする偽りの楽園。
本堂には常に脳を痺れさせるような甘い香が漂い、緩やかな木魚の音が催眠のように響いている。
夜の帳が降りた今も、堂内では多くの信者が座禅を組み、恍惚とした表情で法師の言葉に酔いしれていた。
中心で説法を行うのは楽眼法師。
丸々と肥えた肉体を金糸の法衣に包み、顔には福々しい満面の笑みを張り付かせた男だ。
「…さあ、心の目を開かれよ。この世の全ては幻想。苦しみも、悲しみも、喜びも、全ては移ろいゆく夢に過ぎぬ。汝ら、ただ身を委ねれば、真の安楽が得られよう。」
信者たちが夢見心地で頷き、意識が法師の甘言に絡め取られていく。
その静寂を、場にそぐわない異質な声が裂いた。
「…真の安楽?それって、生きながらにして全てを忘れ去る、『人形』になるってことかなぁ?」
本堂の奥、闇に紛れるようにして一人の男が立っていた。
竹のように細長い痩身。
能面を思わせる無機質な面構えの中で、瞳だけが琥珀色に怪しく明滅している。
楽眼法師は、不躾な乱入者に不快げに眉をひそめた。
「何奴?」
「おひょひょひょひょっ!ボクちゃんは君たちを『完成』させに来たんだよ。さぁ、綺麗になろうねぇ…!」
男の名は義吉。
伊多田鬼屋の刺客『蝋人形の義吉』である。
義吉がゆっくりと両手を広げた瞬間、彼の周囲から白く濁った霧が溢れ出した。
それは線香の煙とも、法師が焚きしめる香とも違う。
ねっとりと重く、肌に纏わりつく「気化された蝋」の奔流であった。
「な…なんだ、これは!体が…動かん!」
最前列の僧兵が、引きつった悲鳴を上げた。
霧に触れた彼の腕は、瞬く間に乳白色の硬質な層に覆われ、陶器のような光沢を帯びていく。
変異は表面だけに留まらない。
気化した蝋は口から、鼻から、毛穴の全てから深部へと浸透し、内外から強制的に固定していくのだ。
「な、何が起きた!?」
次々に上がる断末魔に、楽眼法師が狼狽して叫ぶ。
義吉はその光景を、玩具箱をひっくり返した子供のような無邪気な笑みで眺めていた。
「さぁ、もっと楽しく踊って!完成した時にいろんなポーズを取っててくれないと、ボクちゃんつまんないよぉ!」
狂気に満ちた童謡のような声が、本堂の梁に反響する。
霧は意志を持つ生き物の如く信者たちを包み込み、一人、また一人と「人形」へ変えていく。
人々は恐怖に顔を歪ませ、逃げ場のない硬直に悶えながら、永遠という名の静止した地獄へと堕ちていく。
「や、やめろ!貴様、何者だ!?」
法師は慌てて巨体を揺らし立ち上がろうとしたが、その脚はすでに床と一体化するように固まり始めていた。
「どうしたんだぃ、そんなに怯えて。ここは楽眼寺でしょ?もっと、楽しもうよぉ!」
「やめろ、やめろぉ!怪物め!」
法師は最後の抵抗として、手にした数珠を投げつけようとする。
しかし、振り上げた右腕は肘までが蝋に侵食され、乾いた音を立ててその位置で固着した。
「怪物だなんて心外だなぁ。ボクちゃんは、みんなを永遠にしてあげてるだけだよ?ほら、その見苦しい脂身を、ボクちゃんの綺麗な蝋でコーティングしてあげる!」
義吉は、熱を帯びた霧を吐き出す香炉を法師の鼻先に突きつけた。
法師の絶叫は、喉の奥が固まるにつれて籠もった呻きへと変わり、やがて完璧な静寂が本堂を支配した。
そこには、絶望と快楽が混ざり合った歪な笑みを浮かべたまま、巨大な「蝋の彫像」へと成り果てた法師の姿があった。
「おひょひょひょひょ!完璧だよ!最高の出来栄えだよ!」
義吉は満足げに手を叩くと、硬直した信者の一人に歩み寄り、その冷たく硬い頬を指先で愛おしげに撫でる。
「みんな、とっても幸せそうだね。ずっとずっと、このまま飾っておいてあげるからねぇ…。」
琥珀色の瞳が、完成したコレクションを慈しむように輝く。
堂内を見渡せば、数十の人間が生きているかのような精巧さで、しかし一切の脈動を失った蝋人形として並んでいる。
その光景は、戦慄を覚えるほどに美しく、吐き気を催すほどに悍ましい。
「さて、義彦も今頃は怒眼寺の参拝を終えた頃かな?もう少しこの芸術作品を見ていたいんだけど…凛と清十郎に会いに行かないとねぇ。」
義吉は名残惜しそうに本堂を後にした。
彼の背後には、月光を浴びて乳白色に光る、永遠に目覚めることのない「安楽な地獄」が静まり返っていた。




